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◆このブログの写真は当サイト製作者の撮影によるものですが、それだけでは全てを紹介しきれないため、大正から昭和初期に発行された当時の書籍・建築関連の雑誌・新聞等の記事・図版を一部転載しております。またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。 なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 ◆当ブログ製作者は、建築業や建築学に携わっていない、素人研究家です。建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。そのつど御指摘していただければ幸いです。 ◆本ブログ掲載の写真および図版、記事内容の無断転用はご遠慮ください。但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません(大した写真では御座いませんが・・・・)。もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。 ◆また本ブログの記事内容と関連のないコメント、トラックバックは削除させていただく場合もございますので、予めご了承ください。 **************** ★excite以外のリンク --------------------- ❖『ギャラリー村岡』のjirojiro junction ❖分離派建築博物館 ❖収蔵庫・壱號館 ❖新・我愛西安、観光と生活情報 ❖なんだか函館 ❖建築ノスタルジア ❖トロンボーン吹きてっちゃんの独り言 ~函館応援プログ~ ❖虚数の森 Forest of im aginary number ❖ウイリアム・メレル・ヴォーリズ展 in近江八幡 ❖MEGU 「めぐ」を究めよう ❖建築日誌 ❖ありがとう 明石小学校舎☆幼稚園舎 ❖中央区立明石小学校の保存活動 ❖近代建築青空ミュージアム タグ
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![]() ・・・・昭和3年築、横浜ベイスターズの施設として使われる美しいレトロビル 人気低迷が指摘される、昨今の日本プロ野球。しかしながら近年では地域に密着したチーム作りや、女性や子供に配慮した各球団のファンサービスなどが功を奏し、多くの球団の観客動員数は過去最高を記録するまでになった。以前のようにゴールデンタイムの地上波テレビ放送こそ無くなったが、どこの球場の試合も多くの観客で賑わっている次第である。 その中でも首都圏の野球チームで、目を見張るほどの人気上昇を果たしているのは、間違いなく横浜DeNAベイスターズだろう。 昭和53(1978)年の横浜スタジアム完成以来、横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズの本拠地として横浜に根を下ろしてきた同チームだったが、正直なところ平成10(1998)年に日本一になった前後を除いては、実力・人気とも今一つだった。 しかし平成23(2011)年秋に、ネットサービス会社のDeNAが親会社になって以来、様々な企画やチーム強化で人気は右肩上がり。今では横浜スタジアムでおこなわれるゲームは、全試合ほぼチケットが完売する程の人気を誇るようになった。 またDeNAは、ベイスターズの本拠地である横浜スタジアムを実質的な子会社化とし、本格的な改修を開始したほか(コミュニティーボールパーク化構想)、スポーツタウンのパイロットプログラムとして一軒の歴史的建造物の再生を手掛けることになった。それが日本大通りに建つ〔THE BAYS〕。冒頭の写真でご覧いただいた、茶褐色のスクラッチタイル張りの建物がそれである。 横浜スタジアムと目の鼻の先の場所にある、この建物は昭和3(1928)年に大阪に本社を置く、日本綿花の横浜支店として建てられたものである。戦後、財務局や労働基準局の庁舎として使われていた建物を、平成15(2003)年に横浜市が取得する。 そして平成26(2014)年に建物の活用事業者を公募し、9つの会社・団体の中から横浜ベイスターズの案が当選し、約1年の改修工事を経て、平成29(2017)年3月にTHE BAYSはオープンした。館内はベイスターズ関連のアパレルショップとカフェーレストランのほか、球団オフィスやスポーツジム、シェアオフィスが入居している。 さて野球の本場であるアメリカのボストン・フェンウェイパークや、シカゴ・リグレーフィールドなどの、オールドボールパークの近くに建っていても、何の遜色のないレトロでシックなビルディング、設計を手掛けたのは建築家の渡辺節(1884~1967)である。渡辺は明治41(1908)年の帝国大学卒業後、韓国や鉄道院の勤務を経て大正5(1916)年に大阪で自身の建築事務所を開設させた。 大正中期から大阪・神戸・東京・横浜を中心に、オフィスビルの設計で活躍する渡辺だったが、その活路として参考としたのが、この当時アメリカで多く建てられていた近代的オフィスビルだったのである。渡辺は大正9(1920)年と大正11(1922)年に、欧米への建築視察旅行をおこなっている。 その結果、大阪商船神戸支店(神戸、大正11年築)、日本興業銀行本店(東京、大正12年築)、大阪ビルヂング(大阪、大正15年築)、大阪ビルヂング東京分館(東京、昭和2年築)、日本勧業銀行本店(東京、昭和4年築)、綿業会館(大阪、昭和6年築)といった傑作を次々と発表していく。 その中で制作したのが日本綿花の横浜支店だった訳だが、他の作品と比較すると小規模である。しかし渡辺の目指した、アメリカンオフィス建築のエッセンスが濃縮された、とても見所の多い作品ではないかと考えるのである。 明治29(1886)年に東京の旧制一高と、横浜の外国人野球クラブYACAが、日本初の国際試合をおこなった横浜スタジアムのある横浜公園。その隣接した土地に建つアメリカ風のオフィスビルディングを、ここを本拠地とするプロ野球チームが、再生活用を始めたというのは、とても感慨深い気持ちにさせられる。 プロ野球人気の復活といえども、圧迫感を感じる密閉型ドームや、広大過ぎるファールグランドのため臨場感の欠けるスタンドや、広告だらけの球場内など悪い面ばかりがやたらと目についてしまうのも事実。そのような流れの中で、町の歴史との融合を始めた横浜DeNAベイスターズの今後の活動に、注目してみたいものである。 ![]() ◎設計:渡辺節 ◎施工:佐伯組 ◎竣工:昭和3(1928)年3月 ◎構造:鉄筋コンクリート造4階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市中区日本大通34 ❖横浜市指定有形文化財(THE BAYS) ❖横浜市認定歴史的建造物(中区役所別館) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() こちらのローマ数字のエンブレムは、建築年を表すものと言われている。十数年前にビル周辺の側溝が埋められたが、今回のリノベーションに際しこちらも復元された。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 外壁はスクラッチタイル貼り。 More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2018-06-30 13:30
| ◆昭和モダン建築探訪
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![]() ・・・・大正15年築、ドイツ表現主義の影響を受けたモダンな電話局舎 冷たい風が吹くものの、綺麗に晴れ渡った2月中旬の土曜日、久しぶりに横浜を訪ねた。今回は普段のみなとみらい線の駅ではなく、横浜市営地下鉄の伊勢佐木長者町という駅で下車し、街歩きをスタートすることにしたのである。 伊勢佐木町といえば、市街地の北東から南西を貫く、古くから知られる横浜の老舗商店街。かたや長者町は市街地の北西から南東を貫く、歓楽街からビジネス街までが揃っているとても雑多な街。伊勢佐木町に長者町、ともに横浜の中心地として知られるこの町だが、江戸初期までこの界隈は入海で、吉田新田として明暦2(1656)年から寛文7(1667)年にかけて干拓により造成された土地であった。 そのように干拓された昔日が嘘のように、現代的な街が続く伊勢佐木長者町の界隈。そして地下鉄の駅出口の近くには、冒頭の写真でご覧いただいた一軒のレトロビルディングが建っている。これが今回紹介させていただく、旧横浜中央電話局長者町分局である。 建物隅部のアールが印象的なこの建物は、関東大震災発生から間もない大正15(1926)年3月に竣工したもので、震災復興建築の一つと言える作品だ。ちなみに現在この建物は、NTT東日本の関連会社のオフィスとして使われている。 レトロ感はあるものの、外壁が修繕されているせいかあまり古さを感じない、旧横浜中央電話局長者町分局。しかし郵政博物館のデジタルアーカイブで公開されている、長者町分局が竣工して間もなくに撮影された写真を見てみると、竣工当時の姿がほぼ保たれているのが分かる。 玄関口や窓が比較的小さめに取られているのは、電話交換局という建物の用途上からそのような作りになったのだろう。また細い柱が短い間隔で配置されているのは、大正12(1923)年9月に起きた関東大震災を教訓に、耐震性を考慮しこのような作りになったようだ。 レトロと新しさが交錯し、その正体が不明な感もある横浜長者町の電話分局。この作品を設計したのは、東京帝国大学卒業の逓信技師・上浪朗(うえなみあきら、1898~1975)である。 上浪は大正11(1922)年の大学卒業まもなくに逓信省に就職。以前にも紹介したように、当時の逓信省は電話普及に伴う庁舎の建設ラッシュで、多くの建築家・技師を必要としていた時期である。また上浪が逓信省に入った頃には、岩元禄(1893~1922)、吉田鉄郎(1894~1956) 、山田守(1894~1966)、中山広吉(1896~1987)といった、東京帝大の先輩たちが既に逓信省に入省し、大正時代らしいとてもモダンな庁舎を多く制作していた。そのような先輩建築家の活躍を見ながら、逓信省に入って4年目の上浪が制作したのが、横浜長者町の電話分局だったのである。 大正14(1925)年の起工当時、27歳の若さだった上浪が制作した横浜中央電話局長者町分局。一見すると控えめなデザインだが、ドイツ表現主義の影響が少なからず見られる仕上がりになっている。ただ山口県下関市に現存する、旧下関電話局電話課庁舎(現下関市立田中絹江ぶんか館、大正13年築)のような華やかさはない。 しかし真面目な印象すら受ける堅実な作りは、上浪ののちの名作・旧芦屋郵便局電話事務室(兵庫、昭和4年築、現芦屋モノリス)、旧姫路電信局別館(兵庫、昭和5年築、現姫路モノリス)の登場を予感させてくれる。一見すると地味さを感じたが、撮影を進めるうちに上浪のセンスの良さを感じるようになった。 その存在は以前から知っていたが、今年になって初めて訪れた横浜の逓信建築。昨年の4月に神戸とその周辺を旅行したさい、上浪朗設計の姫路・芦屋の旧電話局にすっかり魅せられ、上浪作品の虜になってしまった筆者である。 横浜長者町のかつての電話局舎は、大正時代らしい優雅さを持ち合わせた、若さ溢れる美しい建築作品で、筆者の期待を裏切らないものであった。これだけの作品なのだが、国や市の文化財指定を受けていないのが、不思議なくらいの傑作。この先も末永く生き続けて欲しいと思ってしまった、とても素敵な大正建築であった・・・・。 ![]() ◎設計:上浪朗(逓信省営繕課) ◎施工:不詳 ◎竣工:大正15(1926)年3月 ◎構造:鉄筋コンクリート造2階建て ◎所在地:横浜市中区長者町5-60 ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2018-03-17 00:17
| ◆大正モダン建築探訪
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◆旧住友家俣野別邸 ・・・・・昭和14年築、住宅設計の名手が手掛けた和洋折衷のモダン邸宅 爽やかな秋晴れとなった9月下旬のある日、電車を乗り継ぎ訪れたのは横浜市戸塚区の東俣野だった。横浜の観光名所である、関内・みなとみらい・中華街・山手地区には時おり出掛ける筆者であるが、戸塚の東俣野に立ち寄るのは今回が初めてであった。 戸塚の隣町にあたるJRの藤沢駅から、旧東海道を走る路線バスに乗り換え、今回の目的地へ向かう。遊行寺坂という緩やかな坂を上るにうちに、道は徐々に高台へとさしかかり、最寄りのバス停である鉄砲宿に到着した。ちなみに鉄砲宿という地名は、東海道の宿場があった訳ではなく、この地に出没する大蛇を、猟師が鉄砲で退散させた伝説に由来するものだという。 そのような大蛇伝説が嘘のような、現代的な洒落た住宅街が広がるこの周辺だが、バス停のすぐそばには緑が鬱蒼と広がる庭園がある。これが本日の目的地、俣野別邸庭園である。住友財閥の16代当主である、住友吉左衛門(住友友成、1909~1993)の東京近郊の別邸として造成された土地である。 その庭園内には、とても美しい邸宅が一棟建っている。それがこの日の東俣野を訪れた最大の目的である、旧住友家の俣野別邸だ。戦時色の強くなった昭和14(1939)年に、住友総本店の営繕課にも在籍した経験を持つ、建築家の佐藤秀三(1897~1978)の設計・施工により建てられたものである。 この邸宅は戦後も住友家の邸宅として長らく使われていたそうだが、平成12(2000年に相続税の対象として国に物納。そして横浜市の管轄となった平成16(2004)年には、和洋折衷のモダンな邸宅の美しさが評価され、国の重要文化財にも指定された。実はこれまで幻の洋館だった旧住友家俣野別邸だったが、国指定重文指定とともにその存在が公になったのである。 そしてその4年後には公開に向けた修繕工事が始まる。しかし工事が開始された矢先の平成21(2009)年3月15日には、不審火により邸宅が全焼してしまう。それに伴い、国の重要文化財の指定も解除されてしまったのである。 またこの頃、神奈川県内では横浜ゆかりのアメリカ人建築家:J・H・モーガンの自邸(藤沢市) 、戦後の名首相・吉田茂の自邸(大磯町)などが、不審火により全焼してしまっている。いまだ犯人は明らかになっていないが、何ともやりきれない気分にさせられた数年前の歴史的建造物に怒った連続放火事件だった。 このまま過去の記憶の遺産として、消えてしまうと思われた旧住友家俣野別邸だったが、所有者である横浜市は残された部材を活用し建物の再建を決定。当時の設計図に基づいた3年がかりの再建工事がおこなわれ、今年(2017)年4月から待望の一般公開が始まった。また火事で焼けてしまう前のオリジナルの邸宅を尊重し、ほぼ忠実な再建工事がおこなわれたそうである。 なお再建された邸内は有料公開エリアのほか、カフェエリア、貸スペースとしても使われている。 そして邸内は和風をベースとしながら、モダンな要素がふんだんに使われたとても美しいものになっている。この邸宅の設計者である佐藤秀三作品は、秋田県由利の生まれ。大正3(1914)年に山形県米沢工業学校を卒業後、住友本店の営繕課に入社し住友関連の建築設計を手掛ける。住友退社後は白鳳社の勤務を経て、昭和4(1929)年に設計・施工を一手に手掛ける自身の建築事務所を開設したところだった。 佐藤秀三作品は、3年前に東京小金井市の旧中村研一邸(昭和34年築)を紹介させていただいたが、この俣野別邸も周辺の地形や自然環境と共存させた作りになっている。訪問前筆者は、かなり高台に建つこの邸宅の立地に疑問を持っていたが、サンルームから眺められる丹沢山系や富士山の山容や、湘南からの爽やかな海風を感じると、住友友成がこの場所を気に入り、住宅設計の名手に美しい邸宅を建てさせたかが分かったような気がした。 一度は焼けて無くなった美しい邸宅を、復元させた関係者の方々の熱い思いを感じるこの作品。是非とも多くの人に周辺の環境と調和した、この美しい邸宅を見学して頂きたいものである・・・・。 ![]() ◆旧住友家俣野別邸 ◎設計:佐藤秀三 ◎施工:直営 ◎竣工:昭和14(1939)年 ◎焼失:平成21(2009)年3月15日 ◎再建:平成28(2016)年3月 ◎構造:木造2階建て ◎所在地:横浜市戸塚区東俣野町80-1 ❖横浜市認定歴史的建造物 ![]() ![]() こちらが東海道から1分ほど歩いた場所にある正門。地元の鎌倉石が門に使われている。 ![]() ![]() ![]() ![]() 建物西側にあたる庭側の部分。玄関側と同様2階には、梁を露出させたハーフティンバーが用いられている。 なお建物先端の先は崖になっており、その先には丹沢山系や奥多摩や秩父の山々、富士山が望めることができる。 ![]() ![]() モダニズムの影響を感じるサンルーム。こちらからの眺めは後ほど紹介させて頂きたい。
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by sy-f_ha-ys
| 2017-10-14 07:14
| ◆昭和モダン建築探訪
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![]() ・・・・・昭和2年竣工、山手の高台に建ついぶし銀のアール・デコ調モダン建築 前回の横浜市イギリス館(旧英国総領事公邸、昭和12年築)の記事内でも紹介させて頂いたが、横浜の元町地区と山手の丘へのアクセスを格段に改善させたのが、みなとみらい線の元町・中華街駅にあるアメリカ山公園へのエスカレーターとエレベーターの設置。みなとみらい線開通前は、山手から元町地区へ上り下りするルートと言うのは、バスであったり徒歩であったり、まちまちだったような気がするが、最近人々の動きはアメリカ山公園へと集中している感が強い。 そのような新たな施設のオープンを意識してか、横浜市もそれに関連した再開発を幾つか行っている。例えば山手のメインストリートとも言える、山手本通りのアメリカ山公園入口脇の旧税関施設の跡地に、ブラフ99ガーデンと言う小公園を造成し、一昨年オープンさせている。この隣にある外人墓地に関しては以前のままだが、この界隈も雰囲気がかなり変わったような気がする。 そしてこれらの再開発のお蔭で、以前は隠れるように建っていた、山手のいぶし銀の建築作品が表通りからよく目立つようになった。その作品とは、現在は横浜地方気象台として使われている、旧神奈川県測候所(昭和2年築)である。 近年の再開発のお蔭もあり?、外人墓地前の山手本通りから、冒頭の写真でご覧いただいたように、建物の全容を把握できるようになった横浜気象台。しかし今から十数年前は、表通りからは隠れて建つ、知る人だけが知るマニアックな建築作品だった。 横浜地方気象台の前身にあたる神奈川県測候所は、明治28(1896)年に現在の中区海岸通で業務を開始したのがそのはじまり。しかし大正12(1923)年の関東大震災で、これまでの施設が倒壊。そして山手の旧米国病院跡地に、新たな測候所を建設した訳である。その後、この測候所は国に移管され横浜地方気象台となり、現在に至っている。 また現在は国の管轄となっている横浜地方気象台だが、建設当初は神奈川県の施設だったこともあり、庁舎の設計は県の営繕財課が担当している。当時この課は成富又三(1881~1955)がトップの座に就き、震災で倒壊した先代の庁舎に代わる、 新たな庁舎を建設している時期だった。 そのような震災復興が多忙な時期に:、建設されたのが神奈川県測候所。その設計は、県の営繕財課に在籍していた、繁野繁造(1897~?)という技師が担当している。なお繁野は日本大学高等工学校(現在の日本大学工学部)を卒業したばかりの、まだ20代後半の若手技師だった。 そして当時20代だった繁野が測候所設計で取り入れたのが、このころ流行り始めていたアール・デコ調のデザイン。官庁建築という事もあってか、上司による手直しが施されたように思える堅い箇所も見られるが、全体的には若さ溢れるデザインで纏められている。 なお外壁は当時のコンクリート建築に良く用いられた、人造石洗出し仕上げ。玄関廻りには富国石と言う人造石が貼られている。現在は安藤忠雄氏(1941~)設計による、鉄筋コンクリート打ちっ放しの新庁舎に合わせるように、グレーの塗装が塗られている。しかし竣工当初はその色は白だったというから、今の印象とまた違ったものだったかも知れない。 これは殆ど知られていないようだが、旧庁舎をはじめとした地方気象台の施設の一部は、平日ならば内部見学が可能である。昭和2年竣工の旧観測所内は、一部耐震工事が施されているが、竣工当時の図面や写真を参考に、ほぼ往時の姿に再現されたという。 また内装はアール・デコ調の外見とは一転、曲線的で木目を強調した温かみのあるデザインである。このような折衷的な作りも、この時代ならではのものと言えるだろう。 みなとみらい線:元町・中華街駅の、アメリカ山公園口へ乗降する人で賑わっているこの界隈。道行く視線を少し横にやれば、いぶし銀のレトロ建築が建っている。機会があれば是非一度見学して頂きたい、山手の隠れた名建築である・・・・・。 ![]() ◎設計:神奈川県営繕財課(担当:繁野繁造) ◎施工:出水組 ◎竣工:昭和2(1927)年11月 ◎構造:鉄筋コンクリート造3階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市中区山手町99 ❖横浜市有形文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() またそれを機に、昭和2年竣工の庁舎と、居留地時代に造成されたその周辺にあるブラフ擁壁と共に、横浜市の有形文化財に登録されている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-03-12 12:12
| ◆昭和モダン建築探訪
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![]() ・・・・・昭和12年竣工、山手の丘に建つ伝統と新風を融合させた白亜の洋館 気が付けば横浜の関内地区を走る、みなとみらい線の開通から早や12年。そして西武池袋線・東武東上線・東京メトロ副都心線・東急東横線・みなとみらい21線による、5社合同の相互乗り入れ開始から、間もなく3年が過ぎようとしている。以前は横浜に出掛けるには、何回も乗り換えなければならなかったが、現在は直通電車に乗れば、1時間余りで横浜へ行けるようになった。本当に便利の一言に尽きる。 そして更に便利なったのは、みなとみらい線終点の元町・中華街駅からエスカレーターやエレベーターに乗れば、 山手の高台(アメリカ山公園)へ、急なブラフの坂を上らずに行けるようになったことである。当初は邪道だと思っていたが、気が付けばここへ訪れるたび使わせて頂いているとは、何とも情けない話である。 しかし個人的に好きな山手へ上るルートというのは、エスカレーターやエレベーターや路線バスではなく、やはり徒歩である。外人墓地横を上る見尻坂、フェリス横の西野坂、クリフサイドの代官坂、共立学園の乙女坂なども素敵だが、大好きなのは港の見える丘公園へ繋がる谷戸坂である。 開港間もない古写真で、たびたび紹介されている事でも知られる、歴史のある谷戸坂だが、その東側には裏坂とも呼べる脇道が通っている。この裏坂、外国人居留地時代に築かれたブラフ擁壁が続く、静寂に包まれた美しい坂なのだが、とにかくその傾斜はかなりのもの。覚悟を決めて、心を無の状態にして上らなければならない。 そして、この急坂を息を切らせながら上りきり、港の見える丘公園に辿りつくと最初に見える洋館が、冒頭の写真でご覧いただいた横浜市イギリス館である。その名から想像がつくように、横浜に駐在していた英国総領事の公邸として、昭和12(1937)年に建てられたものだ。 またもや話が脱線してしまうが、今から20年ほど前は山手の西洋館で公開されている物件は少なく 、港の見える丘公園と外人墓地以外は、観光客の姿をほとんど見かけない土地だった。今では想像がつかないが、アメリカ人建築家:J・H・モーガン(1873~1937)設計の山手111番(旧ラフィン邸、大正15年築)や、 ベーリックホール(旧ベーリック邸、昭和5年築)などは、高い塀に囲まれ内部の様子を窺う事が出来ない、幻の洋館だったのである。 そのような山手の西洋館の中で建物の全容を把握できたのが、港の見える丘公園脇に建つ横浜市イギリス館だった。しかし館内が公開されることも少なく、ある意味幻の洋館とも言える存在であった。 そのような横浜市イギリス館が、一般公開されるようになったのは、筆者の記憶が確かならば平成14(2002)年こと。この年は長年幻の洋館と言われ続けてきた、ベーリックホールの公開が始まった頃もあり、イギリス館に関しては注目が低かったような気がする。 確かにとても贅沢な室内調度品と装飾デザインが続く、ベーリックホールと比較すると、イギリス館の室内調度品はかなり地味な印象を受ける。外観デザインも、 下関 、 長崎 、函館、 東京 、 横浜 に建てられた大使館・領事館の流れを引き継いだものである。昭和に入ってからの竣工であるが、英国の伝統を大切にする気質を感じさせる作品ではないだろうか。 大英帝国らしい堅実な印象を受ける、横浜山手の英国総領事公邸。しかし昨年の春、久々に建物内外をゆっくり見学してみて、伝統の中にも当時の新しいデザインを取り入れた、とても洒落た箇所が幾つかある事も発見することができた。例えば玄関上の丸型のトップライトが、その代表例と言えるだろう。また質素な室内調度品も、当時のモダニズムの影響を受けたものではないかと、筆者は推測してしまったのである。 横浜の歴史的建造物ウオッチ歴約20年にして、今更ながらその良さが分かってきた横浜市イギリス館。港の見える丘公園内の薔薇の花が咲き乱れる、これからの季節がこの建物見学の旬ではないかだろうか・・・・。 ![]() ◎設計:大英工部総署(上海ワーク・オフィス) ◎施工:不詳 ◎竣工:昭和12(1937)年 ◎構造:鉄筋コンクリート造2階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市中区山手町115-3 ❖横浜市指定文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ジョージ6世は、現在即位しているエリザベス女王の父で、この建物が竣工する前年に英国王に就任している。ジョージ6世は、2010年に公開されたグラミー賞映画、[英国王のスピーチ]でもおなじみ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-03-05 11:05
| ◆昭和モダン建築探訪
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![]() ・・・・・昭和7年竣工、古代様式プレヘレニズムで彩られた宮殿風建築 季節ごとに訪れてしまうのが、横浜の関内と山手地区 。 函館や神戸や門司港などの港町も素敵だが、自宅から電車に乗って1時間程度で行けるという事もあり、その訪問数は群を抜いて多い訳である。 そして真夏の猛暑もだいぶ落ち着いてきた9月の中旬、例の如く副都心線経由の元町・中華街行きの電車に乗り向かったのは横浜。しかし今回はその途中駅の東横線・大倉山駅で下車し、気になる建築作品を見学する事にしたのである。その建築作品とは大倉山記念館、冒頭の写真でご覧いただいた建物がそれである。 大倉山駅で降りるのは十数年振りのこと。急な山の傾斜に強引に建てられた、この周辺に建つ高級住宅の数々に驚きながら、線路脇の急坂を上ること数分、その小高い丘の山頂に大倉山記念館は建っていた。古代西洋の宮殿建築のような佇まいは、圧巻そのもの。 現在この建物は横浜市の所有になっているが、もとは大倉精神文化研究として昭和7(1932)年に竣工したものである。またこの周辺は太尾という地名だったが、この記念館の名称が徐々に定着し、現在の大倉山という地名に変更されたという。 この大倉山精神文化研究所は、東京で洋紙店を経営する大倉邦彦(1882~1971)が設立したもの。ちなみに大倉は日本の教育や思想の乱れを憂い、私財を投じこの研究所を作ったのだという。なお大倉はこの他にも幼稚園や農業学校の設立に尽力するほか、東洋大学の総長を2期務めるなど教育にも情熱を注いだ人物であった。 そして大倉は横浜近郊の太尾村の土地を、東急電鉄の経営者であった五島慶太(1882~1959)から買収。東京帝国大学卒業で日本銀行の技師などを務めた、工学博士の建築家・長野宇平治(1867~1937)に研究所本館の設計を依頼した。 長野宇平治の設計により昭和7年に竣工した大倉精神文化研究所は、プレヘレニズムというスタイルで纏められている。このプレヘレニズムというのは、古代ギリシャ以前のクレタ・ミケーネ文明の建築様式なのだそうで、下に行くたびに細くなる玄関や塔屋の柱、裾が少し余った感じになっているペディメントなどに、その特徴が表れているという。この他に堂々とした建物の構成も、ギリシャのパルテノン神殿などの、古代宮殿建築を彷彿させるものだ。 そのような大倉精神文化研究所だが、正面破風に彫刻された鳳凰をはじめ、和のエッセンスを取り入れた意匠も取り入れられている。また今回は見学できなかったが、殿堂と呼ばれるメインホールは、国内の寺社建築に良く見られる斗拱が用いられているという。 ちなみに設計者である長野宇平治は和風建築の造詣も深く、この他にも西洋の古典主義の研究に励んでいる。藤森照信氏の著書によると、19世紀のフランスや、イタリア・ルネッサンス期に刊行された建築書、 アンドレア・パラディオ(Andrea Palladio、1508~1580)の著書など、貴重な書籍を収集しその研究を更に奥深いレベルに引き上げたという。 長野はその研究の成果を北海道銀行本店(小樽、明治45年築) 、 三井銀行下関支店(山口、大正9年築)などの自身の作品で、純粋な古典主義建築として体現していく。そのような長野の古典主義建築を更に深く遡ったのが、横浜の大倉精神文化研究所だったのである。 長野宇平治というと、どうしても辰野金吾(1854~1919)の弟子と紹介され、その評価が曖昧になってしまうことが多い。しかし横浜の大倉精神文化研究所を見ると、師・辰野とは別の路線で、アカデミックな建築スタイルを追求していたことを、痛感させられる。ちなみに長野は、この作品竣工から5年後の昭和12(1937)年に70年の生涯を閉じたのだが、この大倉精神文化研究所が、長野のキャリアの集大成と言える作品である。 黄金に輝く天井塔屋の吹き上げに圧倒されながら、世界の建築様式をすべて呑み込んだようなスケールの大きい作品を、満喫したこの日の訪問であった。 ![]() ◎設計:長野宇平治、荒木孝平 ◎施工:竹中工務店 ◎竣工:昭和7(1932)年4月 ◎構造:鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市港北区大倉山2-10-1 ❖横浜市指定有形文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2015-10-10 10:10
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![]() ・・・・・日本大通りの銀杏並木とマッチした、昭和4年竣工のクラッシックビル 今年も早いもので、気が付けばもう12月。時期的には少し遅いが、先週見に行ったのが横浜の銀杏並木の紅葉見物である。11月下旬の天気が芳しくなかった事もあってか、 山下公園通りの銀杏の葉は殆ど落ち切っていたものの、そこから徒歩数分の日本大通りの一部の銀杏はかろうじて黄色の葉を残していた。 その黄金色の銀杏と見事にマッチしていたのが、白い花崗岩張りのクラシカルなビルディング、今回紹介する旧横浜商工奨励館(現横浜情報文化センター)である。この旧商工奨励館、関東大震災後の復興事業の一環として昭和4年に建てられたもので、設計は横浜市の営繕課が担当している。 また昭和4年4月に予定されていた、昭和天皇の震災後の横浜復興視察に合わせ、起工から10ヶ月と言う当時としては驚異的なスピードで、このビルは建てられたそうである。ちなみに竣工当初の商工奨励館内には、商工会議所のほか1・2階には商工品の陳列所が設けられていたという。 あと興味深いのは、この隣に建つ旧横浜市外電話局(設計:中山広吉、昭和4年築)も、商工奨励館と同じ軒高で建てられているという事である。恐らく茶褐色タイルと灰色の花崗岩の対比や、1階と最上階という正反対の位置にアーチ窓が配されていることなどを考えると、両者の設計者の間で話し合いがおこなわれた可能性も考えられる。なかなか粋な演出である。 そのような横浜震災復興の象徴的建造物の一つであった商工奨励館。しかしその栄光の日々も長くは続かず、昭和50年代前半に入ると商工会議所の移転に伴い空き家になってしまい、それが20数年も続いてしまう。また筆者が近代建築ウオッチングを始めた1990年代後半には、建物フェンスが巡らされ、完全に朽ち果てた、お化け屋敷のような状態だった。 しかしその直後から、商工奨励館に隣接する旧横浜市外電話局との間に、地上12階建ての横浜情報文化センター建設が開始され、それと同時に既存する建物の改修工事にも着手。市外電話局は横浜都市発展記念館とユーラシア文化館、商工奨励館は天井が高い商工品陳列所を生かし、カフェーレストランなどが入居している。 これと同時期に日本大通りも整備がおこなわれ、とても居心地の良い美しい歴史的な町並みが完成したのである。 そして旧商工奨励館の建物内も外観と同様、クラッシックな調度品で纏められているが、昭和初期竣工の作品らしくアールデコのテイストも織り交ぜられていたりする。 また興味深いのはこのすぐそばに建つ、ジャックの塔の愛称でお馴染みの横浜開港記念会館(大正6年築)の内部装飾と雰囲気がどことなく似ているという点である。これは横浜市営繕課の職員たちが、関東大震災後の開港記念館の復旧工事に携わっていたからであろう。市営繕課の職員たちは正直無名な建築家たちであるが、彼らの美的センスの良さが伺える箇所である。 一見すると華やかさに欠ける作品だが、見れば見るほど味が出てくるのが旧商工奨励館。決して主役ではないものの、その存在が光る名脇役と言った感じの作品である。20数年放置されていた建物を、こうして蘇らせた所有者である横浜市の行動は賞賛に値するものではないだろうか・・・・。 ![]() ◎設計:横浜市建築課(木村龍雄、北川満多雄、徳永熊雄、佐藤芝夫) ◎施工:岩崎金太郎 ◎竣工:昭和4(1929)年4月 ◎構造:鉄筋コンクリート造4階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市中区日本大通11 ❖横浜市認定歴史的建造物 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2014-12-13 18:13
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![]() ・・・・・昭和4年築、渋さが光るシックでモダンな旧電話局舎 今も昔も横浜のメインストリートと言えば、本町通り。今では地下をみなとみらい21線(横浜高速鉄道)が走り、地上の道路も普通車から、港から積み替えられたコンテナを曳いた大型トラックまで、通行量は相当なものである。 正直なところ歩くのにはしんどい道ではあるが、ジャックの塔の愛称で親しまれている横浜開港記念会館(大正6年竣工)をはじめ、キングの塔こと神奈川県庁(昭和3年築) 、現在は情報文化センターとして使われている旧商工奨励館(昭和4年築) 、アールデコ調の装飾が美しい横浜銀行集会所(昭和11年築)など、美しい数多くの歴史的建造物が建っている。その中でも筆者のお気に入りの一軒が、本日取り上げる旧横浜市外電話局である。 現在は横浜都市発展記念館、横浜ユーラシア文化館として使われている旧市外電話局だが、逓信省技師の中山広吉(1896~1987)の設計により、昭和4年10月に竣工したもの。ちなみにこの頃の横浜は関東大震災後の復興建築ラッシュで、旧市外電話局と前後して数多くの建造物が新築されている。 またこの界隈の関東大震災後の復興建築の特徴としては、震災前築の建物と比べると、装飾が控えめな作品が多いということ。震災を境にして建築に対するデザインへの意識が変わったのだろうか、震災後に建てられたシックな感じのモダンビルが、今も幾つか現存している。その中でもいちばん渋い出来栄えの作品が、茶褐色のタイルが貼られた旧横浜市外電話局であろう。 さて茶褐色の旧横浜市外電話局が建てられるまで、紆余曲折のストーリーがあった。逓信省は大正半ばに、鉄筋コンクリート製の横浜電話局舎の建設が決定。逓信省の技師・森泰治の設計よりその庁舎の建設が開始され、大正12年にその庁舎がほぼ竣工している 。その外観は当時最先端だった、ドイツ表現派風のデザインだった。 しかしその矢先に関東大震災が発生。建物は大きく損傷し、その後この建物を修繕し使用する計画も立てられたが、残念ながらそれも頓挫してしまう。そして横浜出身の若手技師・中山広吉が設計にあたり竣工したのが、現存する旧横浜市外電話局だったのである。 中山設計の旧市外電話局であるが、当時の同僚たちが設計を手掛けた逓信建築作品と比較すると、一味も二味も違う感じに仕上がっている。例えば山田守(1894~1966)のような近未来的な世界が広がる訳でもなく、 岩本禄(1893~1922)や吉田鉄郎(1894~1956)作品に見られるロマティシズムな雰囲気も、 上浪朗(1897~1975)作品のようなシャープさもない。外観は古典主義風のオーダーの柱型と、1階と2階を仕切るコーニスや、1階アーチ窓上のキーストーンなどの様式建築のスタイルが簡略化されている、当時の逓信建築にしては極めて珍しい仕上がり。 しかし一見すると地味だが、何度もこの作品を見るたびに不思議な味が出てくるのが、横浜の旧電話局の面白いところ。贅肉を落としたような骨太な構成は、逓信建築の最高傑作である東京中央郵便局(設計:吉田鉄郎、昭和6年築)に相通じる力強さを感じさせてくれる。 実はこの建物、今から十数年前に大改修工事がおこなわれ、横浜都市発展記念館、横浜ユーラシア文化館への用途変更の他、横浜高速鉄道みなとみらい21線・日本大通り駅出入口の設置工事がおこなわれている。みなとみらい線から開通から10年近くが経ち、最近では当たり前の光景になったが、歴史的建造物の一部が地下鉄(みなとみらい線)の出入口になっているというのは、当時としてはとても斬新なものであった。 他の歴史的建造物に比べると、少し地味な感が強い旧横浜市外電話局。しかしその骨太なデザインは然り、再生活用に関しても注目に値する作品ではないかと思う。横浜を訪ねた際にはみなとみらい線の日本大通駅で下車し、昭和4年竣工のシックなモダンビルを堪能して頂きたいものである・・・・・。 ![]() ◎設計:中山広吉(逓信省) ◎施工:安藤組 ◎竣工:昭和4(1929) 年10月 ◎構造:鉄筋コンクリート造4階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市中区日本大通12 ❖横浜市認定歴史的建造物 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▼引き続きの写真は下のMoreをクリックして頂くとご覧になれます。 More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2014-11-29 21:29
| ◆昭和モダン建築探訪
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![]() ・・・・・関東大震災後の横浜に建てられた関根設計のモダンオフィスビル 本日は約一年半ぶりに、 建築家・関根要太郎(1889~1959)の作品紹介をさせて頂きたい。そういう事で今回は、関東大震災後の大正末から昭和初期にかけて横浜に建てられた、関根設計作品2棟を取り上げてみようと思う。 冒頭のモノクロ写真からでも察して方も多いと思うが、今回もまた現存しない作品である。例の如く、限られた写真の紹介になってしまうが、関東大震災後に日本を代表する港町・横浜に建てられた、関根設計によるモダンなオフィスビルディングの作品考察に、お付き合いして頂けたら幸いである。 そういう事で最初に解説させて頂くのが、仁壽生命の横浜支店。上に掲載した写真が、その建物である。仁壽生命の紀要によるとこの横浜支店は、大正14(1925)年7月に開店したそうである。またその翌年に「建築世界」、「建築画報」などの建築関連の雑誌に、この関根作品が写真付きで紹介されているので、大正14年の開店に合わせて、新築されたものと考えてほぼ間違いないだろう。 また外観デザインは、これまでの関根要太郎のユーゲントシュティール風な曲線やヴォリューム感を強調した作風から一転、シャープな感じに纏められているのが特徴として挙げられる。これは大正12年に起きた関東大震災を機に、関根をはじめとする多くの日本人建築家たちが、鉄筋コンクリート建築に本格的に着目したことにその作風の変化を読み取れる。関根にとって鉄筋コンクリート向けに、作風の路線変更をおこなった初期作がこの仁壽生命支店だったのである。 そして仁壽生命横浜支店竣工より暫く経った昭和初年に、大江橋より歩いて数分の馬車道通りに建てられたのが、不動貯金銀行横浜支店だ。こちらも関根要太郎率いる[関根建築事務所]の設計作品によるものである。 関根と不動貯金銀行の関わり については、毎度紹介しているので今回は省略させて頂くが、不動貯金銀行の横浜支店は大正5(1916)年4月の開店。その時期に建てられた店舗が関東大震災で倒壊、新たに建てられたのが関根設計の新店舗だったのである。竣工年時についてははっきりしないが、当時の建築誌にこの支店が発表された時期を逆算すると、昭和2年から3年に完成したものと想像される。 この不動貯金銀行横浜支店は、先の仁壽生命横浜支店や函館の百十三銀行本店を更に進化させたような、ドイツ表現派の影響を受けたモダンなデザインが特徴として挙げられる。 しかし現代の我々が見ても、かなりインパクトのあるデザインの両店舗、当時のハマっ子たちもその不思議な容姿に目を白黒させたに違いない。関東大震災の復興時期の横浜に、関根が勝負をかけたモダンなオフィスビルディング、出来ることならタイムマシーンに乗ってその実物を見てみたいと思ってしまった筆者であった・・・・。 ▲冒頭の図版→A ![]() ◎設計:関根要太郎(関根建築事務所) ◎施工:不詳 ◎竣工:大正14(1925)年7月 ◎構造:鉄筋コンクリート造2階建て ◎旧所在地:横浜市中区尾上町6 ▲図版→B ![]() ![]() ![]() ![]() ▲図版→A(1枚目、3枚目)、B(2枚目) ![]() 桜木町駅より徒歩数分の大江橋際にあった。どの時期までこの関根作品があったのか詳細は不明。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ◎設計:関根要太郎(関根建築事務所) ◎施工:不詳 ◎竣工:昭和2(1927)年ころ ◎構造:鉄筋コンクリート造3階建て ◎旧所在地:横浜市中区常磐町4-54 ▲図版→D ![]() ▲図版→E ![]() こちらが関東大震災で倒壊した先代の不動銀行横浜支店。同支店は大正5年4月に横浜の地に店舗を開設しているので、それに合わせてこの店舗も建てられたものと考えられる。 なおこちらの店舗の設計は、関根要太郎も在籍していた日本建築株式会社の同僚・鈴木憲太郎が担当。鈴木も関根と同様に、不動貯金銀行の店舗設計を数多く手掛けるのだが、関根の影響があったのか、こののちユーゲントシュティール的な作品を数多く生み出すことになった。 ▲図版→F ![]() 現在は不動貯金銀行の後身にあたる、りそな銀行の店舗が入る。なお昭和50年代前半まで関根設計の不動貯金銀行支店は、協和銀行の支店として現存していたそうである。 ![]() ![]() ★参考資料 「横浜市三千分ノ一地形図、第三十巻」横浜市発行 「仁壽生命本社新築紀要」仁壽生命刊、昭和4年 「ニコニコ風景図鑑」不動貯金銀行刊、昭和5年 ★図版 A→建築画報、大正15年9月号 B→建築世界、大正15年4月号 C→仁壽生命新築紀要、仁壽生命刊、昭和4年 D→国際建築、昭和3年3月号 E→ニコニコ風景図鑑、不動貯金銀行刊、昭和5年 F→建築写真類聚、銀行会社編、洪洋社刊、大正9年 ★撮影・・・・2011年12月、2014年1月 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2014-04-12 16:12
| ■関根要太郎研究@東京
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![]() ・・・・・昭和11年竣工、テラコッタが美しいアールデコ調ビルディング 前回は横浜のシンボル的歴史的建造物、ジャックの塔こと横浜市開港記念会館(大正6年築)を紹介させていただいたが、その建物の前を通るのが本町通り。JRの桜木町駅から、洋館群でお馴染みの山手地区の麓である中村川畔を結ぶ、全長約1・5キロの短い幹線道路である。 貿易港・横浜という事もあってか、海外からのコンテナを積んだ大型トラックも頻繁に走り、歩くにはちょっと騒々しい感じもするこの通り。ちなみに本町通りは、横浜が開港して間もない明治期より、金融街として栄えた一帯でもあった。今でこそ数は少なくなったが、戦前に建てられた銀行店舗が残るなど、往時の繁栄を偲ばせてくれる一帯である。その本町通りに残る建物の一つが、今回紹介する横浜銀行協会である。 現在では他の大都市のビジネス街と同様、高層のオフィスビルに混ざって、幾つかの銀行店舗が点在するこの横浜銀行協会の周辺だが、戦前は横浜正金銀行本店を始め、 三井・住友・安田・第一・三菱の、当時で言うところの五大銀行が店舗を構えていた一帯だった。そのような横浜の金融の中心街である本町通りに、銀行員の親睦・保養を目的として昭和11年に建てられたのが、この横浜銀行協会だった。 また横浜の銀行協会の歴史は古く、明治20年代の設立。何度かの移転、協会施設の建て替えを経て現在の建物に至ったという。 現在の銀行協会の設計は、国会議事堂の建設を統括した建築家の大熊喜邦(1877~1952)と、大熊の娘婿で横浜高等工業学校(横浜国立大学工学部の前身)の教授だった林豪蔵(1897~1975)が担当している。この二人の名が設計者として残されているが、大熊が国会議事堂建設の総責任者で多忙だった事や、林が地元・横浜高等工業学校の教授だった事を考えると、林が設計を主に手掛けたのではないかとも推測される。 この横浜銀行協会だが、戦後に四階部分が増築され少し不格好な感も拭えないが、全体的には直線と水平性を強調した力強いデザインが特徴として挙げられる。またその細部を彩るのが、美しい図柄のテラコッタの装飾。これが建物の直線的なデザインと相俟って、とても洒落たデザインに仕上がっている。 部分的には銀行建築に多く用いられていた古典様式の残り香も感じられるが、この時代大流行していたアールデコ風のモダンな出来栄えである。竣工当時は、古典様式の銀行建築が多く建つ本町通り界隈では異彩を放つ、とても斬新な作品だったに違いない。 さて横浜の銀行協会(銀行集会所)と言うと、横浜ゆかりの建築家・遠藤於菟(1866~1943)が手掛けた先代の集会所があまりにも有名である。遠藤作の集会所は明治38(1905)年の竣工。この当時西欧で勃発していたアールヌーヴォーのデザインをいち早く取り入れた、モダン建築の初期作として知られる作品だ。 この遠藤於菟作の銀行集会所は関東大震災で倒壊したそうだが、施主関係者たちは設計者の林豪蔵や大熊喜邦に、以前の集会所に勝る出来の作品を期待していたに違いない。その期待に見事に応えたのが、現在の銀行協会だった訳である。 ちなみにこの建物、先に紹介したようにアールデコ調の直線的なデザインで纏められているが、玄関ポーチの柱にはアールヌーヴォー調な花模様の装飾が施されている。これは遠藤設計による先代の銀行集会所に対する、林と大熊によるオマージュだったのではないかとも、想像してしまったのである。 テラコッタが美しい、アールデコ・スタイルの旧銀行集会所。いつも交通量の多い本町通りだが、一度ゆっくりと鑑賞して頂きたい名建築である。そこには周辺の高層ビルにはない、美しさが凝縮している・・・・・。 ![]() ◎設計:大熊喜邦、林豪蔵 ◎施工:清水組 ◎竣工:昭和11(1936)年7月 ◎構造:鉄筋コンクリート造3階建て・・・・竣工時 ◎所在地:横浜市中区本町3-28 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 明治38年竣工。19世紀末西欧で勃発したアールヌーヴォーのスタイルを、国内でいち早く取り入れた作品として知られる。大正12年の関東建震災で倒壊。 ❖図版→「明治大正建築写真類聚」日本建築学会編 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2014-01-25 11:25
| ◆昭和モダン建築探訪
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