大正・昭和初期に函館をはじめ国内で活躍した建築家の関根要太郎(1889~1959)、山中節治(1895~1952)兄弟の設計作品、函館の歴史的建造物や風景、同時代のモダン建築などを紹介します。
by ヨウタロウ研究員
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当研究室ご来訪の皆様へ
◆当ブログのタイトル『関根要太郎研究室@はこだて』は、大正から昭和初期に函館をはじめ日本国内で活躍した建築家の故・関根要太郎氏を紹介したく付けさせていただきました。また、関根氏の作品の他にも、同氏の設計作品が多く残る函館の歴史的建造物や、同時代のモダン建築なども紹介しております。

◆このブログの写真は当サイト製作者の撮影によるものですが、それだけでは全てを紹介しきれないため、大正から昭和初期に発行された当時の書籍・建築関連の雑誌・新聞等の記事・図版を一部転載しております。またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。
なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 

◆当ブログ製作者は、建築業や建築学に携わっていない、素人研究家です。建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。そのつど御指摘していただければ幸いです。

◆本ブログ掲載の写真および図版、記事内容の無断転用はご遠慮ください。但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません(大した写真では御座いませんが・・・・)。もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。

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函館大手町ハウス(函館の建築再見)

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◆旧浅野セメント函館営業所
 ・・・・大正7年築、竣工時の姿へ復原され15年が経った歴史的建造物



 他の観光都市や大都市と同様、近年の函館はホテルの建設ラッシュ。特に駅周辺のホテル建設はかなりのもので、今年から来年にかけて6軒のホテルオープンが予定されているという。
 これらのトップを切って開業するのが、大手町のセンチュリーマリーナ函館。15階建てという高層ホテル、JALシティーやラビスタなどの高層ホテルが建てられた頃は、かなりの衝撃を受けたが今ではそれがスタンダートになりつつあるようだ。

 そのような建設中のセンチュリーマリーナ函館の足元にひっそりと建っているのが、今回紹介させていただく函館大手町ハウスだ。大正7(1918)年に浅野セメントの函館営業所として建てられたものである。
 今ではこの近辺は埋め立て工事がおこなわれ、すっかり様変わりしてしまったが、この建物の先は突堤で建物すぐ向かいは海があったという。そして浅野セメントの事務所がある事から、かつてはこの場所は〔セメント浜〕と呼ばれていたという。

 なお戦後は同社の後身会社である、日本セメント(現太平洋セメント)の支店として使われていた。そして昭和30年代半ばには北海道漁業公社へ売却され、今から30年ほど前まで同社の事務所として使われていた。しかし昭和63(1988)年の北海道漁業公社の自己破産に伴い、建物は他の会社に売却され空き家の状態が暫らく続いていた。
 しかし平成15(2003)年に上磯の沢田建設が建物を取得。市立図書館で見つかった写真をもとに復原工事を実施し、平成16(2004)年に改修工事は竣工している。リニューアルオープン後も空き家になった時期も暫らくあったが、現在はカフェ―として使われているようだ。

 さて旧浅野セメントの営業所、海産業の町・函館では違和感を抱かれた方も多くいらっしゃるかも知れない。実は函館の対岸の上磯(北斗市)に、巨大なセメント工場と石灰採掘場を持っており、その関連で建てられたのがこの事務所だった。
 函館山に上って頂くと、海岸沿いのセメント工場と、その遥か奥に僅かながら峩郎山(がろうさん)という鉱山が見える。ちなみに峩郎山の石灰採掘とセメント製造の歴史は古く、明治23(1890)年に遡る。観光客にはあまり知られていないが、130年の歴史を誇るこの地域の一大産業である。

 上磯のセメント工場は、当初地元資本の北海道セメント株式会社として設立され、ドイツの最新機器を導入し操業が始まる。しかし戦争や政府の政策変更によって、乱高下する国内の景気のため不安定な経営が長年続いた。その結果、大正4(1915)年には日本のセメント王・浅野総一郎(1848~1930)率いる、浅野セメントに吸収合併されたのである。
 そして、その間もなくに建設されたのが、現在大手町ハウスとして使われているこの洋館だった。なおこの時期同社は、上磯の工場脇に社員倶楽部を建設したり、工場施設の大規模改築をおこなうなど、函館・上磯の会社施設の充実を図っていた。

 日本の洋風建築の定番であるルネサンス・スタイルに、大正中期流行した装飾を簡略化し直線を強調したセセッション的な装飾が施されたこの洋館、設計者については分かっていない。なお施工者については十数年前の改修に際し、建物内から棟札が発見され詳細が判明している。その棟札には、元町の旧函館区公会堂(明治43年築)の施工を手掛けた、函館の名棟梁・村木甚三郎(1848~1924)の名が記されていたという。
 ただ村木甚三郎はこのころ70歳近い高齢だったこともあり、実際の業務は息子の村木喜三郎(1882~1928)が執り行っていたと想像される。

 村木喜三郎と兄の喜太郎(1880~1911)は、東京築地の工手学校(現在の工学院大学)で本格的な建築技術を学んでいた。兄は若くして亡くなってしまうが、喜三郎は浅野セメントの営業所と前後し、函館市立図書館書庫(設計:辰野葛西建築事務所、大正4年築)函館海産商同業組合事務所(設計:関根要太郎、大正9年築)区立函館病院外来診療棟(設計:関根要太郎、大正10年築)など、町の主要建築を多く建設していた。その頃の作品の一つが、浅野セメントの函館営業所だったのである。

 平成23(2011)年の夏、幸運にも上磯の熊谷家住宅(江戸末期築)を見学させていただいた時、ご主人から邸内に掛けてあった最晩年の浅野総一郎筆の額を見せて頂いた。その額を見ながら今では営業スタイルが様変わりしてしまったが、セメントの町の窓口だったであろう、この旧事務所周辺の当時の賑わいを想像してしまった筆者である。
 建物はさることながら、この地域とセメント産業の歴史に今更気づかされてしまった筆者であった。函館の旅はやはり奥が深い・・・・。

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◆旧浅野セメント函館営業所(現函館大手町ハウス)
 ◎設計:不詳
 ◎施工:村木甚三郎、村木喜三郎
 ◎改修:沢田建設
 ◎竣工:大正7(1918)年
 ◎復原:平成16(2004)年
 ◎構造:木造モルタル塗り2階建て
 ◎所在地:函館市大手町5-1
  ❖国登録有形文化財
  ❖函館市都市景観賞(平成16年)


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明治23(1890)年に旧浅野セメント函館営業所の対岸にあたる、旧上磯町(現北斗市)に同社の工場と採掘場は開設された。大正4(1915)年から浅野セメントに合併され、社名を変えながら現在に至っている。
ちなみに太平洋セメントと社名が変わった現在も、浅野セメント時代の施設が残っているという。詳しくは函館に在住されるjhm-in-hakodateさんのブログをご参照いただきたい。




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by sy-f_ha-ys | 2019-02-09 09:09 | ◆大正モダン建築探訪 | Trackback | Comments(0)

函館末広町の旧金森洋物店(函館の建築再見)

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◆旧金森洋物店
 ・・・・明治13年竣工、棒二森屋の前身にあたる煉瓦造の旧商店建築



 前回は82年に渡る歴史を閉じた、函館駅前の棒二森屋百貨店(設計:明石信道、昭和12年築)を紹介させていただいた。筆者が昨年秋に函館を訪問したときは、店の外壁や店内の看板・ポスターには、全館閉店売り尽くしセールという内容に「150年の感謝を込めて」というキャッチフレーズも添えられていた。
 つまり棒二森屋は前身会社の一つにあたる金森森屋の時代に遡って、これまでの会社へのご愛顧を感謝していたのである。棒二森屋と町がともに歩んできたことを示す、目頭が熱くなるとても素敵な一文であった。

 そのような事もあり昨年秋の函館旅行の最終日に、末広町・電車通り沿いに建つ旧金森洋物店を訪ねた。金森洋物店は、豊後国竹田古町(現在の大分県竹田市)出身の商人・初代渡辺熊四郎(1840~1907)が、明治2(1869)年に函館大町に開業した店舗である。このときベイエリアの金森赤レンガ倉庫でお馴染みの、例のロゴマークが商標登録されたという。
 その後、渡辺熊四郎は内澗町(うちまちょう、現在の末広町)に、洋物小間物・食料品店・時計店・靴製造所などを相次いで開店させ、函館を代表する経営者となった。しかし明治12(1879)年12月に起きた大火で本店のほか、6つの支店を焼失させてしまった。

 この大火直後、渡辺熊四郎は店舗の再建に着手。開拓使が奨励する煉瓦建築で店舗を建てることになり、開拓使が払い下げた茂辺地(現在の北斗市)で製造された煉瓦を用い、外壁に漆喰を塗ってこの店舗が落成した。
 建物のベースは寄棟屋根の土蔵商家をベースにしているが、2階の窓と1階の3連アーチや、洋風の装飾が施された鋳鉄製の玄関柱などは洋風建築の影響を受けたものになっている。また建物の高さも周辺の2階建て一般住宅よりかなり高い。防火対策のため屋根の裏に煉瓦を敷きつめているというから、このような高さになったのだろう。

 明治12年の大火後、開拓使は補助金を出すなど積極的に煉瓦建築の建設を推奨し、函館区内各所に多くの煉瓦建築が出現したという。しかし明治40(1907)年7月に起きた大火では、火の猛威には勝てず多くの煉瓦建築が延焼・倒壊してしまっている。その中で生き残ったのが旧金森洋物店だった。
 その後、金森洋物店は大正14(1925)年12月の森屋百貨店開業に伴い、本店機能を道路向かいの森屋に譲る。昭和43(1968)年にはオーナーの渡辺家により、函館市に寄贈され翌年市立博物館の郷土資料館としてオープンした。また森屋百貨店は棒二荻野呉服店と合併し、昭和12(1937)年に末広町から駅前に移転していったのである。

 そういう事で久しぶりに訪れた旧金森洋物店だが、入館料を払って内部を見学するのは、実に20年振りのことであった。大規模な改修工事を終えてリニューアルオープンしてからは、恐らく初めての入館だったような気がする。
 筆者が函館を旅したときは、北海道胆振東部地震が発生した直後で観光客もまばらだったこともあり、大正ハイカラさん風の衣装を着た女性職員の方の説明を受けながら、内部をたっぷりと見学させていただいた。この時の函館滞在は様々なサプライズな出会いがあったが、またもやの素敵な出会いであった。

 洋風のデザインが施された金森洋物店の店内は、江戸時代からの伝統を引き継ぐ座売りの形式を採用している。しかしとても高い天井の明るい店内は、文明開化以降のモダン建築であることを痛感させられる箇所である。
 また1階は防火用の鉄扉を開けると、外光がふんだんに入る作りにし、倉庫的要素の強かった2階は逆に窓を小さめに設定している。色々な配慮がされた函館でも、最古の耐火建築なのである。

 そして女性職員の方が最後に紹介していただいたのが、洋物店裏の海食崖跡に設けられた煉瓦造の擁壁の存在。これについてはブログを始めた12年前と、7年前の二度取り上げさせていただいたが、洋物店と同様に茂辺地産〔函館製造 明治●年〕と刻印の入った煉瓦が使用されている。
 大正期の地図を見ると、金森洋物店の裏には一軒の建物の記載がされている。職員の方が指摘されたように、洋物店の裏にも店の施設が連なり擁壁まで続いていたということも大いに考えられそうである。

 金森森屋・棒二森屋の150年に渡る歴史の前半を担った、可愛らしい洋風の煉瓦建築。建物を残したことで、現在もこうして建物を通して町の歴史を語れる訳である。
 棒二森屋も建築の記憶を何かしらの形として残せば、近い将来ここから町の歴史を語ることも出来のではないだろうか。その歴史を語るという行為から、微力ながら新しい商いも発展するかも知れない・・・・。

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◆旧金森洋物店(現市立函館博物館郷土資料館)
 ◎設計:池田直二
 ◎施工:池田直二、佐藤利之助
 ◎竣工:明治13(1880)年12月
 ◎構造:木骨煉瓦造2階建て
 ◎所在地:函館市末広町19-15
  ❖北海道指定有形文化財
  ❖函館市景観形成指定建造物


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日和坂から見る旧金森洋物店。近年建てられた一般住宅や、古い木造長屋より屋根が高いことに注目して頂きたい。

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★大正期の金森洋物店

大正10年ころに撮影された金森洋物店。築40年経った大正期も竣工時の姿が、保たれていることが分かる。右に写る人物は当時金森(渡辺合名会社)の代表を務めていた、三代目・渡辺熊四郎。三代目は明治末に金森の経営を継ぎ、函館の政財界において多大なる貢献をした人物でもある。
左手に建つのは森屋の支店。木田保造の施工により大正半ばに竣工。鉄筋コンクリート造のモダンな作品だったが、今から30数年前に解体されている。

❖図版・・・・・「函館市制実施写真帖」大正12年、円山貞吉編
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by sy-f_ha-ys | 2019-02-02 11:02 | ☆函館の建物案内 | Trackback | Comments(0)

函館棒二森屋百貨店(函館の建築再見)

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◆棒二森屋百貨店
 ・・・・昭和12年築、間もなく80年の歴史を閉じる老舗百貨店



 昨年の春、現在の親会社であるイオン(株式会社中合)から、平成31(2019)年1月末での閉店が発表された函館駅前の棒二森屋(株式会社中合棒二森屋店)。北海道新幹線の新函館北斗駅開通直前の頃は、耐震・改修工事を実施し店を継続し営業する旨を表明していた。
 しかし工事費用が予想以上にかかる事や、デパートの売り上げ減などの理由により閉店の方針を再度発表。また既存の店舗は解体され、本館跡地にはスーパー・金融機関が入居する高層マンション、アネックス跡地にはシティーホテル建設が予定されているという。

 棒二森屋は昭和11(1936)年6月に、初代渡辺熊四郎(1840~1907)創業の金森森屋と、初代荻野儀平創業の棒二荻野呉服店が合併し出来た会社である。当時の函館は金森森屋、棒二荻野、丸井今井という三つの会社が、当時最新の販売形態であるデパートメントストアとして競合していたが、昭和9(1934)年の3月に起きた大火を機に金森と棒二が合併する。
 昭和11(1936)年6月に設立した棒二森屋は、営業の土地をそれまでの末広町と地蔵町から函館駅前へ移転することを決定。そして間もなく新築工事が始まり、昭和12(1937)年10月に竣工したのが現在の店舗だった

 昭和9年に起きた大火後の復興時期に、駅前の高砂町(現若松町)に建てられた棒二森屋の新店舗。その設計を手掛けたのは、函館生まれの建築家・明石信道(1901~1986)である。函館の僧侶の家(堀川家)に生まれた信道は、函館中学校(現道立函館中部高等学校)卒業後、上京し早稲田大学へ進学。早稲田では理工学部で建築学を専攻し、昭和3(1928)年に卒業する。
 また早稲田在学中から制作を手掛けた、自身初の設計作品である東京新宿の映画館・武蔵野館(昭和3年築、現存せず)は各方面から多大な評価を得る。しかしその後は世界的な恐慌もあってか、大きな仕事には恵まれず、明石にとっては苦しい日々が続いていた。

 そのような明石が志願したのが、当時合併の話が纏まりつつあった棒二森屋の新店舗設計の仕事であった。明石の仕事ぶりが認められ、棒二森屋の初代社長の荻野清六(1879~1959)は明石に設計を依頼。荻野は明石にモダンなスタイルの店舗設計をしないなどの様々な条件を出したが、完成したのは当時最先端のアールデコ調の店舗であった。
 その後の増改築で当時から残る意匠は少なくなったが、大門側1階の外壁の棒二森屋のレタリングやその周辺の装飾などが残る。近年までその最上階には、棒二の看板の下にアールデコ風の塔屋も残っていたが、老朽化のためこちらは撤去されている。

 戦後棒二森屋は売り場を大々的に拡張することになり、昭和29(1954)年から増築工事を開始。引き続き明石信道が設計を手掛けることになった。そして東京タワーの設計の設計で名高い、建築構造学者・内藤多仲(1886~1970)による構造計算(設計)により、増改築工事は6回に渡っておこなわれた。
 特に昭和36(1961)年、昭和41(1966)年、昭和49(1974)年の増築は大規模なもので、49年の工事では北陸銀行の館内店舗も同時に建設されている。竣工当初1362坪の建築面積だった棒二森屋は、およそ6倍の8398坪まで増床。5階建ての建物も、9階建てにまでにボリュームアップしている。

 一期工事の竣工当時37歳だった明石信道も、昭和49(1974)年の増改築工事完了時には、73歳という年齢になっていた。その間本業である建築設計のほか、母校の早稲田大学では教授として多くの後身を育てた。
 その後も明石と棒二森屋の関係は続き、昭和57(1982)年に竣工するボーニ・アネックス(新館)の設計も担当。そして約半世紀にわたる、地元百貨店の制作活動を終えたのである。このとき明石は80歳を超えていた。

 その後、棒二森屋は外壁などの改修がおこなわれているが、明石信道が時間をかけて作り上げた巨大なデパート建築は、約80年に渡り函館の玄関口である駅前に鎮座し続けている。巨大過ぎてどこを見るか悩む棒二森屋。個人的には外壁や階段室に鮮やかにデザインされている鈴蘭のモチーフ、そして北側にひっそりと刻まれている、建築完了年を示す〔1974〕というレタリングだ。
 一見すると大量消費をするための古びたマシーンのように見える巨大建築も、地元出身の建築家によって丁寧に作られたことが分かる箇所である。今の時代のニーズに合わないことは理解しているが、このような造形と空間に懐かしさを感じてしまう。

 個人的にはこのような函館の名建築の記憶を、何かしらの形で後世に伝えて欲しいものである。しかし棒二森屋の閉店と解体を決めたイオンの関係者が、この建物と町の人々の長年に渡る繋がりを理解しているのだろうか、少なからず疑問を抱いてしまったりもする。
 国内を代表する巨大企業に膨張してしまったイオングループが、町の歴史や文化と融合できるかという点も、この企業の新しい課題になるのだろう。かつて棒二の社長・荻野清六は、「商売にも文化」という名言を残したことを最後に紹介して、本日のレポートを終わりとしたい。

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◆棒二森屋百貨店(中合棒二森屋店)
 ◎設計:明石信道
 ◎施工:鴻池組(第一期工事)
 ◎構造計算:門奈博之(第一期工事)
      :内藤多仲(第二期工事~第六期工事)
 ◎竣工:昭和12(1937)年12月
 ◎増築:昭和29(1954)年、昭和30(1955)年
    :昭和31(1956)年、昭和36(1961)年
    :昭和41(1966)年、昭和49(1974)年
 ◎構造:鉄筋コンクリート造9階建て、地下1階
 ◎所在地:函館市若松町17-2

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昨年(2018年)秋の函館旅行時は、棒二森屋の閉店が発表されて間もない時期という事もあってか、建物の内外にはかつての棒二の写真が展示されていた。こちらは竣工間もない棒二森屋。アールデコ調のデザインで纏められていることが分かる。
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棒二森屋の前でパフォーマンスされる、若き日のギリヤーク尼ケ崎さん。ちなみにギリヤークさんは函館出身。
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◆棒二森屋新館(ボーニ・アネックス)
 ◎設計:明石信道
 ◎施工:竹中工務店
 ◎竣工:昭和57(1982)年9月
 ◎構造:鉄骨鉄筋コンクリート造8階建て、地下1階
 ◎所在地:函館市若松町16-8

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by sy-f_ha-ys | 2019-01-19 11:19 | ◆昭和モダン建築探訪 | Trackback | Comments(0)

函館元町の高橋病院天使寮(函館の建築再見)

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◆日本海員掖済会函館海員宿泊所
  ・・・・昭和3年築、日和坂に建つハーフティンバーの美しい洋館



 前回は元町の名所の一つである、函館市旧イギリス領事館(設計:英国工務省上海工事局、大正2年築)紹介させていただいた。その旧イギリス領事館の2階から、とても華やかでモダンな建物の姿を眺めることが出来る。それが本日取り上げる高橋病院天使寮である。

 およそ20年前に刊行された函館の建築を紹介した書籍によると、この建物は昭和3(1928)年ころに、海員ホームとして建てられたものと書かれている。茶色に塗られた外壁に赤の切妻屋根、そして妻壁に露出したハーフティンバーの装飾など、その姿はとても美しい。どちらかというと北欧やイギリスに建っていても何の違和感のない、非常に完成度の高い建築作品だ。
 坂下に高橋病院や高層マンションやウイニングホテルが建っていることから、その姿は周辺からあまり目立たないが、函館市立病院外来診療棟(設計:関根要太郎、大正10年築)の跡地前の道路から見える天使寮の姿は絶品である。

 函館に現存する戦前築の木造建築の中でも、屈指の美しさを誇る高橋病院の天使寮。しかしそのプロフィールについては、分からないことが多い非常に謎多き建築作品でもある。建設時期については大正10(1921)年4月の大火で、この界隈が焼きだされてしまっていることを踏まえると、昭和3(1928)年ころに竣工したと考えて間違いないと思う。
 ちなみに天使寮の坂上の旧商業学校の運動場だった場所に建つ、旧岡本栄三郎邸(昭和2年築)旧佐田作郎邸(設計:田上義也、昭和3年築)なども同時期に竣工しているので、昭和のはじめこの界隈は相当な建設ラッシュだった訳である。

 高橋病院天使寮は海員ホームとして建てられたと言われているが、その施主は一体誰なのかという疑問も浮かぶ。昭和9(1934)年度版の函館商工名鑑を見てみると、天使寮の建つ元町の旧地名・會所町に〔日本海員掖済会函館出張所〕という記述がある。天使寮が建つ旧地番・會所町59の記載まではされていないが、海員掖済会はこのころ函館と小樽に宿泊所を新設しているので、これが海員ホームにあたるのだろう。
 なお先ほど古絵葉書のネットオークションのページを見ていたところ、日本海員掖済会の函館宿泊所としてこの建物が写真入りで紹介されていた。長年の謎が日本海員掖済会というキーワードで、僅か1時間で解けてしまったのである。

 日本海員掖済会は明治13(1880)年に、船員の福利厚生をおこなう団体として創立。明治31(1898)年には公益法人となり、東京を本部に横浜、神戸、小樽、長崎、門司、名古屋、広島などの港町を中心に、海員のための病院や保養施設や宿泊所を開設している。函館は明治初期に掖済会の出張所が開設されたが、戦後間もないころに撤退してしまったようだ。
 以前、このブログにコメント頂いた地元の方の情報によると、海員掖済会の宿泊所だった建物は、その後白百合学園の寮として使われたのち、高橋病院の寮になり現在に至っているそうである。

 昭和初期に建てられた海員掖済会の函館宿泊所。大正から昭和初期にかけて撮影された掖済会の施設の写真などを見てみると、函館の宿泊所がデザイン的にはとても秀でたものだったかが分かる。果たして設計者は誰なのか?。こちらの謎解きについては、今回は分からずじまいであった。
 ただ他の海員掖済会の施設にはない華やかさは、函館の有力商人が建設に際し多くの寄付をおこなったことにより、このような施設が作れたのではないかと考えるのである。そうなると函館と深い関りを持った人物が、宿泊所の設計を手掛けたということも想像できる。

 眼下にかつて函館の玄関口だった東浜桟橋を見下ろし、控えめながら美しいこの作品、館内1階には応接間として使われていた大広間が現存しているという。館内を見学するチャンスにはなかなか恵まれないが、モダンな海員施設の美しさをじっくり堪能してみたいものである。

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◆高橋病院天使寮(旧日本海員掖済会函館海員宿泊所)
 ◎設計:不詳
 ◎施工:不詳
 ◎竣工:昭和3(1928)年ころ
 ◎構造:木造2階建て
 ◎所在地:函館市元町32-13
  ❖函館市指定伝統的建造物

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★竣工当時の日本海員掖済会函館宿泊所

先日筆者が購入した絵葉書より。竣工当時の姿がほぼ保たれているのが分かる。日本海員掖済会は海員のための宿泊施設を開設していたが、デザイン的には函館の宿泊所が特に優れている。設計者についての手掛かりになる資料は、残念ながら発見できていない。

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by sy-f_ha-ys | 2019-01-12 09:12 | ◆昭和モダン建築探訪 | Trackback | Comments(0)

函館市旧イギリス領事館(函館の建築再見)

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◆旧イギリス領事館
 ・・・・大正2年築、元町の高台に建つ白亜の西洋館



 昨年秋の函館旅行2日目の午前中、市東部の遺愛女子中学校・高等学校YWCA会館の見学を終えた筆者は、市電に乗り滞在している西部地区へと戻った。日和坂下の末広町電停で下車し、夜景観賞のためロープウェイで函館山に上る日没直前までのあいだ、西部地区の歴史的建造物の見学をする事にしたのである。

 末広町電停から基坂の広い坂を上り、最初に訪ねたのが旧イギリス領事館であった。イギリス領事館と言えば、長年に渡り函館西部地区の観光スポットとして親しまれている、函館観光の名所の一つである。
 函館に訪れるたび建物の外観やバラ園で有名な中庭は訪れるが、久々に有料公開されている旧イギリス領事館の館内を見学したのであった。ちなみに函館市旧イギリス領事館は、平成4(1992)年から観光客向けの一般公開が始まったとのこと。気が付けば公開から四半世紀を迎えた、古株の観光施設となったという訳である。

 函館におけるイギリス領事館の歴史は古く、箱館開港直後の安政5(1859)年に、現在の弥生町にあった称名寺内に領事館を開設したのがその始まりであった。その後は現在の元町付近に領事館を置いていたが、この町で度々起きる大火で領事館が焼きだされ、施設は幾度が移転していた。
 また函館のイギリス人居住者は、明治から昭和初期を通じて僅か20人程度だったというが、北の要衝として領事館が置き続けられることになったのである。

 そしてイギリス政府は明治18(1885)年に基坂脇の現在地に、新たな領事館を建設。しかし明治40(1907)年8月に起きた大火で、またもや領事館として使用していた建物が焼失してしまう。
 そのように函館で度重なり起こる大火に苦しめられてきた、英国領事館関係者だったが、明治40年の大火後に英国工務省の上海工事局の設計により、新たな領事館の建設を開始。大正2(1913)年に、煉瓦造・外壁漆喰塗り2階建ての領事館を竣工させた。

 この大火が発生する以前、函館を管轄していた開拓使をはじめ道庁や函館区は、この町で度重なり起きる火災に対し,耐火素材である煉瓦建築を推奨していた。しかしこの大火で煉瓦建築が焼けてしまったこともあり、火災に対して諦めムードが漂っていたのか、旧函館区公会堂(明治43年築)や、旧北海道庁函館支庁舎(明治42年築)など、大型の木造建築が続々と建てられていた。
 しかしイギリス領事館に関しては、これまでの大火を教訓してか煉瓦造で建てられている。軒天井が木製だったり防火窓が設けられていなかったり、完璧な耐火建築までとはいかないが、領事館関係者が丹念にこの建物を作っていったことが想像できる。

 また日本国内は函館以外では、下関(明治39年築、設計:ウィリアム・コーワン)長崎(明治41年築、設計:ウィリアム・コーワン)東京(昭和5年築、設計:英国工務省)横浜(昭和6年築、設計:英国工務省)という戦前に建てられた1軒の現役の大使館と、3軒の領事館だった建物が現存している。
 実は下関と長崎の旧領事館、東京と横浜の大使館と旧領事館、設計者が同じだったり建設時期がほぼ同じだったりすることから、デザイン的には似た建物になっている。それに対し函館は建設時期がずれていた事もあり、他の4軒とは違ったデザインになっているのが特徴だ。

 正直なところ現存する他の大使館・旧領事館と比較すると、デザインに物足りなさを感じる函館の旧イギリス領事館。しかし窓側に設けられた5連のアーチ窓など、他の大使館・領事館にはない独特な風味が出ているのも、この作品の醍醐味と言えるかも知れない。逆にシンプルな仕上げが、この建物の美と言ったところか。
 あと個人的に興味深いのが、函館イギリス領事館竣工の8年後、基坂の斜め坂下に建てられた区立函館病院外来診療棟(設計:関根要太郎、大正10年築)の外観デザインを、イギリス領事館を意識したようなフラットな白い外壁に仕上げた事である。

 このようなシンプルな美しい仕上げに、当時30歳になったばかりの青年建築家・関根要太郎(1889~1959)も敬意を表したのだろうか。木造下見板張りや煉瓦造の洋風建築が多かった大正期の函館にあって、イギリス領事館と区立函館病院外来診療棟の並ぶ姿は、一際華やかだったと想像する。
 当たり前のようにある函館の観光施設だが、その歴史の奥深さに気付かされた今回の訪問であった。昨年末より公会堂が長期の改修工事に入ったこともあり、函館西部地区の観光を担う施設になった訳だ。今後の運営に期待したいものである。

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◆函館市旧イギリス領事館(旧イギリス領事館、開港記念館)
 ◎設計:英国工務省上海工事局
 ◎施工:大村合名会社建築部(新庄幸次郎)
 ◎竣工:大正2(1913)年
 ◎構造:煉瓦造2階建て
 ◎所在地:函館市元町33-14
  ❖函館市指定有形文化財
  ❖函館市指定伝統的建造物


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函館には旧イギリス領事館の他にも、船見町にかつてロシア領事館として使われていた建物が現存しています。ちなみに旧イギリス領事館も観光施設としてリニューアルする前は、朽ち果てた西洋館だったとのことです。



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by sy-f_ha-ys | 2019-01-05 09:05 | ◆大正モダン建築探訪 | Trackback | Comments(0)

函館元町の遺愛幼稚園(函館の建築再見)

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◆遺愛幼稚園
  ・・・・大正2年竣工、元町の高台に建つ美しい木造幼稚園舎



 先月の下旬から今月にかけて、函館の名門校である遺愛女子中学校・高等学校本館(設計:J・M・ガーディナー、明治41年築)講堂(設計:W・M・ヴォーリズ、大正10年築)宣教師館(設計・推定:J・M・ガーディナー、明治41年築)と、謝恩館(大正11年築)という4棟のとても美しい歴史的建造物を紹介させていただいた。
 函館市内にはこの他にも、遺愛学院が所有管理する歴史的建造物がもう1棟現存している。それは元町の遺愛幼稚園。冒頭の写真でご覧いただいた、ピンク色の西洋館がそれである。

 元町の遺愛幼稚園というと、この隣に建つハリストス正教会(大正5年築)の陰に隠れてしまっている感が強い。外壁がピンク色に塗られた、木造下見板張りの幼稚園舎もなかなかのものである。
 遺愛学院(遺愛女子中学校・高等学校)の元町における歴史は古く、明治はじめに学校の創始者であるアメリカ・メゾシスト教会牧師:M・C・ハリス夫妻が日々学校を始めた頃に遡る。また明治14(1881)年には、駐独アメリカ公使夫人のC・R・ライトの寄付により、現在遺愛幼稚園に建つ場所に校舎の建設を開始。翌年2月にはその校舎は竣工し、〔カロライン・ライト・メモリアルスクール〕が開校する。

 カロライン・ライト・メモリアルスクールは、明治18(1885)年に遺愛女学校と改称。明治28(1895)年には幼稚園も開設され、元町に建てられた木造2階建ての校舎内に幼稚園も置かれた。ちなみに古写真を見るとこの頃の遺愛女学校は、ベランダを設けた洋風コロニアルスタイルの小規模な2棟の校舎のみだったようだ。
 果たしてこの小さな校舎で、女学校から予科・幼稚園の学生と園児を収容できたのか疑問が残るが、何とかやり繰りしていたのだろう。しかし明治40(1907)年7月に起きた大火で、明治15年竣工の校舎は全焼してしまい、翌年遺愛女学校は函館東部の杉並町に移転している。

 明治40(1907)年の大火を機に遺愛女学校付属の幼稚園は、一旦廃止となってしまうが、再開の機運はすぐに高まったようで、元町の遺愛女学校跡地に幼稚園の建設が決定。アメリカ人篤志家の寄付により園舎の建設は開始され、大正2(1913)年9月に現在の幼稚園舎が竣工した。
 新たに建てられた遺愛幼稚園の園舎は、この5年前に竣工した遺愛女学校の校舎のスタイルを踏襲した、アメリカ風の木造下見板張りの洋館となった。また寒冷地を意識したガラス張りの玄関ポーチや、建物背後のボウウィンドウなど、本館や宣教師館と相通じる作りになっているのも見逃せない点だろう。

 なお遺愛幼稚園の設計者については、現段階では明らかになっていない。ただその作風から、J・M・ガーディナー(James McDonald Gardiner、1857~1925)が設計した、遺愛女学校の本館・宣教師館の建設工事に携わった人物が、設計・施工にあたった可能性が大いに考えられる。
 敷地の周りに植えられた垣根で全容は把握しづらいが、港側から見ると寄棟屋根のピンク色の幼稚園舎はよく目立つ。同時期に建てられた函館の下見板張りの洋館とは一味違った輝きを放つ、とても美しい洋館である。

 ピンク色のペィンティングが可愛らしい、遺愛幼稚園の園舎。竣工当初はどのような色のペンキが塗られていたか、皆さんご存知だろうか?。その色とは深緑である。基坂下の相馬株式会社(大正5年築)の色よりも更に深く、元町の港ヶ丘通り(土産物屋通り)に建つ、日和館(大正10年以降築)に近い色だったようだ。
 ちなみにこの頃は深緑のペンキが手頃だったようで、函館の多くの木造建築もこのような色に塗られていたという。遺愛の本館もこれに似た色が塗られていたというので、幼稚園もその色に合わせたのだろう。

 なお今から30年ほど前に、函館の市民グループ〔元町倶楽部〕がおこなった時層色環調査(ペンキこすり出し)によると、深緑の後は黄褐色やクリーム色に経て、現在のピンク色に至ったという。少し意外な感じもする、元町の高台に建つ美しい幼稚園舎の色の歴史である。
 竣工当初の深緑に塗られた遺愛幼稚園も見てみたいが、やはりこの園舎はピンクに限る。敷地周りの垣根と立地の関係上、似た角度からしか撮影できないのが残念だが、いつ見てもとても美しい建築作品だ。

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◆遺愛幼稚園
 ◎設計:不詳
 ◎施工:不詳
 ◎竣工:大正2(1913)年9月
 ◎構造:木造2階建て
 ◎所在地:函館市元町4-1
  ❖函館市指定伝統的建造物

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チャチャ登りから眺める、ハリストス教会と遺愛幼稚園のツーショットは絶品そのもの。

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遺愛学院のその他の校舎はこちらをご覧いただきたい。




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by sy-f_ha-ys | 2018-12-29 09:29 | ☆函館の建物案内 | Trackback | Comments(0)

函館松陰町の函館YWCA会館(函館の建築再見)

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◆函館YWCA会館
 ・・・・大正末竣工、函館東部松陰町に建つモダンな郊外型住宅



 サプライズな出会いもあり予定を上回る長時間の滞在になった、函館市杉並町の遺愛女子中学校・高等学校の見学。守衛所で退館の手続きをし、電車通り沿いに建つ正門を出て次に立ち寄ったのが、杉並町の隣にある松陰町の〔みどり町通り〕だった。

 〔みどり町通り〕は、函館を代表する実業家・三代渡辺熊四郎が、大正期に開発を手掛けた土地で、かつては広い前庭を持った優雅な郊外型住宅地が広がっていたという。また筆者が函館へ訪れるようになった十数年前には、みどり町通りとその周辺には、当時を物語る年代物の古い屋敷がちらほらと残っていたが、時の流れと共にそれらの殆どは解体されてしまっている。
 更に近年にはセレブ感満載の高級住宅なども幾つか建てられ、全く雰囲気の違った町へと変貌を遂げている。ここを歩くのは約10年振りの事であったが、その変わりようには正直なところ言葉を失ってしまった筆者であった。

 その中で、往時のみどり町通りを物語る数少ない建物が、通りの中ほどに建っている。それは函館YWCA会館、大正末頃に一般の住宅として建てられた屋敷を、函館YWCAが戦後に取得し現在に至っている。また平成28(2016)年11月には建物の文化的価値が認められ、国の登録有形文化財にも指定されている。
 ちなみに建物のピンク色ペインティングは、函館YWCAと縁の深い遺愛女子中学校・高等学校の本館(明治41年築)を意識して、この色が選ばれているという。更に一昨年にはペンキが塗りなおされ、華やかな姿へと蘇った。

 今回も建物外観を撮影していたところ、ちょうど会館に駐在されていた女性職員の方に声を掛けられ、内部を見学できるという幸運に恵まれたのである。本日2回目のサプライズだが、この時の旅はこのような出会いが続いた旅となった。
 しかしこの日の函館は30度近い気温まで上昇したこともあり、館内も相当な暑さになっており、矢継ぎ早に見学をさせて頂いた。だが文化住宅と呼びたくなる、この当時ならではの美しい邸内を見ることが出来た次第である。玄関に応接間と階段の装飾などが特に素晴らしかった。

 ちなみに〔みどり町通り〕の開発主である三代渡辺熊四郎は、ここに家を建てる住民たちに3つの条件を出した。それは①住宅の外観は和洋折衷にすること、②住宅の屋根は緑色にすること、③住宅は敷地奥に建て前庭を設けること、という事である。
 現在YWCA会館として使われている建物も、屋根は緑色にし、現在は駐車場になっているが当時はここが前庭だった。外観も下見板張りの典型的な洋風建築だが、玄関の庇に船見町の旧ロシア領事館(明治41年築)みたいな唐破風が取り付けられているのである。ワンポイントで和の要素を加えた、粋な演出と言えるのではないだろうか。西部地区に建つ和洋折衷の住宅群とは一味違った、素敵な住宅建築である。

 そのような昔日の〔みどり町通り〕を伝える、数少ない遺構である函館YWCA。清楚な屋敷の前は緑に溢れていた、かつての松陰町を想像することができる建築作品である。近年この近隣に建てられたガードの固い最新住宅とは違い、緑豊かな前庭を置いた屋敷の暮らしは、多くの住民たちのコミュニティーを生んだことが容易に想像できる。
 21世紀の現在物質的に豊かになっても、昔のような心の潤いは得られないのかなと、新旧の邸宅を見ながら松陰町を後にした筆者であった・・・・。

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◆函館YWCA会館(旧山下家住宅)
 ◎設計:不詳
 ◎施工:不詳
 ◎竣工:大正15(1926)年ころ
 ◎構造:木造2階建て
 ◎所在地:函館市松陰町1-12
  ❖国登録有形文化財

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by sy-f_ha-ys | 2018-12-15 08:15 | ☆函館の建物案内 | Trackback | Comments(1)

遺愛女子中学校・高等学校宣教師館(函館の建築再見)

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◆遺愛女子中学校・高等学校宣教師館
 ・・・・明治41年築、美しい木々に囲まれて建つ白亜の宣教師館



 函館旅行2日目の午前に訪れた、杉並町の遺愛女子中学校・高等学校。途中〔遺愛本館改修工事を支える会〕の会員・Fさんによる、改修工事着工直前の本館(設計:J・M・ガーディナー、明治41年築)と、講堂(設計:W・M・ヴォーリズ、昭和10年築)の校内案内というサプライズにも恵まれた。このような旅の素敵な出会いに感謝し、ほんの気持ではあるが事務局で改修工事への寄付をおこない、Fさんとお別れの挨拶をする。

 そして次に向かったのが、校内のいちばん南側に建つ宣教師館であった。木造下見板張りの、アメリカンスタイルの美しい洋館で、外壁に塗られた白のペインティングからホワイトハウスという名称で親しまれている。竣工は前々回紹介した本館と同じ時期、つまり明治41(1908)年ころに竣工したと推測されている。
 また建物の美しさと歴史的価値は早い時期より評価されており、昭和57(1982)年に北海道の有形文化財、平成13(2001)年には国の重要文化財に指定された。本館と同じく、遺愛の象徴とも呼べる歴史的建造物である。

 ピンク色に塗られた本館・講堂を意識してか、同様な色に塗られた校舎がよく目立つ校内にあって、宣教師館の白はよく目立つ。ちなみに今から三十数年前、函館の地域グループ〔元町倶楽部〕がおこなった、塗装時層色環調査(やすりによる外壁の擦り出し)によると、本館は竣工時には深緑色や茶色のペンキが施されていたのに対し、宣教師館は創建当初より白のペンキが塗られ続けているという。竣工してから一世紀以上に渡り、宣教師館は文字通りホワイトハウスで在り続けているという訳だ。

 アメリカ・ニューイングランドあたりに建っていても、何の違和感がない遺愛女子中学校・高等学校の宣教師館。決定的な資料は発見されていないものの、本館と同時期に竣工したことや作風から、アメリカ人建築家:J・M・ガーディナー(James McDonald Gardiner、1857~1926)の建築事務所が、設計を手掛けたと近年では推測されている。
 ガーディナーと言えば聖公会の信者で、明治13(1880)年に宣教師と教育者として来日し東京築地に居留。以降立教大学の校長を務め、同大学退職後は自身の建築事務所を開設し、本格的な建築家としての活動を開始している。

 教会、学校のミッション関連の施設のほか、邸宅など数多くの建築設計を手掛けていたガーディナーの建築事務所であったが、実質的な業務は部下の日本人技師の手に委ねられていたようである。その中で当時ガーディナー建築事務所の筆頭スタッフにあったのが、建築家の荒木賢治(1880~1948)だった。
 青森県生まれの荒木は、明治31(1898)年に東京築地の工手学校を卒業。明治30年代半ばにはガーディナーの建築事務所に就職している。遺愛学院に保管されている本館の建設関係文書にも、荒木の名前が記されていることから、遺愛本館や宣教師館も荒木が実質的な業務に関与した可能性が高い。

 この頃のガーディナー建築事務所の制作作品というと、東京渋谷の南平台から横浜山手に移築され、現在一般公開がおこなわれている旧内田定槌邸(外交官の家、明治43年築)という木造下見板張りの洋館があるが、遺愛の宣教師館もどことなく相通じた雰囲気を醸し出す。室内を見てみると宣教師館はその建物の性格上、旧内田邸に比べ質素に纏められているようだ。
 そして遺愛の宣教師館、寒冷地の函館に建てられたこともあってか、遺愛の宣教師館は窓が小さめに取られ、西洋館に定番のベランダが置かれていないのもこの作品の特徴である。北国・青森出身の荒木賢治の意見もあったのだろうか、外気に対してかなりガードの固い作品に仕上がっている。

 いつ見てもホワイトハウスという愛称が相応しい、美しい洋館の遺愛女子中学校・高等学校の宣教師館。春にホワイトハウス前に咲くクロッカスや初夏の鈴蘭が有名だが、どの季節に訪れても絵になる美しい作品だ。今度こそ毎年7月におこなわれる館内の一般公開に参加しなければと思った、この時の訪問であった・・・・・。

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◆遺愛女子中学校・高等学校宣教師館
 ◎設計:ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(推定)
  (James McDonald Gardiner)
 ◎施工:不詳
 ◎竣工:明治41(1908)年
 ◎構造:木造2階建て、地下1階
 ◎所在地:函館市杉並町23-11
  ❖国指定重要文化財

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by sy-f_ha-ys | 2018-12-08 12:08 | ◆明治モダン建築探訪 | Trackback | Comments(0)

遺愛女子中学校・高等学校講堂(函館の建築再見)

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◆遺愛女子中学校・高等学校講堂
 ・・・・昭和10年築、質素で美しいヴォーリズ設計による講堂



 ひょんな事から実現した、今年9月の遺愛女子中学校・高等学校本館の内部見学。あまりにも有名な、二手に分かれる木造階段左上にある旧講堂(現会議室)を見学したあと、〔遺愛本館改修工事を支える会〕の代表を務めるFさんに案内されたのは、現在使われている講堂だった。
 電車通りの正門から入って本館の右手に建つ、冒頭の写真でご覧いただいた、簡素なデザインの建物がそれである。

 講堂は本館の竣工より27年後の昭和10(1935)年に、アメリカ人建築家で近江兄弟社の創業者であるウイリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880~1964)率いる、ヴォーリズ建築事務所の設計により建てられたものである。本館や次回紹介予定の旧宣教師館(明治41年築)と共に、遺愛学院を代表する歴史的建造物の一つである。
 今年の夏に本館の改修に際し、本館前と講堂脇にプレハブの仮校舎が建てられた事もあり、講堂前とその周辺も雑然とした状態になっており、この時の訪問ではあまり良い外観写真が撮れなかった。そのような事情から、本日は以前発表した9年前と6年前に撮影した写真を幾つか再掲することにした。どうかご容赦していただきたい。

 本館から続くどちらかと言えば狭い渡り廊下を移動し、こちらも小さな木製扉を開けると目前には巨大なパイプオルガンが現れた。これは昭和60(1985)年に構想3年、製造に1年をかけて完成したもので、ドイツのボッシュ社製とのことだ。またオルガンの左手には、とても可愛らしい形をした演壇があった。我々は冒頭の写真でご覧いただいた玄関側ではなく、その反対側から入った訳になる。
 そして目前のパイプオルガンから少し視線をずらすと、とても広々とした講堂が広がっていた。質素でありながら、力強さを感じさせるとても美しい空間というのが、筆者の第一印象であった。

 設計は先に紹介したように、滋賀県の近江八幡を拠点に活動をおこなった、キリスト教伝道師でありながら事業家、教育者、建築家という多方面の活動をおこなっていた米国人のウイリアム・メレル・ヴォーリズ。明治38(1906)年に滋賀に英語教師として来日したヴォーリズは、明治41(1908)年にドイツ人建築家:ゲオログ・デ・ラランデ(Georg de Lalande、1872~1914)設計の、京都YMCA会館建設の現場監督を務めたのを機に、建築業界へと足を踏み入れる。
 その後はミッション系の施設を中心に、学校商業施設邸宅など幅広い建築活動を展開していく。ヴォーリズ作品というと、時代の先端には背をむけた人に対する温もりを感じさせる作品が多いが、函館・遺愛学院の講堂もその例にもれず、使う人に対する思いに満ちた出来になっている。

 この日、校舎内を案内していただいた遺愛のOGであるFさんによると、講堂で最大の見所というと校内に置かれた椅子とのこと。現代人の筆者からするとやや小振りに見える木造の椅子、その設計もヴォーリズの設計事務所が担当したそうである。そして弧を描いた背もたれは、ここに座る女学生たちのセーラー服の後襟が、綺麗にかかる配慮がされているという。久しぶりに見てしまった、ヴォーリズ・マジックであった。
 その他600名を収容できるという講堂内は、この時代では最先端の技術だったフラット式の天井になっており、規模以上に広さを感じさせてくれる作りになっている。

 質素ながら力強さと美しさを感じさせる遺愛の講堂、その源は当時の函館の時代背景から生み出されたのではないかと筆者は考える。この講堂が竣工する前年にあたる昭和9(1934)年には、函館では市内三分の二を焼く大火が発生。多くの犠牲者と経済的な損失を出してしまっている。
 遺愛女学校の講堂の建設予算は、宣教師たちの寄付金により賄えられたと言われている。但し大火直後という流れから、地元からの大口の寄付者も殆どいなかったと想像される。そのような限られた予算で建てられたため、質素な講堂が完成したのではないかと想像するのである。

 ヴォーリズより30年前に来日し、キリスト教の伝道と建築活動に奔走したアメリカ人建築家:J・M・ガーディナー(James MacDonald Gardiner、1857~1925)設計による本館のイメージを壊すことなく、校内に調和して建つ遺愛の講堂。
 見た目は地味だが、奥の深い名建築だったことに今更ながら再確認してしまった。初秋の晴れ空の下、ヴォーリズ建築の魔法に感動しきりの筆者であったのである。

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◆遺愛女子中学校・高等学校講堂
 ◎設計:ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(ヴォーリズ建築事務所)
  (William Merrell Vories)
 ◎施工:不詳
 ◎竣工:昭和10(1935)年
 ◎構造:木造平屋
 ◎所在地:函館市杉並町64-1
  ❖国登録有形文化財
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講堂へ続く渡り廊下。
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by sy-f_ha-ys | 2018-12-01 09:01 | ◆昭和モダン建築探訪 | Trackback | Comments(0)