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当研究室ご来訪の皆様へ
◆当ブログのタイトル『関根要太郎研究室@はこだて』は、大正から昭和初期に函館をはじめ日本国内で活躍した建築家の故・関根要太郎氏を紹介したく付けさせていただきました。また、関根氏の作品の他にも、同氏の設計作品が多く残る函館の歴史的建造物や、同時代のモダン建築なども紹介しております。
◆このブログの写真は当サイト製作者の撮影によるものですが、それだけでは全てを紹介しきれないため、大正から昭和初期に発行された当時の書籍・建築関連の雑誌・新聞等の記事・図版を一部転載しております。またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。 なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 ◆当ブログ製作者は、建築業や建築学に携わっていない、素人研究家です。建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。そのつど御指摘していただければ幸いです。 ◆本ブログ掲載の写真および図版、記事内容の無断転用はご遠慮ください。但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません(大した写真では御座いませんが・・・・)。もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。 ◆また本ブログの記事内容と関連のないコメント、トラックバックは削除させていただく場合もございますので、予めご了承ください。 **************** ★excite以外のリンク --------------------- ❖『ギャラリー村岡』のjirojiro junction ❖分離派建築博物館 ❖収蔵庫・壱號館 ❖新・我愛西安、観光と生活情報 ❖なんだか函館 ❖建築ノスタルジア ❖トロンボーン吹きてっちゃんの独り言 ~函館応援プログ~ ❖虚数の森 Forest of im aginary number ❖ウイリアム・メレル・ヴォーリズ展 in近江八幡 ❖MEGU 「めぐ」を究めよう ❖建築日誌 ❖ありがとう 明石小学校舎☆幼稚園舎 ❖中央区立明石小学校の保存活動 ❖近代建築青空ミュージアム タグ
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1 ![]() ・・・・はじめに、関根の経歴について 以前、関根の経歴について取り上げましたが、改めて簡単に紹介すると、明治22(1889)年に埼玉県秩父にて生まれ、18歳のときに上京。上京まもなくに世話になった遠縁の親類の家が土木請負業を営んでいたため建築の道を志すようになり、明治43年には当時日本を代表する建築家だった三橋四郎(1867~1915)の建築事務所に就職。また三橋事務所時代の報酬を元手に、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に選科生として入学し、大正3(1914)年7月の卒業後は不動貯金銀行の店舗営繕を手掛ける〔日本建築株式会社〕に入社。それ以降は20世紀初頭に西欧で流行していた『セセッション』、『ユーゲントシュティル』というモダンな建築スタイルを取り入れた作品を多く発表し、当時の日本建築界で注目を集める建築家の一人となりました。 順風満帆だった関根建築事務所の経営でしたが、昭和初頭の不景気のために事務所を解散。昭和6(1931)年に関根は、これまで店舗の設計を手掛けてきた不動貯金銀行の専属建築家になります。また関根はこれまでのモダンな作風と決別、耐震構造や都市計画など新たな課題に関心を示すようになりました。 昭和17年に戦争の激化により不動貯金銀行を退職した関根は、東京から埼玉の浦和に転居。また戦後は、人口増加のため公立学校の校舎や公共建築の不足という問題を抱えていた郷里・埼玉の各地方自治体のために、〔平衡構造工法〕という廉価で建てられる工法を用い、公立学校の校舎や地方都市の公共建築などの設計を数多く手掛けます。その活動は昭和34(1959)年2月に69歳で亡くなる寸前まで続きました。 ****************************************************** ◆また関根の建築家としての活動期間は、約半世紀に渡り設計作品もかなり多いため、7の項目に分けて紹介させていただきます。 ★1・大正中期(大正5年~大正10年、日本勧業会社在籍時代) ・・・・・・関根が20代後半で、モダンな作風を武器に当時の建築業界で頭角をあらわしはじめた時期の作品 ★2・大正後期(大正9年~大正15年、関根建築事務所時代・前編) ・・・・・・以前の作風を更に発展させ、建築家としての才能を開花させた時期の作品 ★3・昭和初期(昭和2年~昭和5年、関根建築事務所時代・後編) ・・・・・・蔵田周忠などと共に作風・規模共に充実した作品を制作していた時期 ★4・昭和戦前(昭和5年~昭和8年、不動貯金銀行営繕課時代・前編) ・・・・・・モダンな作風と決別し西欧の古典主義建築や和風建築などに路線転向した時期 ★5・昭和戦前(昭和9年~昭和17年、不動貯金銀行営繕課時代・後編) ・・・・・・戦時色が色濃くなった時代、免震構造や都市計画、廉価建築などに関心を示していた頃の作品 ★6・昭和戦後(昭和26年~昭和30年、戦後埼玉での活動、前編) ★7・昭和戦後(昭和30年~昭和34年、戦後埼玉での活動、後編) ・・・・・・戦後、郷里埼玉にて多くの公共建築を手掛けていた時期 -------------------------------------------------------------------------- また関根との共同での活動期間は短いものの、関根の弟である山中節冶の単独設計作品も何点か一緒に紹介させて頂いております。 建築家・関根要太郎の活動については知られていない部分もかなり多く、より多くの皆さんに大正・昭和という時代を生きた建築家の存在を知っていただければと願っております。 〔関根要太郎の設計作品・・・・・北海道函館市、旧亀井喜一郎邸、大正10年築〕 ![]() ![]() ![]() ![]() 〔関根要太郎の設計作品・・・・東京都江東区、村林ビル、昭和3年築、※現存せず〕 〔山中節治の作品・・・・東京都中央区、鈴木ビルディング、昭和4年築〕 ![]() ![]() [関根要太郎の設計作品・・・・・埼玉県秩父市、秩父宮殿下三峯山御登山記念館、昭和6年築] ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 〔関根要太郎の設計作品・・・・埼玉県上尾市、埼玉県立上尾高校、昭和33年築〕 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-16 23:45
| ★関根要太郎・設計作品
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Comments(2)
◆建築家・関根要太郎、主な設計竣工作品・1
(大正5年~大正10年、日本建築株式会社~日本勧業株式会社在籍時) ![]() 日本建築株式会社入所まもなくの関根要太郎の設計作品。このとき関根は26歳の若さ。 なおこれ以降関根は、全国各地に建設される不動貯金銀行の店舗設計を手掛ける事になり、昭和17年まで同銀行の店舗設計を100以上受け持つ事になった。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 関根の初期作の特徴は、20世紀初頭ドイツで流行していた〔ユーゲントシュティル〕というモダン様式を自らの作風に取り入れたこと。先の静岡支店やこの鹿児島支店などにもその兆候が見られる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 現在の上野公園口前に建てられた関根設計による不動銀行の店舗。こちらは先の静岡・鹿児島支店のモダンデザインとは違い、細部に古典様式の影響もみられる折衷的作品。 なお関東大震災でこの店舗は相当な損傷を受けたようで、昭和に入り関根の設計により新店舗が再建されている。旧所在地は現在の台東区上野4丁目10。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() マンサード屋根や建物隅の丸味はユーゲントシュティル風だが、イオニア式のオーダーなど古典主義のデザインも施されているという折衷的な作品。 旧所在地・岡山市上之町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも関根初期作のひとつ。全体的に平坦な外観だが、屋根破風の三角形の造形や丸模様のモチーフなどセセッション風の意匠も見られる。 旧所在地・宇都宮市大工町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 屋根にアンティフィクス(鐙瓦)、玄関両脇にイオニア式のオーダーなど西欧の古典主義風モチーフを取り入れつつも、全体的に大正らしい明るさも兼ね備えた作品。手法論としては先に紹介した岡山支店に相通じるものがある。 旧所在地は松山市港町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() この大牟田支店は大正9年の開業だが、当時の不動貯金銀行は代理店として仮営業をしたあと一定の期間を置いて支店へ昇格させるシステムを取っていた。関根の作風の変遷を辿ると先に紹介した松山支店と相通じるところが多いので、この頃に建てられたものではないかと考えられる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() この頃から関根要太郎と山中節治、兄弟で共同設計を開始。 三角屋根のデザインは、ユーゲントシュティルの名作である建築家:ペーター・ベーレンスの自邸(1901年築、ドイツ・ダルムシュタット)を彷彿させるモダンな作り。 旧所在地・金沢市南町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 写真上部が切れているが、先の金沢支店と似た三角屋根にカエル口のような屋根窓などドイツ版セセッション〔ユーゲントシュティル〕の雰囲気を漂わせる。 旧所在地は小樽市稲穂町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 建物全体のシルエットは2番目に紹介した鹿児島支店とほぼ同じなのだが、明治建築界の大家・辰野金吾が得意としていた煉瓦の外壁に横帯を付けるスタイルを採用している異色の作品。建物に対し必要以上にこの横帯が付いているのは、設計者である関根の狙いか?。 旧所在地・富山市小舟町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 先に紹介した不動銀行3店舗と同様のデザインだが、豪雪地帯長岡ということもあり屋根の傾斜がかなり付けられている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 京橋・入船町に建設された商店建築で、山中節治の単独設計作品。このとき山中は23歳という若さだった。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 現在の奈良県橿原市に建てられた不動銀行の支店。『建築世界』大正8年7月号には、当時関根が在籍していた日本勧業株式会社の名義で紹介されている。 またこれまでの関根作品とは若干作風が違うが、山中節治と関根が以前在籍していた三橋四郎建築事務所時代の後輩・蔵田周忠(旧姓:浜岡、1895~1966)が、大正8年7月に催した〔建築創圖展〕の出展品目の蔵田作品中に『奈良に建てると予想した銀行』という記述があり、関根らが設計を手掛けた作品の可能性が高いと考えられる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 関根・山中、函館における初設計作品。関根・山中独自のユーゲントシュティル的作風が完成に近づいた事が伺える。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 関根・山中、初期の傑作といえる作品の一つ。敷地の関係から玄関を中心にして左右非対称にデザインされているユニークな建物。なお2枚目の設計図は大正7年に雑誌『建築画報』に発表されたもの。 旧所在地・長崎市西浜町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 関根・山中が不動貯金銀行の支店建設を機に依頼を受けたもの。これ以降2人は、本業の不動貯金銀行の店舗営繕のほかに函館でも数多くの建築設計を手掛ける事になった。 また下の図版は、関根・山中がこの建物の着工まもなくに当時の建築雑誌に発表した完成予想図のスケッチ。ユーゲントシュティルふうのヴォリュームあるデザインは、先の長崎支店と同様、関根・山中初期の傑作といえる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 少し平凡にも見えるが、軒回りや窓間の膨らみを持たせたデザインなど、関根・山中の作風のツボは押さえた作品。 また当時、関根・山中は不動銀行の店舗設計で多忙を極めていたのか、この少し前に竣工した四日市支店と瓜二つの出来栄えになっている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 先の豊橋支店の瓜二つの支店。唯一の違いは外壁のタイルの色くらい。 なお、大正5年から10年にかけて関根は不動銀行の店舗設計を40近く手掛け多忙だったため、このような瓜二つ作品が何軒か存在している。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらは姫路の繁華街・現みゆき通りに建てられたもの。敷地的制限もあり小規模な作品だが、少し丸みを帯びた窓枠、セセッション風の柱装飾、またこのころ関根・山中が得意としていた褐色タイルのワンポイントなど、2人の作風のツボは押さえられている。 なお業務拡大に伴い、昭和9年に同支店は大規模店舗へと建て替えられている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() ![]() 岡山の地場銀行の本店。こちらも不動貯金銀行の支店建設を機に設計を受けたと思われる。当時の関根・山中としては異色である西欧古典様式の作品。また設計には関根・山中のほかに蔵田周忠も参加している。なお2枚目と3枚目の写真に写る人物は当時30歳の関根要太郎。 旧所在地は岡山市上之町。また、この建物の数軒置いた場所には、関根設計の不動銀行岡山支店があった。 -------------------------------------------------------------------------- ★また関根要太郎の経歴については建築家・関根要太郎についてをご覧ください。 ****************************************************** ※図版 〔※A〕・・・・・・・『不動貯金銀行創立四十周年記念写真帖』昭和15年刊、都立中央図書館蔵 〔※B‐1〕・・・・・『建築画報』大正7年4月号、国立国会図書館蔵 〔※B‐2〕・・・・・『 〃 』大正7年9月号、 〃 〔※B‐3〕・・・・・『 〃 』大正10年5月号、 〃 〔※C〕・・・・・・函館市立図書館所蔵絵葉書より 〔※D‐1〕・・・・『建築世界』大正8年7月号、国会図書館蔵 〔※I‐1〕・・・・・『建築写真類聚、銀行会社』洪洋社刊、〃 〔※J〕・・・・・・・『ニコニコ風景図鑑』不動貯金銀行刊、昭和6年、都立中央図書館蔵 〔★C〕・・・・・・・『生い立ちから今日まで』関根要太郎著、私家版 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-16 22:22
| ★関根要太郎・設計作品
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◆建築家・関根要太郎、主な設計竣工作品・2
(大正9年~大正15年、関根建築事務所時代・前編) ![]() 建設時期が重なっていたこともあり、デザイン的に函館海産商同業組合事務所と共通項が多く見られる作品。 旧所在地・札幌市南一条西五丁目。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも関根要太郎、山中節冶が、関根建築事務所を設立した頃の竣工作品。 玄関両脇に建つオーダーは古典的だが、その上の丸みを持ったパラペットや、半円形の屋根窓、独特の屋根の形などがこの当時2人が得意としてたユーゲントシュティル風の出来栄えだ。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも関根建築事務所設立まもなくの竣工作品。マンサール式の屋根窓のデザインなど、函館海産商同業組合事務所の発展形とも言うべきデザイン。 旧所在地は芝区佐久間町(現在の東京都港区西新橋)。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 細部のデザインは古典主義風だが、丸みのあるデザインもあってか全体的に柔らかな感じ。 旧所在地は広小路通。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 古都・奈良の景観にあわせ、屋根の造形や正面柱など寺院風のデザインを施した作品。 竣工当初はどのような色だったかも気になるところだ。 旧所在地・奈良市上三条町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 正面の丸みを帯びたヴォリュームある造形や玄関部分など、関根・山中兄弟独自の〔ユーゲントシュティル〕的作風が成熟したことが伺える作品。 福岡市天神町の中州付近に建っていたようだ。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 関根が店舗の設計を手がける不動貯金銀行は、地方の中小都市にも出店していた関係上、この明石支店のような小規模店舗も数多く建設された。しかし、関根・山中はこのような小規模な建物にも要所を押さえたモダンデザインを施している。また建物に直線状のタイルを張るというのは、当時の2人ががよく好んで用いたデザインだった。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 建物前に建つ電柱のため少しわかりづらいが、ユーゲントシュティル風の屋根窓や、丸みを持たせた建物全体のデザインなど、小規模ながら当時の関根・山中の作風の特徴がよくでた作品。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも先の明石・加古川各支店と同タイプのデザイン。玄関上のドーム屋根が可愛らしい。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 大正9年~10年は不動貯金銀行の新規開店ラッシュで、関根建築事務所は函館での建築設計のほか、同銀行の店舗営繕も数多く手掛け盛況を極めていた。 この店舗の旧所在地は佐賀市呉服町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 炭鉱の町・福岡県直方に建てられた支店。町の盛況も相まってか、竣工から僅か数年後の大正末には、関根事務所設計の新店舗が建設されることになり、この店舗は短命に終わっている。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 先の明石・丸亀両支店と同様にドームを付けているものの、茶タイルを使用していないこともありシンプルな印象を受ける。旧所在地・甲府市八日町。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 現在の滋賀県近江八幡市にあった不動銀行の店舗。古典主義のオーダーを簡略化したデザインが、大正期流行していたセセッションの雰囲気を漂わせる。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 先の八幡支店を平坦にしたようなデザイン。また関根らが手掛けた不動銀行の店舗ではこの他に、大阪岸和田・福岡大牟田の各支店がこの系統の作風。 なおこの店舗は、新潟市の本町通りにあったという。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 東京お茶の水・金杉病院(耳鼻咽喉科)副院長の邸宅。施主の海外生活経験を参考に、サンルームを置いたり、ガス・水道設備を充実させた。また2階に浴室を置くなど、当時としては画期的な邸宅だったようだ。 なお大正12年に発表された山中節治の作品集『文化生活と其の住宅』では、〔K氏の住まゐ〕という題名で実施案と試案が紹介されている。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 函館で函館海産商同業組合事務所に次いで設計を依頼された病院診療棟。 またこの病院建設中の大正10年4月に函館市内で大火が発生したため、その後同市内の復興建築設計を数多く手掛ける事になった。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 関根要太郎・山中節冶兄弟の〔ユーゲントシュティル〕的な趣向が見事に発揮された作品。関根初期の傑作といっても過言ではないだろう。なお竣工当初はセセッション風の装飾が窓周りに施されていたという。 また施主の亀井喜一郎は作家・亀井勝一郎の父で、勝一郎もこの邸宅で僅かの間だが暮らしていたようだ。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 当時、関根・山中兄弟は、先の亀井邸のような曲線的でヴォリュームのある作風を得意としていたが、一方このイチヤマ商店のような直線系のデザインの作品も数多く手掛けている。このイチヤマ商店が、その中でも代表的な作品といえる。 2011年7月解体。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ハーフティンバーでクラシカルな邸宅にも見えるが、細部のユーゲントシュティル風のデザインは関根・山中兄弟らしい雰囲気を漂わせる。 なお爾見淳太郎(しかみじゅんたろう)は、大正半ばより函館市立病院の内科部長・医院長を務めていた人物。現在の函館市船見町の高台に建っていたが、既に解体されている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 現在の函館山ロープウェー乗り場のすぐ下の場所にあった、函館市会議員の邸宅。施主の泉泰三は大正10年函館大火後、不燃建築の重要性を考え、この当時はまだ珍しかった鉄筋コンクリート製の邸宅建設を決断した。国内的にも鉄筋コンクリートでの住宅建設の事例としては早いものだったと思われる。 また関根・山中兄弟と泉の交友はこの後も続き、兄の関根は大正末に泉家の湯の川の別邸(泉合名会社湯の川住宅)、弟の山中は泉が幹部を務めていた函館競馬倶楽部の観覧席(昭和5年築)の設計を手掛けている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 雑誌『建築世界』に山中節治名義で発表された竣工作品。外観写真1枚のみだが、函館に現存する石塚商店に似た出来栄え。 旧所在地は京橋区弥左衛門町(現在の東京都中央区銀座4丁目)。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 大正13~14年ころ、山中節治は兄・関根の建築事務所から独立するが、作風的に見て関根・山中兄弟最後期の設計作品と思われる不動銀行の支店。デザイン的には函館・泉泰三邸に相通じる作風。 また関根はこの後、三橋四郎建築事務所時代の後輩・蔵田周忠をチーフデザイナーとして迎え、更なるモダン路線を歩みだすことになった。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() 先の久留米支店をシンプルにした感じの外観。関根の設計作品では、このころから本格的に鉄筋コンクリートを採用したと思われる。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも関根・山中コンビによる最後期作品と思われる店舗。くぼんだ玄関部分がユニーク。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 関根は大正9年に自らの事務所を開設して以来、これ以前より店舗営繕を手掛けていた不動貯金銀行のほか函館や東京で数々の建築設計を手掛けていたが、そのほかに東京に本店を置く仁壽生命の店舗営繕も手掛けることになった。その第1作目がこの仙台支店である。 軒周りのスパニッシュふうの瓦や1階の出窓などのデザインなど、先に紹介した函館・泉泰三邸、不動久留米支店に相通じるデザイン。なお施工管理は誠之堂、晩香盧、青淵文庫の設計で名高い建築家・田辺淳吉の〔中村田辺建築事務所〕が担当している。 旧所在地は仙台市南町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 山中節冶が関東大震災直後に設計を手掛けたバラック建築。 またのちに建築家・山口文象が代表を務める、〔創宇社建築会〕の第1回作品展がこの場所で催されるなど、日本の近代建築の歴史に立ち会った建物でもあった。現在の銀座からは想像がつかないが、銀座三丁目・松屋デパートの向いあたりにあったようだ。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 大正12年の関東大震災後、関根要太郎は建築家・長野宇平治の依頼により、東京・日本橋の日本銀行本店(明治28年築、設計:辰野金吾)の震災後の修復工事を担当。関根は事務所のメンバーとともに、実測図の制作、復旧工事の設計および監督を約1年半にわたりおこなっている。 また関根は、この修復工事に際し、従来の銅板小屋組みの屋根からフラットルーフの変更を提案。しかし長野宇平治の「辰野先生が設計した通りに形を維持するべき」とのアドバイスに納得し、竣工当時の屋根の形を変えることなく修復工事を終えた。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 六華倶楽部は皇室関係者のスキークラブとして設立されたもので、山形県五色温泉の宗川旅館内に建設されたもの。関根が同倶楽部の会員だった事で関根の事務所が設計を引き受ける事になり、関根のアイディアをもとに蔵田周忠がロッジ風のデザインを纏め上げたという。 また倶楽部ロッジ竣工まもなくに秩父宮・高松宮両殿下が同地をご来訪。この場にいた関根は秩父宮殿下と親交を深め、大正14年5月におこなわれた秩父宮殿下の秩父ご訪問での三峰山登山に同行する名誉を賜った。なお秩父は関根の出身地でもある。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 建物中央に備え付けられた無装飾なオーダーはこの後、関根建築事務所の設計作品で多用されるもの。 なお熊本支店は昭和10年ころ新店舗を建設することになり、この店舗は築10年ほどで取り壊された。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 東京飯田橋に開設された青少年向けの職業紹介所。公共建築という事もあり、落ち着いたデザイン。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 大正12年の仙台支店に続き関根建築事務所が設計を手掛けた仁壽生命の支店。シンプルな外観ではあるが、格子窓など要所を締めたデザインが光る。蔵田周忠の加入により、関根の作風に変化が見られる作品といえる。 また現在の横浜市中区尾上町、大江橋際にあったと思われる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 〔※B‐6〕 大正・昭和初期の大実業家・藤山雷太が所有する東京・白金台の敷地に建てられた貸住宅。こののち写真で写っている4棟のほかもう1棟が新築され、その新築棟は雑誌『建築画報』の表紙を飾る事になった。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() ![]() 函館の地場銀行本店。建物正面の無装飾な列柱、玄関上の半円形の小窓、玄関周りのアールデコ風の装飾、キュビズムにも思える反った軒廻りなどバラエティーなデザインが取り入れられている。また坂に面している事もあり、坂の途中に2階通用口が設けられているなど、地形を生かした設計がおこなわれている。 銀行建築家として活躍した関根要太郎の代表作といえる銀行店舗。 ------------------------------------------------------------------------- ●なお建築家・関根要太郎の経歴はカテゴリー関根要太郎についてをご参照ください。 ******************************************************* ※図版 〔※A〕・・・・・・・『不動貯金銀行創立四十周年記念写真帖』昭和15年、都立中央図書館蔵 〔※B‐4〕・・・・・『建築画報』大正14年1月号、国立国会図書館蔵 〔※B‐5〕・・・・・『 〃 』大正15年9月号、 〃 〔※B‐6〕・・・・・『 〃 』大正14年2月号 〃 〔※D‐2〕・・・・・『建築世界』大正11年12月号 〃 〔※D‐3〕・・・・・『 〃 』大正15年5月号 〃 〔※D‐4〕・・・・・『 〃 』昭和2年5月号 〃 〔★d-1〕・・・・・『 〃 』大正10年9月号 〃 〔★d-2〕・・・・・『 〃 』大正11年7月号、筆者所蔵 〔※E〕・・・・・・・『函館病院年報』大正11年刊 〔※F〕・・・・・・・・『文化生活と其の住宅』山中節冶著、大正12年、都立中央図書館蔵 〔※I‐2〕・・・・・・『建築写真類聚、バラック建築編』大正14年、 〃 〔※J〕・・・・・・・・『ニコニコ風景図鑑』不動貯金銀行刊、昭和6年、 〃 〔※L〕・・・・・・・・『新築記念 仁壽生命紀要』昭和4年刊、 〃 〔※O〕・・・・・・・『新住宅』大正10年5月号、国立国会図書館蔵 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-16 12:34
| ★関根要太郎・設計作品
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◆建築家・関根要太郎、主な設計竣工作品・3
(昭和2年~昭和5年、関根建築事務所時代) ![]() ![]() ![]() 昭和のはじめに京王電鉄が開業した娯楽施設。このころ関根建築事務所でチーフデザイナーを務めていた建築家・蔵田周忠(1895~1966)好みの、インターナショナルデザインやドイツ表現派の影響が色濃く見られる作品。関根建築事務所時代の代表作といえる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 横浜関内(中区常盤町)の馬車道に建設された不動貯金銀行の支店。窓の構成などに、当時ドイツで流行していた表現派の影響が強く見られる。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらは大正の竣工の作品だが、無装飾のオーダーなど先の函館・百十三銀行本店に共通したデザイン。旧所在地・大阪市西区京町掘上通り。なお戦後は協和銀行土佐堀支店として使われていた。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 建物に整然と並べられた無装飾のオーダーや玄関脇の半円形の小窓など、函館旧百十三銀行本店と共通するデザインの作品。また当時の関根建築事務所の作品では、先の不動銀行大阪西支店(大正15年築)のほか、同熊本支店にも同様のオーダーを採用している。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() 函館に本店を置く百十三銀行の東京支店。関根は函館末広町の本店と同時期に設計を依頼されたようで、函館の本店と同様の半円形の小窓など本店と相通じるデザインを採用している。 大正15年9月に着工し翌年に竣工に至ったが、昭和3年4月に百十三銀行は小樽の北海道銀行に吸収合併されたため、当時の建築雑誌には北海道銀行の東京支店として紹介された。なお施工は本店と同じく木田組が担当している。 旧所在地は日本橋区の元四日市町。現在の中央区日本橋1-20 ------------------------------------------------------------------------ ![]() 白タイルに整然と並べられた2階窓や、1階に広く取られたガラス窓など、当時西欧の古典主義が支流だった銀行建築からはかなり逸脱したモダンな作品。当時不動貯金銀行の幹部には、関根たちが手掛けるモダンな銀行店舗に異論を唱える者もいたそうだか、関根は大正半ばから昭和初頭までそのような風潮に反抗するかのようにモダンな不動銀行店舗を多く作り出した。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 先の白山支店の続編とも言える作品。幾何学模様のデザインが施された玄関扉などがモダン。 この数年後、日本に滞在していたドイツ人建築家ブルーノ・タウトも、従来の銀行店舗にありがちな古典様式から逸脱したモダンなこの作品を絶賛している。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 東京上野公園口にあった以前の店舗が関東大震災で倒壊したため、関根の設計により再建されたものがこの店舗。ガラス窓によるアーチ部分のデザインは前店舗を継承したものだが、蔵田周忠など関根建築事務所の若手所員たちの斬新な設計センスが伺える。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 鉄筋コンクリート5階建ての建物全面にガラスを張った大胆な作品。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 東京麻布の旧笄町に建てられた皇室とも縁が深い坊城家の邸宅。また施主の坊城俊良氏は、当時関根も会員だった山形米沢のスキー倶楽部〔六華倶楽部〕の幹部を務めていた人物で、その縁で関根がこの邸宅の設計を引き受けたようだ。 ----------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 〔※O〕 関根が昭和33年に作成した経歴書中に戦前の作品として記載されているのが、成城学園初等部(小学校)の校舎と講堂の設計。竣工年次が記されていないが、時代背景的に考えると成城学園は、関東大震災後の大正14年に初等部を世田谷へ移転させているので、上の写真の校舎が関根設計のものと推測される。 また講堂に関しては昭和3年竣工の〔母の館〕がこの時期に竣工しており、デザイン的に考えるとこちらも関根設計作品の可能性が高い。 ----------------------------------------------------------------------- ![]() 〔★b-1〕 こちらは大正末に竣工した山中節治の設計作品。建物右側の玄関上のくぼみを持たせたデザインなどが、函館に現存する仁壽生命支店に相通じる。 また坂の傾斜や建物前の道路に路面電車の軌道が敷かれていることを考えると、港区白金台1丁目の目黒通り・日吉坂にあったのではないかと思われる。そうなると先項で紹介した藤山家所有貸住宅と同様、藤山家関連の施設だった可能性が高い。 ----------------------------------------------------------------------- ![]() 大正末から昭和初期にかけて山中節冶は東京・銀座で数多くの商店設計を手掛けたが、このモナミもその中の一つ。ちなみに宇野千代をはじめ多くの文人がこの店を愛し、彼らの交流の場になっていたという。 ----------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも山中節治設計による銀座の商店建築。 ----------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() ・・・・現存せず 〔※М‐3〕 現在の千代田区神田錦町1丁目に建設された4棟続きの共同建築。設計者の山中は画一的に纏めるのではなく、一軒一軒に個性を持たせたバラエティーなデザインでこの建物を彩っている。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() 東京江東区にあるかっての肥料会社の店舗。当時の関根要太郎の設計作品は、関根の事務所に在籍していた蔵田周忠や小川光三・斉藤巌などの活躍により、モダンなデザインの作品が多かったが、この村林ビルは茶タイルに玄関上や軒周りのテラコッタなど、クラシカルな雰囲気を漂わす。 残念ながら平成30(2018)年はじめに解体された。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() 関根の実弟である山中節冶は、大正末に関根の事務所を独立してから邸宅・オフィスビル・商店などの設計を数多く手掛けたが、その中で現存する作品がこの鈴木ビルディング。当時流行していた外壁のスクラッチタイルや、江戸期の格子模様を彷彿とさせる1階上のアールデコ模様、建物右部分のボウウインドウなど山中の設計センスの良さが伺える作品。 なお設計者について現在〔新定蔵〕という紹介がよくされているが、『国際建築』昭和5年2月に掲載された新工務所の広告には、この建物の設計は山中節冶建築事務所が担当したという表記がされている。だがその数年後に洪洋社発行による『建築写真類聚』に新定蔵なる人物が誤載されたため、その後も山中の作品として認知されないまま現在に至っているようだ。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 東京内幸町に建設された地上6階・地下1階の巨大オフィスビルディング。関根が設計を手掛けた竣工物の中では、いちばん大規模な作品だったと思われる。また設計には関根建築事務所のメンバーのほか、このころ既に独立していた弟の山中節治や山中真三郎も参加した。なお建築顧問を長野宇平冶、構造計算は内藤多仲が担当している。 戦後この建物は、東京生命の本店として長らく使われていた。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() ![]() 現在の東京港区虎ノ門にあった日本郵船の倶楽部会館。内部の平面計画を日本郵船が計画し、建築顧問を当時日本一の建築事務所だった〔曾禰中條建築事務所〕が務めたが、建物随所のデザインに当時の関根建築事務所らしいモダンさが垣間見られる。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 生前の明治天皇が、この建物がある南多摩地域を訪れた事を記念して建てられたもの。設計者の関根は皇室関連の人物と人脈があった事や、この4年前に関根が設計を手掛けた京王閣を運営する京王電鉄が聖蹟記念館の建設に関わっていたなどの繋がりで、この建物の設計を引き受けたと考えられる。 表現派風のデザインで関根の代表作ともいえる作品。また下のモノクロ写真は竣工まもない頃の多摩聖蹟記念館。 ----------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 関根要太郎はこの建物が竣工した昭和5年ころ、蔵田周忠とのコンビを解消。またこれを境に今までのモダン路線からクラシカルな作風へと転向した。その過渡期ともいえるのが旧不動銀行七条支店である。また竣工当初は建物左にあるアーチ窓の下に、格子模様が施されたバルコニーが設置されていた。 ******************************************************* ★また建築家・関根要太郎の経歴については、以前投稿した関根要太郎についてをご参照下さい。 -------------------------------------------------------------------------- ※図版 〔※A〕・・・・・・『不動貯金銀行創立四十周年記念写真帖』昭和15年刊 〔※B‐7〕・・・・『建築画報』昭和2年8月号、国立国会図書館蔵 〔※B‐8〕・・・・『 〃 』昭和3年4月号、 〃 〔※B‐9〕・・・・『 〃 』昭和4年3月号、 〃 〔★b-1〕・・・・『 〃 』大正15年1月号 〃 〔★d〕・・・・・・『建築と社会』昭和2年2月号 〃 〔※I‐3〕・・・・『建築写真類聚、銀行会社編』 〃 〔※G‐1〕・・・・『日本建築士』昭和3年12月号 〃 〔※G‐2〕・・・・『 〃 』昭和6年3月号、筆者所蔵 〔※H〕・・・・・・仁壽生命株主配当金通知葉書より、筆者所蔵 〔※J〕・・・・・・・『ニコニコ風景図鑑』不動貯金銀行・昭和6年刊、都立中央図書館蔵 〔※М‐1〕・・・・『国際建築』昭和3年3月号、柏書房発行復刻版 〔※M‐2〕・・・・『 〃 』昭和4年12月号、 〃 〔※M‐3〕・・・・『 〃 』昭和4年7月号、国立国会図書館蔵 〔※O〕・・・・・・『成城学園五十年』成城学園発行、昭和42年 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-16 11:11
| ★関根要太郎・設計作品
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◆建築家・関根要太郎、主な設計竣工作品・4
(昭和5年~昭和8年、不動貯金銀行営繕課時代・前編) ![]() ![]() 上野の老舗パン屋として長年に渡り親しまれていた〔ナガフジ〕の、上野駅東口そばにあった店舗兼喫茶室。関根がこの建物の設計を引き受けたいきさつは、ご遺族のお話によると、昭和4年に関根が参加した米国視察旅行のさい、ナガフジのオーナー・永藤鉄三郎氏もこの旅行団に参加しており、ここで親交を深めたのが切っ掛けだったという。 こののちも永藤氏と関根の親交は続き、この喫茶部の竣工間もなくには永藤パンの上野公園口の店舗、戦後は空襲で被災した上野・日本橋の仮設店舗の設計を手掛ける事になった。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 現在の東京・六本木に建てられた不動銀行の店舗。建物正面の角の付いたオーダーなど、近世復興様式ともいえる作品。 この時期、関根は蔵田周忠とコンビを解消した事や、不動銀行の幹部から従来のモダンな作風を嫌う意見もあったそうで、以降の関根が設計を手掛ける不動銀行の店舗はクラシカルな作風へと変わった。また昭和6年には自らの建築設計事務所を閉鎖、不動貯金銀行専属の建築家として新たなキャリアをスタートする事になる。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 函館の東部・現在の駒場町に建てられた鉄筋コンクリート製、鉄骨屋根葺きの競馬場スタンド。予算16万円で観覧席のほか、投票所・騎手詰所なども同時に建設されている。 大正末より山中と親交のあった函館市議・泉泰三が同競馬倶楽部の幹事を務めていたこともあり、競馬場の設計も担当したと考えられる。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() ![]() 大正14年5月の秩父宮殿下・秩父三峯山登山を記念して建てられた会館。関根は前年の暮れに山形県五色温泉の六華倶楽部で殿下と拝謁した縁でこの登山に同行、そこで記念館建設が決定し、関根が設計を受け持つ事になった。 起工から3年の歳月をかけて竣工した会館は、和風をベースにしながらもどことなくモダン建築の雰囲気も漂わせる作風。施工は秩父の丸岡工務店(現・丸岡設計)が担当。また蔵田周忠、山中節治も設計に参加している。建物は非公開。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 山中節冶の故郷・秩父旧大滝村に建設された木造校舎。素朴な作りだが、出入り口の窓ガラスなど当時モダン建築家として活躍していた山中ならではのセンスが光る。現在は養護学校の校舎として使われている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 大阪の天神橋筋にあった不動銀行の店舗。石造り風の外壁に玄関脇の古典風のオーダーなど、これまでの関根作品とは違い銀行建築らしい重厚な雰囲気が漂う。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() ![]() 東京・日本橋の室町交差点角にあった不動銀行の店舗を解体し、関根設計により新築されたのがご覧いただいているこの店舗。少し余談になるが、以前の日本橋支店内には大正末から一時期関根の建築事務所も置かれていた。 関根設計の新日本橋支店はクラッシックリバイバル調のデザインで、竣工当初は外壁には花崗岩が貼られていたが、昭和10年に外壁を白タイル貼りに変更している。なお2枚目と3枚目の写真は外壁変更前の同店舗。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも近世復興式ともいえるクラシカルなデザイン。なお関根は不動貯金銀行専属の建築家になるにあたり、関根建築事務所時代の部下であった斉藤巌、巨勢利雄らを同銀行の営繕課に引き抜いている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 大正9年頃に関根の設計により建てられた以前の店舗を解体し、新築されたもの。不動銀行は事業拡大に伴い、以前の店舗の大きさでは業務に支障をきたしてきたようで、この時期には新店舗再建という事例が多くあった。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも先の仙台支店と同じく、大正期竣工の店舗を解体し新築したもの。竣工記録がないので結論付けられないが、作風から推測するに昭和7年から11年ころの作品と考えられる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() ![]() 寺本五郎は不動貯金銀行頭取・牧野元次郎の実子で、牧野の没後に不動銀行の頭取を務めた人物。この邸宅は牧野の邸宅の横に建設されたもの。これまでの関根の作風からは想像が付かない純和風の邸宅で、これ以降も関根は邸宅設計において純和風の作品を数多く制作していく事になる。 なお寺本邸は現在の東京港区六本木三丁目にあったが、昭和20年の空襲で焼失してしまったという。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() ![]() 当時新興の別荘地として開発されていた神奈川・鎌倉山に建てられた、不動銀行頭取・牧野元次郎の別邸。こちらも前年竣工の寺本邸と同様に純和風の作り。また関根はこの邸宅の基礎に、建築家・岡隆一発明の〔免震構造〕を採用した。 なお関根は不動銀行専属の建築家になったのを機に、同銀行の店舗のほか銀行幹部の邸宅、地方支店の支店長用の邸宅の設計も手掛けるようになった。 ***************************************************** ※図版 〔※A〕・・・・・・『不動貯金銀行創立四十周年記念写真帖』昭和15年刊 〔※B‐11〕・・・『建築画報』昭和7年9月号、国立国会図書館蔵 〔★b-2〕・・・・『 〃 』昭和7年3月号、 〃 〔※C〕・・・・・・函館市立図書館所蔵絵葉書 〔※G‐3〕・・・・『日本建築士』昭和7年5月号、国立国会図書館蔵 〔※G‐4〕・・・・『 〃 』昭和11年1月号 〃 〔※G‐5〕・・・・『 〃 』昭和11年5月号、 〃 〔※G‐6〕・・・・『 〃 』昭和10年1月号、 〃 〔※D‐5〕・・・・『建築世界』昭和5年9月号、 〃 〔※J〕・・・・・・・『ニコニコ風景図鑑』昭和6年、不動貯金銀行刊 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-16 06:54
| ★関根要太郎・設計作品
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◆建築家・関根要太郎、主な設計竣工作品・5
(昭和9年~昭和17年、不動貯金銀行営繕課時代・後編) ![]() 前年竣工の牧野元次郎・鎌倉山別邸に続き、この建物でも建築家・岡隆一発明の〔免震基礎構造〕を採用。現在も基礎部分には免震目的の柱が埋めこまれているという。岡隆一は関根の母校・東京高等工業学校の後輩で、これ以降関根は岡発明の構造方法を自らの設計作品に多く採用することになった。 またこの下関支店が竣工した昭和9年3月には、関根が数多く設計を手掛けていた函館で大火が発生。関根はこれ以降、耐震構造だけでなく災害に強い都市作りなどにも関心を示すようになる。見た目は地味な建物だが、これからの関根の建築活動を辿っていくと重要な現存作品といえるだろう。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 先の下関支店と同時期に建設され、こちらも岡隆一発明の〔免震構造〕を採用。 デザインは例の如くオーダーが並ぶ古典主義的な外観だが、この頃の関根の設計作品の特徴はオーダーが奥行きのない角張ったタイプのオーダーが多いこと。恐らく敷地の関係などで、場所をとらないこのようなスタイルのオーダーを採用したのではないかと考えられる。 また外観は大幅に改装されているが建物は現在も健在で、内装は銀行時代の面影を留める箇所が多く残っているという〔※МEGU・為栗裕雅さんから寄せられた情報による〕。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 昭和9年におこなわれた、東京市・新市庁舎の設計懸賞競技(いわゆるコンペ)。当時、東京・月島に巨大な新市庁舎を建設する計画があり、コンペ嫌いの関根も競技に参加。残念ながら一等は逃したが、選外佳作(一席)に入選。当時の関根は、このような路線の設計作品を作りたかったのではないかと想像できる応募案である。 ちなみに一等は宮地二郎、三等にはかの前川国男が入選している。戦局の激化により建設には至らず、終戦を迎えた。なお関根はこの頃、東京有楽町の第一生命本館新築の設計懸賞にも応募している。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 現在の大田区・久ヶ原から池上方面に建てられた純和風住宅。このころ関根が手掛けた和風住宅の中でも大規模な作品。調査不足のため、施主の前田氏と関根の関係は特定できず。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 先の前田邸と同様、現在の大田区に建てられた純和風の平屋住宅。当時の建築雑誌によると大森区の徳持(桐里)に建てられた模様。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 昭和7~8年にかけて紀州地方でたびたび起きた地震を機に建設された、不動銀行の支店長用の社宅。なお基礎には岡隆一開発の免震構造工法を採用している。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() ![]() 東京渋谷の南平台に建てられた和風住宅。施主の柳井信治は不動貯金銀行の監査役などを務めた人物。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 昭和9年3月に起きた函館大火で被災した以前の店舗に代わり新築されたのがこの店舗。防火を考えてか窓が極端に小さく取られているが、玄関上の扇状の装飾など洒落たデザインも見受けられる。また戦後は協和銀行の支店として昭和50年代初頭まで使われていたようだ。 なお昭和9年の函館大火後、関根は同地の復興事業に参加の意志を示していたが、被害規模が甚大なため結局それは果たされなかった。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 軒の鎧瓦や1階窓の飾り格子など古典的な雰囲気を漂わすが、装飾が少ない分すっきりした印象を受ける。旧所在地・熊本市辛島町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 現在の新宿一丁目・新宿通り沿いにあった店舗。またこの頃より国内は軍事体制強化のため、建築資材の価格が高騰。これ以降、関根は限られた資材でいかに不動銀行の店舗を建てるかという課題と向き合うことになった。 なおこの建物も、昭和50年代初頭頃まで協和銀行の店舗として使われていたようだ。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() この年、兵庫大仏前に新規開店した不動銀行の店舗。玄関付近に装飾が施されているほかは、かなりシンプルな出来栄え。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 現在の台東区駒形一丁目・江戸通り沿いに建てられた店舗。建築資材の高騰などが関係しているのだろうか、外観は至ってシンプルで逆に当時のモダン建築の主流に乗ったかなのような印象も受けてしまう。 またこの建物は戦後、協和~あさひ銀行の店舗としてバブル期まで使われていた。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() この徳島支店も浅草支店と同系列のデザイン。旧所在地・徳島市西新町。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() この頃になると建築資材の統制が更に厳しくなってきたようで、デザイン云々というより、建てるがやっとだったのではないかと思える作品。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらも戦時色が色濃くなったころの設計作品。当時の関根は、限定された資材でいかに建物を建てるかという問題と前向きに取り組んでいたようで、この時期の設計が戦後埼玉でおこなった低予算での公立学校の校舎や公共建築の設計活動に、役立ったのではないかと思えてくる。 また関根は昭和17年に不動貯金銀行を退職するが、終戦間際まで不動銀行は首都圏を中心に新店舗を開店していてたので、それらの店舗営繕にも携わっていた可能性が高い。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 先の池袋支店と同時期に竣工した支店。こちらも建築資材が限られていた事もあり、シンプルな出来栄え。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 関根が昭和14年、建築学会に発表した論文『不燃都市の建設と共同建築に就いて』に掲載されていた共同住宅の図案。 この論文は、小さな土地や家屋を所有する地域(バラック街)を火災や空襲の被害から未然に防ぐために、不燃素材の共同住宅建設を助長させようという内容で、共同住宅の建設組合結成や建設費の調達など具体的な事例までが論文内では論じられている。また論文作成に関根と同様、函館で活躍した建築家・木田保造が協力していることなどを考えると、昭和9年3月に起きた函館大火が、関根にこのような問題と向き合う切っ掛けを作らせたのではないかとも思えてくる。 実際の設計作品ではないが、当時関根が都市問題に多大な関心を示していたことを紹介したく、こちらの項で取り上げさせていただいた。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 関根は昭和10年代後半に埼玉県浦和に居を移したが、その頃に設計を手掛けたのが〔鳩の家〕と名付けられたアパート。 また関根は同じころ浦和でこの他にも数軒のアパートや邸宅の設計も手掛けている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 厚木の地主・井上家所有の相模川沿いの土地が公園として寄付されることになり、その園内に建設されたのがこの松菊庵だった。 ***************************************************** ※図版 〔※A〕・・・・・・『不動貯金銀行創立四十周年記念写真帖』昭和15年刊 〔※D‐6〕・・・『建築世界』昭和10年4月号 〔※D‐7〕・・・『 〃 』昭和18年5月号 〔※D - 8〕・・・『 〃 』昭和17年1月号 〔※d‐3〕・・・『 〃 』昭和10年3月号 〔※G‐8〕・・・『日本建築士』昭和12年4月号 〔※G‐9〕・・・『 〃 』昭和12年10月号 〔※K〕・・・・・『建築雑誌』昭和14年3月号 〔※N〕・・・・・『住宅』復刻版、柏書房出版 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-16 05:43
| ★関根要太郎・設計作品
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◆建築家・関根要太郎、主な設計竣工作品・6
(昭和26年~昭和30年、戦後作品・前編) ![]() 山中の故郷・埼玉県秩父に建設された会館。昭和24年に着工されたが建設途中に山中が病に倒れたため、兄・関根要太郎がその仕事を引き継ぎ昭和26年2月に竣工させている。 建物正面に付けられた半円形の小窓のデザインなど、二人が大正・昭和初期に得意としたモダンデザインを連想させる。なお建物は秩父市熊木町の市役所の敷地内にあった。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() こちらも山中の故郷・秩父の三峯神社内に建設された食堂や宿泊施設を兼ねた施設。 この建物も病に倒れた山中に代わり、関根が仕事を引き継ぎ竣工。 なお山中は昭和27年1月に57歳で亡くなっている。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 埼玉県桶川町は、戦後間もなく都心からの人口流入に伴う就学児童増加のため、慢性的な校舎不足に悩まされ、二部制授業をおこなう事により校舎の不足を補っていた。 そのような状況を解決するために桶川町は校舎建設を検討するが、戦後の混乱期で慢性的な予算不足。限られた予算で校舎を建設できる技術者を探していた桶川町は、戦前不動貯金銀行の幹部を務めていた天沼雄吉(桶川出身)の紹介により関根に校舎設計を依頼する。 そして関根は岡隆一発明の〔平衡構造工法〕を用い、通常の半額の予算(686万円)で写真左手前の木造2階建て・10教室の校舎を昭和27年4月に竣工させた。なお写真右手に写る昭和28年竣工の校舎も関根が設計を担当したものと思われる。 関根が設計した低予算で建設された桶川の学校建築は埼玉県内で評判となり、これ以降関根は埼玉県内の公共建築の設計を数多く手掛ける事になった。 ![]() ![]() ------------------------------------------------------------------------- ![]() 両神村中学校は昭和27年3月に火災で前校舎を焼失。そして関根の設計により木造2階建て・8教室の校舎を予算940万円で同年7月から着工、五ヵ月後の12月に竣工させている。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 上尾町は昭和26年に火災で以前の町役場を焼失。昭和27年に新庁舎建設の計画が纏まり、同年隣町・桶川の小学校校舎を低予算で建設させた関根に設計を依頼。そして関根は昭和28年2月に、予算600万円・工期四ヶ月で鉄筋コンクリート2階建ての校舎を竣工させた。 またシンプルな外観の庁舎は『県下一モダンな庁舎』と当時の新聞に紹介されるなど、評判は上々だったようだ。なおこれ以降関根は上尾の公共建築を数多く手掛ける事になる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 前年の桶川北小学校に引き続き関根が設計を手掛けたのが桶川中学校の校舎と講堂。 この校舎の竣工により桶川の校舎不足問題は解決された。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 前年竣工の上尾町役場に続き、関根が設計を担当した上尾の公共建築。 当時上尾町も児童数急増による校舎不足の問題を抱えており、上尾小学校の分校舎として昭和29年12月に竣工したもの。 平成24(2012)年4月に新校舎建設に伴い、約半世紀の役目を終えた。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 現在の長瀞町(旧野上町)は、昭和28年にそれまで使っていた町役場が狭隘になったため新庁舎の建設を町議会にて可決。その後、視察に赴いた野上町の関係者たちの目に留まったのが関根設計による低予算で建てられた上尾町の庁舎だったという。そのような経緯から野上町は昭和28年夏に関根に設計を依頼し、昭和29年3月より工期6ヵ月・予算735万円で鉄筋コンクリート2階建て庁舎を建設させた。 なお写真でご覧いただいているのは、平成8(1996)年、解体直前の庁舎。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 昭和29年10月、羽生市の南部・下手子林(旧手子林村)に竣工した鉄筋コンクリート製3階建・12教室の校舎。先に紹介した上尾市立中央小学校と同様、当時の埼玉ではまだ珍しい鉄筋コンクリート製校舎ということで、竣工時は地域周辺関係者からの注目を浴びた。 なお関根設計による同校舎の大きな特徴は、廊下なし校舎というスタイルを取っていること。手子林小の場合は、左右2箇所の昇降口から階段をのぼり直接教室へ入るというもの。このような設計に至ったのは、戦後間もなくの混乱期で建設予算の不足を補うことが背景にあったと考えられる。なお関根はこれ以降の校舎設計においても、廊下なし校舎というスタイルを幾つかの作品で採用している。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 当時の資料調査が不十分だが、写真左手の木造・4教室の校舎の設計を関根が担当したと考えられる。また関根の経歴書によると鳩ヶ谷小学校の設計の仕事も記載されており、時期的に考えると翌年(昭和31年)に竣工した同校の6教室を関根が設計を担当したと考えられる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 上尾町立の保育園。上尾町役場の傍に建設された木造園舎。 ******************************************************* ★図版 〔※1-a〕・・・・『秩父市要覧、昭和26年度版』 〔※1-b〕・・・・『大滝村要覧、昭和29年度版』 〔※2〕・・・・『桶川市立桶川小学校、開校20周年、開校50周年史』 〔※3〕・・・・両神村教育委員会提供 〔※4〕・・・・『上尾町百年史』上尾市刊 〔※5〕・・・・『桶川市立桶川中学校50年史』 〔※6〕・・・・『広報ながとろ』平成8年7月発行より 〔※7‐a〕・・・『埼玉県学校大観』新日本教育振興会、昭和32年 〔※7‐b〕・・・『羽生市要覧 昭和33年度版』 〔※8〕・・・・『鳩ヶ谷市立鳩ヶ谷中学校30周年史』 〔※9〕・・・・『上尾市史 第七巻通史編・下』 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-16 04:44
| ★関根要太郎・設計作品
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◆建築家・関根要太郎、主な設計竣工作品・7
(昭和30年~昭和34年、戦後作品・後編) ![]() ![]() 昭和のはじめに開設された、共立薬科大学(共立薬科女子専門学校、現在は慶応義塾大学に統合)。戦前、同校の理事を不動貯金銀行頭取・牧野元次郎が務め、牧野は校舎建設などに多額の寄付をおこなうなど、関根が店舗設計を手掛けていた不動銀行とは縁の深い学校でもあった。 昭和29年、同校の大学昇格に際し校舎の増築が決定し、関根は昭和30年竣工の図書館・教室・食堂、同33年竣工の冒頭の写真でご覧頂いた本館校舎の上に増築された講堂の設計を手掛けた。ちなみに昭和7年竣工の本館も関根設計の可能性が高いという〔※a〕。そして2番目にご覧頂いた右手前に写るのが関根設計による校舎。1990年代半ばにおこなわれた校舎改築に伴い、いずれも取り壊されている。 また関根はこの頃、銀座4丁目三原橋の明祐国際会館ビルの設計にも関与したというが、当時の資料が見当たらず詳細は不明。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 2年前の小学校、前年の保育所に続き、関根が上尾で引き受けたのが上尾中学校の校舎の設計。写真右側部分はは昭和31年、残り左側部分は翌32年と2期に分けて建設された。 上尾市の公立学校の校舎改築事業に伴い、平成26(2014)年の夏に解体された。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 鉄筋コンクリート3階建て、33教室、延べ1190坪という、戦後関根が手掛けてきた埼玉の公立学校の中でも最大のもの。ガラス張りの階段室などモダンなデザインが印象的だったが、同中学校の新校舎完成に伴い、平成18(2006)年の夏に解体された。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 埼玉県旧秩父郡大滝村の三峯神社より、少し山を下った三峰集落に建つ小学校の旧分校舎。晩年関根が制作した経歴書の中に大滝村の小学校を設計したと記載されているが、時期や作風、人脈などを考えると、海抜1100メートルに建つ三峰分校がそれに該当すると思われる。小学校の閉校後は埼玉県白岡町の施設として使われていたが、現在は空き家になっている。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() 生徒の集合写真の背後に写るのが、当時建設中だった関根設計による鉄骨平屋の講堂。なお昭和39年の東京オリンピック時には各国選手団の練習場として使われていたそうである。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 関根設計による上尾町庁舎(昭和28年築)の隣に建設された600席のホールの他に、研修室などを兼ね備えた市民会館。昭和60年代初頭に新市庁舎の建設に伴い、関根設計の旧町役場(この時は備品庫として使われていたそう)とともに取り壊されている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 上尾・桶川・伊奈の3市町村合同により設立された上尾商業学校。校舎建設は3期に分け計画され、関根は玄関から左側の第1期工事の設計を担当した。なお第2期工事の設計も関根が担当する予定だったというが、着工直前の昭和34年2月に関根が亡くなったため、他の人物に設計管理は委ねられたという。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 戸田に建設された初めての鉄筋コンクリート校舎。後年に増築された校舎の陰に隠れるように建っているが、まだ現役の校舎として使われている模様。なお軒の庇や廊下などは後年に取り付けられたもののようだ。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 足場がかかり建設中の校舎が関根設計によるもの。鉄筋コンクリート3階建て、延べ370坪、特別教室を含め15教室。 なお関根はこの年、秩父郡皆野町立小学校の校舎設計の依頼を受けていたが、予算上の都合により建設は実現に至らず。また同時期に秩父旧大滝村立小学校の設計も手掛けた。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 昭和30年代、埼玉県浦和市では新市庁舎の建設が論議されており、関根は当時の浦和市長・川久保義典に、地上9階建て・延べ坪数3000・総工費3億円案を含む計画書〔浦和市庁舎新築計画に就いて〕を提出。この関根による新市庁舎計画案は、東京新聞埼玉版で大きく報じられたが、予算の折り合いがつかず実現には至らなかった。 なお上の図版は、関根のご遺族から頂いた当時の新聞の切り抜き。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 5年前、関根設計により建設された上尾中央小校舎の北側に増築されたもの。この校舎建設中の2月、関根は上尾の現場で体調を崩し自宅療養を続けるも同月20日に69年の生涯を閉じた。 関根が亡くなる前年にあたる昭和33年に作成した経歴書には紹介されていないものの、ご遺族のお話や建物のデザインなどを考えると、この校舎が遺作と思われる。建物は同小学校の北側校舎解体に伴い、平成24(2012)年に解体された。 ******************************************************* 〔※a〕・・・・・北海道大学大学院卒業・永井義浩氏の卒業論文(関根家寄贈)による ※図版 〔※10〕・・・・・『共立薬科大学四十周年史』昭和45年、共立薬科大学発行 〔※11〕・・・・・『戸田町報』昭和32年4月20日、戸田町発行 〔※12〕・・・・・『上尾自治便り』昭和33年1月20日、上尾市発行 〔※13〕・・・・・『羽生市教育要覧』昭和33年、羽生市発行 〔※14〕・・・・・『東京新聞・埼玉版』昭和33年、関根家提供 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-16 03:33
| ★関根要太郎・設計作品
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