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◆当ブログのタイトル『関根要太郎研究室@はこだて』は、大正から昭和初期に函館をはじめ日本国内で活躍した建築家の故・関根要太郎氏を紹介したく付けさせていただきました。また、関根氏の作品の他にも、同氏の設計作品が多く残る函館の歴史的建造物や、同時代のモダン建築なども紹介しております。
◆このブログの写真は当サイト製作者の撮影によるものですが、それだけでは全てを紹介しきれないため、大正から昭和初期に発行された当時の書籍・建築関連の雑誌・新聞等の記事・図版を一部転載しております。またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。 なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 ◆当ブログ製作者は、建築業や建築学に携わっていない、素人研究家です。建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。そのつど御指摘していただければ幸いです。 ◆本ブログ掲載の写真および図版、記事内容の無断転用はご遠慮ください。但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません(大した写真では御座いませんが・・・・)。もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。 ◆また本ブログの記事内容と関連のないコメント、トラックバックは削除させていただく場合もございますので、予めご了承ください。 **************** ★excite以外のリンク --------------------- ❖『ギャラリー村岡』のjirojiro junction ❖分離派建築博物館 ❖収蔵庫・壱號館 ❖新・我愛西安、観光と生活情報 ❖なんだか函館 ❖建築ノスタルジア ❖トロンボーン吹きてっちゃんの独り言 ~函館応援プログ~ ❖虚数の森 Forest of im aginary number ❖ウイリアム・メレル・ヴォーリズ展 in近江八幡 ❖MEGU 「めぐ」を究めよう ❖建築日誌 ❖ありがとう 明石小学校舎☆幼稚園舎 ❖中央区立明石小学校の保存活動 ❖近代建築青空ミュージアム タグ
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◆五島軒本店旧館 ・・・・・昭和10年竣工、全国的に知られる老舗レストランの美しい旧館 今年10月中旬に開催された、〔はこだて外国人居留地研究会〕の全国大会。その2日目におこなわれたエクスカーションは、午前中は大型観光バスで入舟町の外国人墓地と、船見町の旧ロシア領事館を訪問した。 老朽化が相当進んでいるものの、とても興味深いロシア領事館の室内デザインに満足した筆者は、再び大型バスに乗車。急峻な下りの幸坂と、海岸段丘の上に設けられたバス通り(弁天末広通)を大型車は走り、末広町・二十間坂中腹の昼食会場、五島軒へと到着したのである。 五島軒といえば、全国的にも知られる、函館を代表する老舗レストラン。その歴史は明治12(1879)年に、創業者である埼玉鴻巣出身の若山惣太郎が、富岡町(現在の弥生町)で、パン屋を開業したのがその始まりである。また五島軒という店名は、長崎五島列島出身の五島英吉が料理長を務めていたことから、この名が付いたという。 当初はロシア料理を提供していた五島軒だったが、徐々にフレンチのメニューへとシフトチェンジし、現在へと至っている。特にレトルトパックでも販売されているカレーは、全国的にも有名なものだ。そういうことで大会参加者一行も、新館雪河亭の大部屋でフランスカレーを食したのである。 個人的には五島軒と言えば、食事以外にももう一つの楽しみがある。それとは本店旧館の建物鑑賞である。五島軒の旧館は、昭和9(1934)年3月の大火で焼失した、大正11(1922)年竣工の本館に代わるものとして、昭和10(1935)年の9月に竣工したものだが、なかなか見どころの多い建築作品だ。 食事終了後、談笑の花が咲く会場を後にして、一人カメラ片手に館内を探索してみた。ルネサンスの細部装飾を削ぎ落としたシンプルな外観とは違い、建物内は当時最先端のデザインだった、アールデコの調度品で纏められているのも、この作品の特徴の一つである。 伝統とモダンが融合した、五島軒のとても美しい店舗。その設計を手掛けたのは、竹下茂と亀井勝次郎(1910~1981)という二人の建築家である。 設計者の一人である亀井勝次郎については、以前にも何度か紹介させていただいたが、函館区議や函館貯蓄銀行の支配人を務めていた地元の資産家・亀井喜一郎の次男として函館に生まれている。ちなみに兄は、作家・評論家として知られる亀井勝一郎(1907~1966)である。 勝次郎は明治40(1907)年と大正10(1921)年という、二度の函館大火の復興時期にこの町で幼少期を過ごした。特に大正10年の大火後は自宅の再建を、全国的に活躍していた新進気鋭の若手建築家であった関根要太郎(1889~1959) 、山中節治(1895~1952)兄弟が設計を手掛け、近隣では木田保造(1885~1940)や、中村鎮(1890~1933)という東京でも活躍する若手の技術者たちが、函館の新しい街並みを彩っていた。 そのような若手の建築家や技術者たちの活躍に刺激されたのか、勝次郎は東京の早稲田大学理工学部建築学科へ進学。昭和9(1934)年に同校を卒業している。その間もなくに故郷函館でまたも大火が起きたのである。 この大火後、亀井勝次郎は約二年間に渡り函館市土木課に勤務し、函館大火の復興に従事する。その頃に手掛けたのが、五島軒の新店舗の設計だった。ちなみに勝次郎の父・亀井喜一郎と、五島軒のオーナーである若山徳次郎は、長年地元の名士として親交があったので、大学を卒業して間もない勝次郎にその大役を委ねたと想像される。 しかしこの五島軒、当時20代前半だった亀井勝次郎にしては、とても落ち着いたデザインである。幼少の頃から、函館で最新の建築に親しんでいた勝次郎にとって、これが最良のデザインと思ったのだろうか。控えめなその外観に、若き建築家の生まれ故郷に対する、愛情が伺えるような気がしたのである。 昭和9年の大火直後に、多感な少年時代を函館の様々な彩りのモダン建築の中で育った、青年建築家が手掛けた五島軒、何度見てもその美しさに息を吞んでしまう。食事で立ち寄った際には、その建物の内外もじっくり鑑賞して頂きたい、函館の名建築の一つである・・・・。 ![]() ◆五島軒本店旧館 ◎設計:竹下茂、亀井勝次郎 ◎施工:勝田組 ◎竣工:昭和10(1935)年10月 ◎構造:鉄筋コンクリート造2階建て ◎所在地:函館市末広町4-13 ❖国登録有形文化財 ❖函館市景観形成指定建造物 ![]() ![]() 五島軒のもう一人の設計者・竹下茂は、大正13(1924)年に東京の工手学校を卒業。神奈川藤沢に移築現存する旧近藤邸を管理するhiraiさんによると、竹下はアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトの高弟の一人である、建築家・遠藤新(1889~1951)の事務所に勤めていたという。 また昭和9年の函館大火後、遠藤新の建築事務所では、五島軒のすぐそばに建つ竹田内科医院の新病棟の設計を手掛けており、それを機にスタッフの一人として函館に来たという可能性も考えられる。まだまだそのプロフィールに謎が多い建築家の一人である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 建物内の調度品は1930年代竣工の建物らしくフールデコ調。 ![]() 五島軒の有名なステンドグラス。平成14(2002)年に、隣地の不審火によりステンドグラスや店内の一部が焼失したため、こちらは後になり複製されたものである。 ![]() ▼PCでこの記事をご覧の方は、下のMoreをクリックして頂くと、引き続きの記事がご覧になれます。
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by sy-f_ha-ys
| 2016-12-17 08:17
| ◆昭和モダン建築探訪
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![]() ◆三井本館 ・・・・・昭和4年竣工、日本橋に鎮座する新古典主義のオフィスビルディング 東京都中央区の日本橋と言えば、江戸時代から続く交通の要衝。江戸の初めに東海道・中山道・日光道・甲州街道・奥州街道の五街道の始点になったのを機に、平成の現在まで繁栄を続けている。 また近ごろの日本橋と言えば三井不動産主導による再開発事業により、町が大きく変貌をし始めている。しかし交通の要衝で古くから商業の中心地域だったという場所柄、美しい数多くの歴史的建造物が残っているのが、この地域の見どころの一つである。 それらの歴史的建造物は、町の顔とも言うべき日本橋(明治44年架橋)をはじめ、日本銀行本店(明治29年築)、 三越百貨店(昭和2年築) 、野村證券本店(昭和5年築) 、 近三ビル(昭和6年築) 、高島屋百貨店(昭和8年築)など紹介し始めたら、きりがない。その代表的な建造物と言ったら、三井グループの本拠地である三井本館だろう。 冒頭の写真でご覧いただいた石造りのビルがその三井本館だが、その重厚な姿は圧巻そのもの。関東大震災で損傷した先代の三井本館(明治35年築)に代わる、三井財閥の本社オフィスとして昭和4(1929)年に建てられたものである。 なお日本橋における三井の歴史は古い。三井の創業者である三井高俊の四男にあたる三井高利が、天和年間(1680年ころ)に、三井本館とそのお隣の三越が建つ場所で、呉服店と両替商をはじめて以来、約330年間に渡りこの地で商いをおこなっている。また明治期に三井は呉服店を分離し、のちに三越百貨店となる三井呉服店(三越)が発足することになった。 明治以降、組織の近代化を図った三井グループは、欧米諸国の大企業に劣らない、アメリカンスタイルのオフィスの建設を目指す。そして明治35(1903)年には、アメリカ帰りの建築家・横河民輔(1864~1945)の設計による、鉄骨煉瓦造3階建ての三井本館を竣工させる。なおこのオフィス、電動エレベーターを設置するなど、最新の設備を多く兼ね備えた最先端のオフィスビルだったという。 しかし大正12(1923)年の関東大震災では、三井自慢のアメリカンオフィスも大被害を受けてしまう。そういうことで三井グループは、震災にも耐えうる新たなる本館の建設を計画。アメリカ・ニューヨークに拠点に活動する、トロ―ブリッジ&リヴィングストン社に設計を依頼し、大正15(1926)年の6月から建設工事に着手。施工もアメリカのジェームス・スチュワート社が担当し、昭和4(1929)年3月に当時としては巨大なオフィスビルディングが竣工した。 なお建設費は2131万円という、当時のオフィスビルとしては破格の予算が投入され、構造はもちろん外観・内装ともに豪華絢爛な作りなっているのも、この作品の最大の特徴と言えるだろう。建物三方に巡らされた外壁のコリント柱の数々は、いつ見ても圧巻そのものである。 アメリカ仕込みの三井本館であるが、一人の日本人青年建築家が建設に参加している。その建築家とは松田軍平(1894~1981)。当ブログでは昨年北九州市・門司港レトロの建築探訪記、旧三井物産門司支店(昭和12年築)の回で紹介したが、アメリカ留学を機にトロウブリッジ&リヴィングストン社に就職。三井本館の設計に関与するとともに、建設中は工事管理副主任をつとめる。ちなみにげんそんする横浜と名古屋に現存する同事務所設計の三井支店も、松田軍平が設計・管理に大きく参加したという。 この三井本館、すべてがアメリカ主導になる訳でなく、松田軍平のような日本人建築家たちが、日本の風土に合わせた建築へと設計を変更していったのかも知れない。そのような埋もれた名脇役たちの存在は、この作品を見学する上では目逃せない点である。 アメリカの建築事務所が設計したことや、あまりにも豪華すぎる作りのせいもあってか、同様の新古典主義のデザインで纏められた、東京丸の内の旧明治生命館(設計:岡田信一郎、昭和9年築)と比べ、評価が低いような気がする三井本館。 しかし頑丈な建物を作ってそれを長く大切に使おうという、三井の企業色カラーが見事に出たのが、この三井本館ではないかと筆者は考える。スクラップ・アンド・ビルドを積極的に推進しすぎて、町の大切な歴史的遺産を台無しにしてしまった、丸の内とは違う志の高さを感じられるのが日本橋であり、三井本館ではないかと思う。決して見逃してはいけない、東京の美しい名建築の一つである・・・・・。 ![]() ◆三井本館 ◎設計:トロ―ブリッジ&リヴィングストン社(Trow Bridge& Living Stone) ◎設計監督:リチャード・H・クック ◎構造設計:ワイッスコッフ&ピックワース社 ◎施工:ジェームス・スチュワート社(James Stewart&Co.) ◎施工監督:ジョン・H・パリッシュ ◎起工:大正15(1926)年6月24日 ◎竣工:昭和4(1929)年3月23日 ◎構造:鉄骨鉄筋コンクリート造7階建て、地下2階 ◎所在地:東京都中央区日本橋室町2-1-1 ❖国指定重要文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▼PCでこのサイトをご覧の方は、下のMoreをクリックして頂くと、引き続きの写真をご覧になれます。 More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-09-24 10:24
| ◆昭和モダン建築探訪
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![]() ◆旧東京帝室博物館本館 ・・・・・昭和12年築、上野の顔ともいえる和洋混在の巨大博物館建築 今年も以前には考えられなかったような、猛暑の日々が続いた東京の夏。7月の休日くらいまでは、暑さをごまかしながら東京都立の庭園を訪ねていたが、8月のとんでもない暑さでは、屋外の活動も限界に達してしまったのである。 そういうことで筆者が次のターゲットに選んだのが、東京の博物館・美術館巡りであった。しかし最初に訪ねた美術館は思いのほかの混雑で、人ごみに疲れてしまうという散々な結果に。そういうことで筆者が次の訪問先に選んだのは、上野の東京国立博物館であった。これだけの大規模な施設なら、人ごみを気にせず休日を過ごせるだろう。 上野の国立博物館を訪問するのは、中学生の社会科見学以来だという妻を連れ博物館へ入館。今回はいつも大混雑している特別展はパスして、通常展のみを見学することにした。しかしその通常展だけでも本館のほか、東洋館、法隆寺館とそのボリュームはかなりのものである。そういうことで今回は軽く流しながら、一通りの展示を巡ることにしたのであった。 そういうことで最初に訪問したのは、東京国立博物館の顔とも言うべき本館。昭和12(1937)年に竣工した、重厚な鉄骨鉄筋コンクリート造の建物だ。和風とも東洋的とも見えてくるその独特なデザインも、いつ見てもインパクトがある。 さて東京国立博物館の前身である帝国博物館は、明治5(1872)年のオーブン。明治10(1877)年には現在博物館が建つ、上野寛永寺本坊跡地へと施設を移転する。そしてその4年後には、お雇い外国人として来日したばかりの、イギリス人建築家ジョサイア・コンドル(1852~1920)設計による、煉瓦造りの本館が竣工。それ以降、帝国博物館は帝室博物館と名を変えながら、上野の地で博物館の活動を続けていくのである。 しかし大正12(1923)年の関東大震災で、コンドル設計の博物館本館は倒壊。その後博物館は、残った表慶館(設計:片山東熊、明治41年築)をはじめとした施設で運営をおこなうが、それでは手狭になり昭和3(1928)年に新本館の建設が決定する。 そして博物館新本館の設計案は、懸賞競技でおこなわれることになる。また「日本趣味を基調とした東洋式」というデザインの募集要項が決められ、昭和6(1931)年に273という応募案の中から、建築家・渡辺仁(1887~1973)の作品が採用された。 渡辺仁と言えば横浜のホテルニューグランド(昭和2年築) 、 東京南新宿の小田急電鉄旧本社(昭和2年築) 、 東京銀座の服部時計店(昭和7年築) 、 東京有楽町の第一生命本館(昭和13年築)などの設計で知られる、戦前を代表する建築家の一人である。特に大正中期から建築業界で流行していた設計競技を得意とし、これにより数々の仕事を手に入れている。それと余談になるが、渡辺と同世代の建築家・関根要太郎(1889~1959)は、設計競技を毛嫌いし(苦手とし)、このような企画に殆ど参加しなかった。 昭和6年の渡辺仁による当選案を基づき、帝室博物館・新本館の建築工事は翌年から開始。5年後の昭和12(1937)年に、この巨大な博物館建築は竣工している。また実施設計を手掛けた宮内省内匠寮によりデザインは若干変更されたが、渡辺の原案のイメージを崩さない姿でこの作品は完成している。 外観は和と洋そしてアジアンテイストが混在した感じだが、支離滅裂になる訳でもなく違和感なく纏まった出来栄え。また内装もとても品がよく、展示品と上手い具合に調和しているのも、この博物館建築の素晴らしい点だろう。 なお渡辺仁の原案による旧帝室博物館、日本的要素を多くデザインに採用し、軍事色が濃くなった昭和10年代に竣工したということもあり、国粋主義的な建築の代表作というレッテルを貼られているのも事実。確かに玄関や屋根の造形に、この時代ならではの仰々しさも感じられる。しかしこの博物館で時間を過ごすうちに、そのような違和感を抱かなくなってしまうのが、この博物館の不思議な魅力である。 最近はユネスコの世界文化遺産に認定された、国立西洋美術館ばかりに注目が集まるが、上野の山を代表する建築作品は、国立博物館の本館と言って過言ではないだろう。もし国立博物館が、西洋美術館と同じような箱のようなデザインの建物だったら、上野の山も博物館の展示品も魅力ないもになっていたに違いない・・・・・。 ![]() ◆旧東京帝室博物館(東京国立博物館本館) ◎原案設計:渡辺仁 ◎実施設計:宮内省内匠寮 ◎施工:大林組 ◎竣工:昭和12(1937)年11月 ◎構造:鉄骨鉄筋コンクリート造2階建て、地下1階 ◎所在地:東京都台東区上野公園13-9 ❖国指定重要文化財 ![]() ![]() ▼PCでこの記事をご覧の方は、下のMoreをクリックして頂くと、引き続きの写真をご覧になれます。
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by sy-f_ha-ys
| 2016-09-09 16:09
| ◆昭和モダン建築探訪
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◆旧岩崎彦彌太別邸 ・・・昭和9年築、武蔵野の美しさを残す殿ヶ谷戸庭園に建つ素朴なモダン邸宅 このところの筆者の楽しみは、 東京都立の文化財庭園巡りである。今年5月に旧岩崎邸庭園(旧岩崎久彌邸、明治29年築)を訪れたのを機に、以前訪れたものを含めこれらの庭園を訪ねてみたくなったのである。そういうことで先月の深川の(江東区)清澄庭園に続き、梅雨の晴れ間の7月上旬に訪れたのが、東京の中央部に位置する国分寺市の殿ヶ谷戸庭園であった。 平安時代に国家鎮護のために、武蔵国分寺が建立されたのに由来し、この地名が付けられたという国分寺。武蔵野台地の南端に位置し、河川の浸食によってできた浸食崖が市内を横断していることから、土地の起伏はもちろん市内各地に残る雑木林や湧水群など、自然の恩恵にも恵まれた美しい町である。 筆者が暮らす武蔵野台地東端の町から電車を乗り継ぐこと約30分、到着したのは中央線と西武線が乗り入れる国分寺駅である。筆者は国分寺の近隣にある西武沿線の町で育ったこともあり、この駅は何度となく利用し、この周辺も何度か歩いたことはあったのだが、殿ヶ谷戸庭園に訪れるのは今回が初めてであった。 大型ターミナルビルが建つ南口を降りて左手にあるのが、今回訪問する殿ヶ谷戸庭園である。園内は崖線(はけ)の地形を生かした場所に造成され、アカマツや孟宗竹など木々が生い茂る、武蔵野の自然の美を凝縮したような美しい庭園だった。 この庭園は明治・大正期に活躍していた、実業家・江口定條(えぐちさだえ、1865~1946)の別邸として、大正初期に造成されたのがその始まり。そして昭和4(1929)年には、三菱財閥の三代目社長を務めていた、 岩崎久彌(1865~1955)の長男・岩崎彦彌太(1895~1967)が、土地と屋敷を取得。自身の別邸とする。 ちなみにこの別邸の主である岩崎彦彌太は、東京帝国大学卒業後にイギリス・オックスフォード大学に留学。昭和9(1934)年からは三菱合資会社の副社長を務めるなど、三菱財閥の5代目オーナーになる手筈は整っていたが、戦後のGHQ指導による財閥解体政策に伴い、その座を第三者に譲っている。そのような時代の変わり目の悲運に遭遇してしまったのが、彦彌太だったのである。 そのような悲劇に見舞われた岩崎彦彌太であるが、新たな屋敷の主になったときは、まだ30代という若さであった。彦彌太は、土地取得の間もなくに屋敷の改築を開始。昭和9(1934)年には冒頭の写真でご覧いただいた洋館、またその同時期には崖下の池を望む茶室・紅葉亭、昭和13(1938)年には鉄筋コンクリート製2階建ての蔵が竣工したという。なおこの土地の管轄が岩崎家から東京都の庭園へと移行するさい、建ぺい率の制限があったため解体されてしまったが、洋館の背後には木造2階建ての和館が建っていたという。 そしてこの邸宅の顔とも言うべき洋館は、津田鑿(つださく、1880~?)という建築家が設計を手掛けたそうである。津田のプロフィールについては不明な点が多いのだが、明治13(1880)年に兵庫県姫路にて生まれ、明治31(1898)年に東京の工手学校建築科を卒業している。 その後は鉄道院や大蔵省の勤務ののち、三菱地所部に勤務する。またこの頃、三菱のお抱え建築家であった保岡勝也(1877~1942)と共同設計をおこなったり、大正・昭和に三菱関連の主要建築を多く手掛ける、 建築家・桜井小太郎(1870~1953)の下で働くなど、三菱との人脈を築き、信頼を勝ち得た人物だったことは想像に難しくない。 さて三菱のプリンス・岩崎彦彌太が建てた国分寺の別邸であるが、父や叔父などの岩崎一族が建てた邸宅に比べると、とても素朴な感じである。お金持ちの邸宅を見ると、その豪華さや美しさに感動する反面、その過度なリッチさが鼻につくのだが、この別邸に関しては言えばそれがまるでない。施主の岩崎彦彌太や、別邸の設計を担当した津田鑿は、武蔵野の自然が豊かに残る庭園に、過度に豪華な屋敷は必要ないと判断したかも知れない。 武蔵野台地の自然とともに育った筆者にとっては、武蔵野の自然と調和したこの邸宅と庭園で過ごす時間は、とても贅沢なものであった・・・・・。 ![]() ◆旧岩崎彦彌太別邸 ◎設計:津田鑿 ◎施工:不詳 ◎竣工:昭和9(1934)年 ◎構造:木造平屋 ◎所在地:東京都国分寺市南町2-16(都立殿ヶ谷戸庭園内) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▼PCでご覧の方は、下のMoreをクリックして頂ければ、引き続きの写真をご覧なれます。 More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-07-16 07:16
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![]() ・・・・・昭和2年竣工、山手の高台に建ついぶし銀のアール・デコ調モダン建築 前回の横浜市イギリス館(旧英国総領事公邸、昭和12年築)の記事内でも紹介させて頂いたが、横浜の元町地区と山手の丘へのアクセスを格段に改善させたのが、みなとみらい線の元町・中華街駅にあるアメリカ山公園へのエスカレーターとエレベーターの設置。みなとみらい線開通前は、山手から元町地区へ上り下りするルートと言うのは、バスであったり徒歩であったり、まちまちだったような気がするが、最近人々の動きはアメリカ山公園へと集中している感が強い。 そのような新たな施設のオープンを意識してか、横浜市もそれに関連した再開発を幾つか行っている。例えば山手のメインストリートとも言える、山手本通りのアメリカ山公園入口脇の旧税関施設の跡地に、ブラフ99ガーデンと言う小公園を造成し、一昨年オープンさせている。この隣にある外人墓地に関しては以前のままだが、この界隈も雰囲気がかなり変わったような気がする。 そしてこれらの再開発のお蔭で、以前は隠れるように建っていた、山手のいぶし銀の建築作品が表通りからよく目立つようになった。その作品とは、現在は横浜地方気象台として使われている、旧神奈川県測候所(昭和2年築)である。 近年の再開発のお蔭もあり?、外人墓地前の山手本通りから、冒頭の写真でご覧いただいたように、建物の全容を把握できるようになった横浜気象台。しかし今から十数年前は、表通りからは隠れて建つ、知る人だけが知るマニアックな建築作品だった。 横浜地方気象台の前身にあたる神奈川県測候所は、明治28(1896)年に現在の中区海岸通で業務を開始したのがそのはじまり。しかし大正12(1923)年の関東大震災で、これまでの施設が倒壊。そして山手の旧米国病院跡地に、新たな測候所を建設した訳である。その後、この測候所は国に移管され横浜地方気象台となり、現在に至っている。 また現在は国の管轄となっている横浜地方気象台だが、建設当初は神奈川県の施設だったこともあり、庁舎の設計は県の営繕財課が担当している。当時この課は成富又三(1881~1955)がトップの座に就き、震災で倒壊した先代の庁舎に代わる、 新たな庁舎を建設している時期だった。 そのような震災復興が多忙な時期に:、建設されたのが神奈川県測候所。その設計は、県の営繕財課に在籍していた、繁野繁造(1897~?)という技師が担当している。なお繁野は日本大学高等工学校(現在の日本大学工学部)を卒業したばかりの、まだ20代後半の若手技師だった。 そして当時20代だった繁野が測候所設計で取り入れたのが、このころ流行り始めていたアール・デコ調のデザイン。官庁建築という事もあってか、上司による手直しが施されたように思える堅い箇所も見られるが、全体的には若さ溢れるデザインで纏められている。 なお外壁は当時のコンクリート建築に良く用いられた、人造石洗出し仕上げ。玄関廻りには富国石と言う人造石が貼られている。現在は安藤忠雄氏(1941~)設計による、鉄筋コンクリート打ちっ放しの新庁舎に合わせるように、グレーの塗装が塗られている。しかし竣工当初はその色は白だったというから、今の印象とまた違ったものだったかも知れない。 これは殆ど知られていないようだが、旧庁舎をはじめとした地方気象台の施設の一部は、平日ならば内部見学が可能である。昭和2年竣工の旧観測所内は、一部耐震工事が施されているが、竣工当時の図面や写真を参考に、ほぼ往時の姿に再現されたという。 また内装はアール・デコ調の外見とは一転、曲線的で木目を強調した温かみのあるデザインである。このような折衷的な作りも、この時代ならではのものと言えるだろう。 みなとみらい線:元町・中華街駅の、アメリカ山公園口へ乗降する人で賑わっているこの界隈。道行く視線を少し横にやれば、いぶし銀のレトロ建築が建っている。機会があれば是非一度見学して頂きたい、山手の隠れた名建築である・・・・・。 ![]() ◎設計:神奈川県営繕財課(担当:繁野繁造) ◎施工:出水組 ◎竣工:昭和2(1927)年11月 ◎構造:鉄筋コンクリート造3階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市中区山手町99 ❖横浜市有形文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() またそれを機に、昭和2年竣工の庁舎と、居留地時代に造成されたその周辺にあるブラフ擁壁と共に、横浜市の有形文化財に登録されている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-03-12 12:12
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![]() ・・・・・昭和12年竣工、山手の丘に建つ伝統と新風を融合させた白亜の洋館 気が付けば横浜の関内地区を走る、みなとみらい線の開通から早や12年。そして西武池袋線・東武東上線・東京メトロ副都心線・東急東横線・みなとみらい21線による、5社合同の相互乗り入れ開始から、間もなく3年が過ぎようとしている。以前は横浜に出掛けるには、何回も乗り換えなければならなかったが、現在は直通電車に乗れば、1時間余りで横浜へ行けるようになった。本当に便利の一言に尽きる。 そして更に便利なったのは、みなとみらい線終点の元町・中華街駅からエスカレーターやエレベーターに乗れば、 山手の高台(アメリカ山公園)へ、急なブラフの坂を上らずに行けるようになったことである。当初は邪道だと思っていたが、気が付けばここへ訪れるたび使わせて頂いているとは、何とも情けない話である。 しかし個人的に好きな山手へ上るルートというのは、エスカレーターやエレベーターや路線バスではなく、やはり徒歩である。外人墓地横を上る見尻坂、フェリス横の西野坂、クリフサイドの代官坂、共立学園の乙女坂なども素敵だが、大好きなのは港の見える丘公園へ繋がる谷戸坂である。 開港間もない古写真で、たびたび紹介されている事でも知られる、歴史のある谷戸坂だが、その東側には裏坂とも呼べる脇道が通っている。この裏坂、外国人居留地時代に築かれたブラフ擁壁が続く、静寂に包まれた美しい坂なのだが、とにかくその傾斜はかなりのもの。覚悟を決めて、心を無の状態にして上らなければならない。 そして、この急坂を息を切らせながら上りきり、港の見える丘公園に辿りつくと最初に見える洋館が、冒頭の写真でご覧いただいた横浜市イギリス館である。その名から想像がつくように、横浜に駐在していた英国総領事の公邸として、昭和12(1937)年に建てられたものだ。 またもや話が脱線してしまうが、今から20年ほど前は山手の西洋館で公開されている物件は少なく 、港の見える丘公園と外人墓地以外は、観光客の姿をほとんど見かけない土地だった。今では想像がつかないが、アメリカ人建築家:J・H・モーガン(1873~1937)設計の山手111番(旧ラフィン邸、大正15年築)や、 ベーリックホール(旧ベーリック邸、昭和5年築)などは、高い塀に囲まれ内部の様子を窺う事が出来ない、幻の洋館だったのである。 そのような山手の西洋館の中で建物の全容を把握できたのが、港の見える丘公園脇に建つ横浜市イギリス館だった。しかし館内が公開されることも少なく、ある意味幻の洋館とも言える存在であった。 そのような横浜市イギリス館が、一般公開されるようになったのは、筆者の記憶が確かならば平成14(2002)年こと。この年は長年幻の洋館と言われ続けてきた、ベーリックホールの公開が始まった頃もあり、イギリス館に関しては注目が低かったような気がする。 確かにとても贅沢な室内調度品と装飾デザインが続く、ベーリックホールと比較すると、イギリス館の室内調度品はかなり地味な印象を受ける。外観デザインも、 下関 、 長崎 、函館、 東京 、 横浜 に建てられた大使館・領事館の流れを引き継いだものである。昭和に入ってからの竣工であるが、英国の伝統を大切にする気質を感じさせる作品ではないだろうか。 大英帝国らしい堅実な印象を受ける、横浜山手の英国総領事公邸。しかし昨年の春、久々に建物内外をゆっくり見学してみて、伝統の中にも当時の新しいデザインを取り入れた、とても洒落た箇所が幾つかある事も発見することができた。例えば玄関上の丸型のトップライトが、その代表例と言えるだろう。また質素な室内調度品も、当時のモダニズムの影響を受けたものではないかと、筆者は推測してしまったのである。 横浜の歴史的建造物ウオッチ歴約20年にして、今更ながらその良さが分かってきた横浜市イギリス館。港の見える丘公園内の薔薇の花が咲き乱れる、これからの季節がこの建物見学の旬ではないかだろうか・・・・。 ![]() ◎設計:大英工部総署(上海ワーク・オフィス) ◎施工:不詳 ◎竣工:昭和12(1937)年 ◎構造:鉄筋コンクリート造2階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市中区山手町115-3 ❖横浜市指定文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ジョージ6世は、現在即位しているエリザベス女王の父で、この建物が竣工する前年に英国王に就任している。ジョージ6世は、2010年に公開されたグラミー賞映画、[英国王のスピーチ]でもおなじみ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-03-05 11:05
| ◆昭和モダン建築探訪
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![]() ・・・・・・昭和5年築、丹頂鶴のように優雅でモダンな刑務所建築 早いもので、今年も10月。毎年この季節になると、建築がらみのとても気になるイベントが一つある。それは東京小菅にある東京拘置所の矯正展である。 その話を聞いて、「なぜ刑務所なんかを見に行きたいの?」と、思われた方も多くいらっしゃるかも知れない。実を言うと、戦前に建てられた刑務所や裁判所をはじめとした、司法関連の建築はレベルが高いものが多く、その幾つかが東京やその近郊に今も残っている。その中の一つが東京拘置所なのである。 そして秋晴れの土曜日、今日の訪問先が拘置所という事もあってか、心なしか緊張気味の妻を連れ、JRと東武伊勢崎線を乗り継ぎ向かったのは、荒川の川岸にある最寄りの小菅駅であった。駅のホームから周辺を見渡すと、荒川の橋梁を東武線のほかJRや東京メトロなどの電車が、ひっきりなしに轟音をあげて通過し、荒川沿いには首都高速の中央環状線が高架で走っているという、かなり騒々しい環境である。しかし拘置所がある事もあってか、町は妙に静まり返っているという印象を受けた。不思議な緊張感が漂う町である。 高架複々線になっている島式の狭いホームから、駅の薄暗く長い階段を下り改札へ向かう。このまま静寂のなか拘置所へ向かうのかと思っていたが、その予想は大外れ。駅前から拘置所見学へ向う道には、拘置所見学へ行くと思わしき人たちが、列を成すように続々と歩いていた。更に会場に到着すると、そこはお祭りのような賑わいで、ここが拘置所かと疑うほど開放的で明るい雰囲気が漂っていたのである。 平成に入り東京拘置所は建て替えがおこなわれ、10年ほど前に竣工した管理棟と収容棟が使用されているが、その西側には戦前に竣工した施設が一棟残されている。それが冒頭の写真でご覧いただいた旧管理棟で、この日目的としていた歴史的建造物である。 さて中央に時計付きの監視用の塔屋が付いたこの管理棟、先ほども紹介させて頂いたように、戦前に竣工した施設の中で数少ない現存する建造物。ちなみに東京拘置所の前身となった小菅刑務所(小菅監獄)は、明治12(1879)年の開設で、その当時は内務省直轄の集治監だった。また大正12(1923)年の関東大震災で、これまで使っていた刑務所施設が倒壊したのを機に、新たな施設の建設を開始。約6年の歳月をかけて昭和5(1930)年に、鉄筋コンクリート造の管理棟を含む諸施設がほぼ竣工している。 中央の高い塔と左右の2階建てのウイング部分が、丹頂鶴のように見えてくる旧小菅刑務所の管理棟。ちなに現在、管理棟の外壁には黄緑色のペンキが塗られているが、竣工時はコンクリート打ちっぱなしで無塗装の状態だったという。以前から写真でその美しさに魅了されていた筆者であったが、その実物はその予想を遙かに上回る素晴らしいものだった。 なおこの日の入場は拘置所横の面会口からだったが、荒川沿いの正面表門から入っていくと、この管理棟が真正面に見えてくるという仕掛けになっている。視覚的にもインパクトのある建築作品である。 そして旧小菅刑務所の設計は、この当時司法省の営繕課に所属していた建築家・蒲原重雄(1898~1932)が担当したという。蒲原は岡山の生まれ、大正11(1922)年に東京帝国大学を卒業間もなくに、司法省に就職し同省の技師になった人物である。 また大正末から昭和初期にかけての国内の建築業界は、表現派というデザインが全盛を極めていたが、蒲原設計の小菅刑務所もその流れを汲んだものだった。しかし他の表現派の作品が、西欧の流行りの細部デザインにその解決策を求めたのに対し、蒲原の作品は和の美をそのルーツに求めているようにも思えてしまった。 なお小菅刑務所の設計者である蒲原はこの作品の竣工直後、結核のため34歳という若さで亡くなっている。ちなみに司法省の先輩技師であり、大正建築の最高傑作と誉れ高い、豊多摩監獄(大正4年竣工)の設計を手掛けた後藤慶二(1883~1919)も、大正10年に36歳の若さでこの世を去った。罪を犯した人たちを収容し罰を処する、刑務所の設計は、その命を削るほどに酷な仕事だったのだろう。 羽ばたく丹頂鶴のように美しい、蒲原設計による刑務所の管理棟。若き建築家が遺した、昭和初めを代表する芸術的な建築作品であった・・・・・。 ![]() ◎設計:蒲原重雄(司法省営繕課) ◎施工:直営 ◎竣工:昭和5(1930)年 ◎構造:鉄筋コンクリート造2階建て ◎所在地:東京都葛飾区小菅1-35 ❖DOCOMOMO選定・日本の建築20選(平成11年) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2015-10-24 07:24
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![]() ・・・・・昭和7年竣工、古代様式プレヘレニズムで彩られた宮殿風建築 季節ごとに訪れてしまうのが、横浜の関内と山手地区 。 函館や神戸や門司港などの港町も素敵だが、自宅から電車に乗って1時間程度で行けるという事もあり、その訪問数は群を抜いて多い訳である。 そして真夏の猛暑もだいぶ落ち着いてきた9月の中旬、例の如く副都心線経由の元町・中華街行きの電車に乗り向かったのは横浜。しかし今回はその途中駅の東横線・大倉山駅で下車し、気になる建築作品を見学する事にしたのである。その建築作品とは大倉山記念館、冒頭の写真でご覧いただいた建物がそれである。 大倉山駅で降りるのは十数年振りのこと。急な山の傾斜に強引に建てられた、この周辺に建つ高級住宅の数々に驚きながら、線路脇の急坂を上ること数分、その小高い丘の山頂に大倉山記念館は建っていた。古代西洋の宮殿建築のような佇まいは、圧巻そのもの。 現在この建物は横浜市の所有になっているが、もとは大倉精神文化研究として昭和7(1932)年に竣工したものである。またこの周辺は太尾という地名だったが、この記念館の名称が徐々に定着し、現在の大倉山という地名に変更されたという。 この大倉山精神文化研究所は、東京で洋紙店を経営する大倉邦彦(1882~1971)が設立したもの。ちなみに大倉は日本の教育や思想の乱れを憂い、私財を投じこの研究所を作ったのだという。なお大倉はこの他にも幼稚園や農業学校の設立に尽力するほか、東洋大学の総長を2期務めるなど教育にも情熱を注いだ人物であった。 そして大倉は横浜近郊の太尾村の土地を、東急電鉄の経営者であった五島慶太(1882~1959)から買収。東京帝国大学卒業で日本銀行の技師などを務めた、工学博士の建築家・長野宇平治(1867~1937)に研究所本館の設計を依頼した。 長野宇平治の設計により昭和7年に竣工した大倉精神文化研究所は、プレヘレニズムというスタイルで纏められている。このプレヘレニズムというのは、古代ギリシャ以前のクレタ・ミケーネ文明の建築様式なのだそうで、下に行くたびに細くなる玄関や塔屋の柱、裾が少し余った感じになっているペディメントなどに、その特徴が表れているという。この他に堂々とした建物の構成も、ギリシャのパルテノン神殿などの、古代宮殿建築を彷彿させるものだ。 そのような大倉精神文化研究所だが、正面破風に彫刻された鳳凰をはじめ、和のエッセンスを取り入れた意匠も取り入れられている。また今回は見学できなかったが、殿堂と呼ばれるメインホールは、国内の寺社建築に良く見られる斗拱が用いられているという。 ちなみに設計者である長野宇平治は和風建築の造詣も深く、この他にも西洋の古典主義の研究に励んでいる。藤森照信氏の著書によると、19世紀のフランスや、イタリア・ルネッサンス期に刊行された建築書、 アンドレア・パラディオ(Andrea Palladio、1508~1580)の著書など、貴重な書籍を収集しその研究を更に奥深いレベルに引き上げたという。 長野はその研究の成果を北海道銀行本店(小樽、明治45年築) 、 三井銀行下関支店(山口、大正9年築)などの自身の作品で、純粋な古典主義建築として体現していく。そのような長野の古典主義建築を更に深く遡ったのが、横浜の大倉精神文化研究所だったのである。 長野宇平治というと、どうしても辰野金吾(1854~1919)の弟子と紹介され、その評価が曖昧になってしまうことが多い。しかし横浜の大倉精神文化研究所を見ると、師・辰野とは別の路線で、アカデミックな建築スタイルを追求していたことを、痛感させられる。ちなみに長野は、この作品竣工から5年後の昭和12(1937)年に70年の生涯を閉じたのだが、この大倉精神文化研究所が、長野のキャリアの集大成と言える作品である。 黄金に輝く天井塔屋の吹き上げに圧倒されながら、世界の建築様式をすべて呑み込んだようなスケールの大きい作品を、満喫したこの日の訪問であった。 ![]() ◎設計:長野宇平治、荒木孝平 ◎施工:竹中工務店 ◎竣工:昭和7(1932)年4月 ◎構造:鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て、地下1階 ◎所在地:横浜市港北区大倉山2-10-1 ❖横浜市指定有形文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2015-10-10 10:10
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![]() ・・・・・昭和3年築、明治洋画界の巨匠・黒田清輝を記念するクラシカルな絵画館 前回取り上げたのは、 東京丸の内の明治生命館(昭和9年築) 。お堀端に建つ古典様式によるアメリカンスタイルのオフィスビルは、戦前に建てられた西洋様式建築の傑作と評され、多くの人を魅了する美しい建築作品である。また当時の国内建築界を代表する建築家の一人であった、岡田信一郎(1883~1932)の遺作としても知られる作品だ。 岡田信一郎と言えば、洋風・和風と様々なデザインの作品を手掛けた、建築設計の名手として知られる人物である。しかしその作風が多様過ぎて、今一つ掴みどころが無いというのが、個人的な感想だ。 そのような岡田信一郎という建築家の謎を解くべく、出掛けたのは東京の上野公園。ここには岡田の代表作の一つとも言える、建築作品が現存している。その作品とは、東京文化財研究所と東京国立博物館が運営する、黒田記念館(昭和3年築)だ。冒頭の写真でご覧いただいた、茶色のスクラッチタイルが美しい、イオニア式のオーダーやアンティフィクス(鎧瓦)などの、古典様式の装飾で彩られた作品がそれである。 この黒田記念館、大正13(1924)年に亡くなった洋画家・黒田清輝(1866~1924)の遺言に従い、黒田の遺産の一部を美術の承継発展を目的として建てられたものである。黒田が教授を務めていた東京美術学校(現東京藝術大学)の敷地内に建てられ、その記念館の設計はやはり同学校の教授を務めていた岡田信一郎が手掛ける事になった。 さて黒田清輝、時代が違うと言え一人の洋画家がそれだけ莫大な遺産を?と、筆者は疑問を抱いてしまった。調べてみると黒田は薩摩藩士の裕福な家に生まれ、10代の後半にはフランス留学も経験し、晩年は貴族院議員を務めていたりする。つまり経済的な余裕の上で、その才能を開花させた芸術家だったのである。 近代洋画界の大家・黒田清輝を記念した黒田記念館、その設計は東京美術学校の教授だった岡田信一郎が手掛けた訳だが、華やかさが要求される商業建築とは一転、とても禁欲的な作風が特徴として挙げられる。ちなみに内装は数年前の改修工事で若干の変更がされたというが、階段の装飾を除くと展示室のデザインも控えめな感じだ。 また現在、建物正面の玄関前には大きな銀杏の木が、目いっぱい葉を生い茂らせているが、不思議とそのような周辺環境とごく自然に馴染んでいるのが、この作品の面白さである。 周辺の木々の緑にちょっと負け気味の黒田記念館だが、岡田は建築が主役とは捉えず、東京美術学校の大先輩教授・黒田清輝の作品や、緑豊かな上野の自然を念頭にこの記念館を設計したのかも知れない。そのような岡田信一郎のさり気ない気遣いも感じられるのが、黒田記念館である。 自らの個性を無理に押し通さないというのも、岡田という建築家の懐の深さなのかも知れない。これまであまり意識していなかった建築作品だったが、時間をかけて見学するにつれて、その美しさを実感できた作品であった・・・・・。 ![]() ◎設計:岡田信一郎 ◎施工:竹中工務店 ◎竣工:昭和3(1928)年10月 ◎構造:鉄筋コンクリート造2階建て、地下1階 ◎所在地:東京都台東区上野公園13-9 ❖国登録有形文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
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| 2015-09-26 06:26
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![]() ・・・・・昭和9年築、お堀端に建つ古典主義スタイルの正統派オフィスビル 武蔵野台地中央に位置する東京北多摩の町から、武蔵野台地東端の町へと転居して早や二年。出掛ける場所と言えばそれまでと大した変化がないが、最寄りの駅から東京メトロの副都心線と有楽町線の直通電車へ乗れることもあり、休日はその沿線の町を訪れることがかなり多くなった。 またその時の散策コースの終点を、 東京駅や有楽町駅を選択することが多かったため、丸の内界隈を歩く機会も増えた筆者である。 皆さんもご存じのように、丸の内は十数年前から、この土地のオーナーである三菱地所の主導により再開発がおこなわれ、町の様相は一変。高度成長期に建てられた、無機質で画一的なオフィスビル街から、ガラス張りの高層ビル街へと変貌を遂げている。 正直なところ再開発前もその後も、町並みがワンパターンという印象は拭えないが、休みの日になると、不気味なほどに静まり返っていた以前の丸の内とは違い、とても賑やかな場所になったのは紛れもない事実である。そのような変貌著しい丸の内で、竣工から80年に渡り生き続けている、風格溢れる美しいオフィスビルディングがある。それが今回取り上げる明治生命館だ。 明治生命館(明治安田生命館)は、昭和9(1934)年の竣工。明治生命は日本初の近代的保険会社として、明治14(1881)年に創業。また三菱の系列会社である同社は、三菱合資会社が赤煉瓦造の一号館に次いで仲通りに建設した、三菱二号館へ明治28(1895)年に入居。大正期に入ると明治生命はこのビルディングを正式に買収し、同社の本社ビルとして引き続き使っている。 しかし時代の経過と共にその事務所も手狭になってきたため、昭和3(1928)年に同社は新社屋の建設を決定。以前の明治生命館(三菱二号館)を設計した、建築家・曾禰達蔵(1853~1937)が建築顧問を務める形で、8人の建築家による指名コンペを実施。そこで当選したのが、東京美術学校(現東京芸術大学)教授で、東京帝国大学卒業の建築家・岡田信一郎(1883~1932)による案だった。 岡田は東京新橋の生まれ。高等師範付属中学、第一高校を経て、東京帝国大学工科大学へ入学。なお明治39(1906)年に大学を卒業するのだが、このとき成績優秀につき天皇から銀時計を賜る。更に卒業後は研究の道を志し、東京美術学校や早稲田大学の講師を務める。 また大正9(!920)年ころより、本格的な建築の設計活動を開始。鳩山一郎邸(東京、大正13年築)を始めとした洋風建築から、純和風建築の歌舞伎座(東京、大正14年築)まで、卓越したデザイン力で幅広い建築を手掛けることになった。その代表作の一つが、東京丸の内の明治生命館だったのである。 そして岡田の案による明治生命の新社屋は、昭和5(1930)年5月に起工。また岡田の建築事務所のメンバーで、実弟の岡田捷五郎(おかだしょうごろう、1894~1976)は、起工間もなくに近代的オフィスビル研究のため、アメリカへの視察旅行をおこなっている。 スタートは順調だった明治生命館の新築工事だったが、建設途中には設計者である岡田信一郎が病に侵され、昭和7年4月に急逝するというアクシデントに見舞われる。しかし弟の捷五郎がその仕事を引き継ぎ、建設工事は続行。お堀端の巨大オフィスビルは、こうして竣工に至った。 そして明治生命館の外観は、外周に15本のコリント式オーダーを取り付け、軒にはギリシャ建築によく見られるアンテフィクス(鎧瓦)、半円アーチ窓が並ぶルスチカ式による1階部分のベースメントなど、西洋の古典主義建築の要素が満載のデザインとなった。 なおこのころ丸の内に竣工したオフィスビルディングと言うと、 東京中央郵便局(設計:吉田鉄郎、昭和6年築) 、 第一生命館(設計:渡辺仁、昭和13年築)など、モダニズム全盛だった時代に、この古典主義のデザインはとても珍しいものとなった。これは20世紀初頭に、アメリカの建築界で流行していた、クラシックリバイバルの影響を受けたもので、そのデザインとは反面、オフィスビル内は先の2つのオフィスと同様に、最先端の施設を備えているのが最大の特徴である。 昭和戦前のオフィスビルディングの最高傑作として、誉れ高い明治生命館。時代の流行に翻弄されない力強さと美しさを兼ね備えた作品だ。丸の内の宝とも言えるこのオフィスビルディング、これからも多くの人たちを魅了し続けていく事だろう・・・・・。 ![]() ◎意匠設計:岡田信一郎、岡田捷五郎 ◎建築顧問:曾禰達蔵 ◎構造設計:内藤多仲 ◎施工:竹中工務店 ◎竣工:昭和9(1934)年3月31日 ◎構造:鉄骨鉄筋コンクリート造8階建て、地下2階 ◎所在地:東京都千代田区丸の内2-1-1 ❖国指定重要文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
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| 2015-09-12 07:12
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