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◆当ブログのタイトル『関根要太郎研究室@はこだて』は、大正から昭和初期に函館をはじめ日本国内で活躍した建築家の故・関根要太郎氏を紹介したく付けさせていただきました。また、関根氏の作品の他にも、同氏の設計作品が多く残る函館の歴史的建造物や、同時代のモダン建築なども紹介しております。
◆このブログの写真は当サイト製作者の撮影によるものですが、それだけでは全てを紹介しきれないため、大正から昭和初期に発行された当時の書籍・建築関連の雑誌・新聞等の記事・図版を一部転載しております。またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。 なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 ◆当ブログ製作者は、建築業や建築学に携わっていない、素人研究家です。建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。そのつど御指摘していただければ幸いです。 ◆本ブログ掲載の写真および図版、記事内容の無断転用はご遠慮ください。但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません(大した写真では御座いませんが・・・・)。もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。 ◆また本ブログの記事内容と関連のないコメント、トラックバックは削除させていただく場合もございますので、予めご了承ください。 **************** ★excite以外のリンク --------------------- ❖『ギャラリー村岡』のjirojiro junction ❖分離派建築博物館 ❖収蔵庫・壱號館 ❖新・我愛西安、観光と生活情報 ❖なんだか函館 ❖建築ノスタルジア ❖トロンボーン吹きてっちゃんの独り言 ~函館応援プログ~ ❖虚数の森 Forest of im aginary number ❖ウイリアム・メレル・ヴォーリズ展 in近江八幡 ❖MEGU 「めぐ」を究めよう ❖建築日誌 ❖ありがとう 明石小学校舎☆幼稚園舎 ❖中央区立明石小学校の保存活動 ❖近代建築青空ミュージアム タグ
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◆厳律シトー会灯台の聖母トラピスト修道院 ・・・・・2016年秋、トラピスト修道院を再訪する 報告が遅くなったが、先月の中旬に約半年ぶりに函館を旅した。今回の函館旅行の訪問の目的は、筆者の函館古建築研究の師匠であるSさんが会長を務める、〔はこだて外国人居留地研究会〕全国大会に参加するためである。 はこだて外国人居留地研究会は、平成19(2007)年の発足。結成3年目の平成21(2009)年には、東京築地、横浜、大阪川口、神戸、長崎の外国人居留地研究会が参加する全国大会を開催。それから7年後の今秋、函館では第2回目の全国大会がおこなわれたのである。 前回の大会は会が発足して間もないころで、エクスカーションの案内役や設営準備など、Sさんのお手伝いをいろいろさせて頂いた。しかし今回は研究会メンバーも増え、会運営も安定してきたようで、一聴講者として会に参加した次第であった。 なお今回は函館滞在の前半と、大会最終日におこなわれたエクスカーションなどで、色々な歴史的建造物を撮影することができた。そういうことで本日から暫らくの間、函館の建築探訪記をおこなわせていただきたい。例の如くスローな記事更新になりそうだが、気長にお付き合い頂けたら幸いである。 函館滞在初日、空港到着間もなくから降りだした冷たい小雨が止んだ昼過ぎ、市電を途中下車し向かったのはJRの函館駅である。ここから今年3月の北海道新幹線開業に伴い、JR北海道から営業分離されて開業した、道南いさりび鉄道に乗り下車したのは、北斗市(旧上磯町)の渡島当別だった。目的地はトラピスト修道院、3月の函館滞在時より約半年ぶりの訪問である。 この日、筆者は市内散策を予定していたが、午前中に乗った函館市電で、居合わせた団体の外国人観光客たちのハイテンションさに付いていけず、逃げるように道南いさりび鉄道のローカル線列車に飛び乗ったのである。ちなみに今回の外国人居留地研究会のテーマが、〔開港・開市とフランス〕いうことで、フランス人カトリック修道士が開院したトラピストは、とっておきの訪問先になった訳だ。 函館市郊外のトラピストは明治29(1896)年の開院。信者により寄進された当別の原野を開拓し、現在の美しい修道院が完成した。ちなみにクッキーやバター飴のパッケージでお馴染みの、赤レンガの美しい院舎は明治41(1908)年の竣工。その後、昭和13(1938)年、昭和40(1965)年、昭和49(1974)年などの院舎、聖堂の増築を経て、現在の修道院が完成したという。ちなみに函館土産でお馴染みのトラピストのクッキー工場は、昭和43(1968)年の竣工。修道院舎の裏側に建っている。 なお大正半ばから昭和初期にかけて、函館で活躍した在京の建築家・関根要太郎(1889~1959)も、トラピストを何度か訪ねたようで、自身の手記で修道院の美しさを絶賛している。 午前中冷たい雨を降らせた重たい空も、筆者が渡島当別に到着した頃には消え去り、見事な秋空が広がった。今回も3月のトラピスト訪問に引き続き、修道院への参詣道〔ローマへの道〕を歩き、修道院の表門を目指す。雪解けが始まった初春のトラピストも良かったが、今回の訪問も心が洗われるような美しい光景が広がっていた。 なおこの時は時間的に余裕があったので、表門より徒歩20分ほどの場所にある、ルルドの洞窟にも足を延ばしてみた。10年近く前に訪ねたときは曇空で今一つの眺望だったが、このときは眼下の修道院や、函館湾、函館山が一望できる感動的な風景が広がっていたのである。トラピストに来て良かったと思える、最高の瞬間だった。 トラピスト修道院の交通アクセスというと、自動車が一般的な手段となっている。しかし個人的には、道南いさりび鉄道に乗って、駅から延びる美しい参詣道を歩いてここへ訪ねた方が、感動が何倍も増すのではないかと考えるのである。時間の早さだけでは、感動は得られないと思った今回の訪問である。また別の季節にトラピストを訪れてみたいものだ・・・・。 ◆厳律シトー会、灯台の聖母トラピスト修道院 ◎設計:不詳(外国人技師もしくは外国人牧師の可能性があり) ◎施工:不詳 ◎竣工:明治41(!908)年 ◎構造:煉瓦造2階建て ◎所在地:北海道北斗市三ッ石392 ![]() ![]() ![]() ▼PCでこの記事をご覧の方は、下のMoreをクリックして頂くと、引き続きの写真をご覧になれます。
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by sy-f_ha-ys
| 2016-11-05 09:05
| ◆明治モダン建築探訪
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![]() ◆旧岩崎彌之助深川別邸池辺茶亭 ・・・・モダンが隠し味、明治42年竣工の和風茶亭 曇ってはいるものの、なかなか雨が降らない6月の関東地方。降るのか降らないのかはっきりしない天気の、土曜日の午後に地下鉄を乗り継ぎ向かったのは、東京江東区の清澄庭園だった。この施設は富岡八幡宮や亀戸天神とともに、下町風情残す江東区の歴史的名所の一つである。 この日の午後の都心は、無風の蒸し暑い陽気だったが、回遊式林泉庭園内には涼しい風が時おり吹いており、至福のひと時を過ごすことが出来た。 この清澄庭園の歴史は古く、江戸期の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷があったと言われる土地を、下総関宿藩士・久世氏の屋敷として使っていたという。しかし時代が明治になると、家主はいなくなりその屋敷と庭も荒廃してしまったというが、明治11(1878)年に三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎(1835~1885)が、この土地を買収する。 それ以降、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手し、明治13(1880)年には深川親睦園として庭園は完成する。その後も三菱財閥の二代目オーナー・岩崎彌之助(1851~1908)、三代目オーナー・岩崎久彌(1865~1955)らによって、庭の造営は続けられた。 また関東大震災を機に岩崎家は、東京市に庭園の東半分を東京市へ寄贈。震災で傷んだ庭園の整備をおこない、昭和7(1932)年から清澄庭園として一般公開が始まった。この深川の岩崎邸の敷地西側には、三菱と縁の深いイギリス人建築家ジョサイア・コンドル(1852~1920)の設計による、美しい洋館(明治21年竣工)も建っていたが、このときの震災で倒壊してしまっている。 その中で岩崎時代の唯一の生き残りと言える建造物が、大泉水と呼ばれる池の南側中央に建つ涼亭である。明治42(1909)年に建てられた涼亭、岩崎家時代は来賓を接待する茶室として建てられたもので、現在は有料の貸室として使われている。大泉水の周辺を歩くと殆どの方向から見える、この庭園のランドマーク的な建造物である。 数寄屋造りで純和風の涼亭、その設計は当時三菱の技師を務めていた、建築家の保岡勝也(1877~1942)が担当している。保岡と言えば明治33(1900)年の東京帝国大学卒業後、三菱に技師として入社し、一丁倫敦と呼ばれる三菱による丸の内のオフィス群の建設を、ジョサイア・コンドル(1852~1920)、曾禰達蔵(1853~1937)から引き継ぎ手掛けた人物である。 この茶亭は、国賓として来日したイギリスの軍人・キッチナー元帥(Horatio Herberd Kitchener、1850~1916)を接待するため、岩崎家が建てたものである。昭和60(1985)年に全面改修されたほか、現在は建物両脇に洗面所・トイレなどが付けられているが、当時の写真を見ると ほぼ竣工時の形を保っているようだ。 明治末、当時三菱のオフィスビルをの設計を数多く手掛けていた、保岡勝也により建てられた岩崎家の池辺茶庭(涼亭)。保岡はのちに和風住宅への研究と制作に没頭することで知られるが、この頃は後年に比較すると、和風建築への造詣はさほど深くなかったと想像する。 一見すると数寄屋造りの、ごく普通の和風建築といった佇まいの涼亭。しかしその設計には外国人を迎えるにあたり、靴のまま室内に入れるよう絨毯敷にし、室内を低く感じさせないよう、障子に代わり艶消しガラス採用したという。このように純和風の中に、洋風を忍ばせているのもこの作品の興味深い点である。 5月に岩崎家の邸宅と、三菱と縁があった建築家・保岡勝也の作品を見たのを機に、訪れたくなった清澄庭園の涼亭。今や国際的な観光大国を自称するようになった日本にあって、100年前に建てられたその魁とも言うべき和風施設との出会いに、また新たなる興味が沸いた筆者であった。なお次回は東京の武蔵野台地に残る、三菱・岩崎家関連の邸宅を紹介する予定だ・・・・。 ![]() ◆旧岩崎彌之助深川別邸池辺茶亭(現清澄庭園涼亭) ◎設計:保岡勝也 ◎施工:不詳 ◎竣工:明治42(1909)年 ◎構造:木造平屋 ◎所在地:東京都江東区清澄3-3-9(清澄庭園内) ❖東京都選定歴史的建造物 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▼PCでご覧の方は、下のMoreをクリックして頂くと、引き続きの写真をご覧になれます。 More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-07-08 00:08
| ◆明治モダン建築探訪
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![]() ・・・・・明治29年竣工、三菱財閥三代目オーナーが建てたエキゾチックな洋館 梅雨入り宣言がされ、傘を持って出掛けることが多くなった今日この頃だが、爽やかな晴天の日が多かった5月には、何軒かの邸宅撮影に出掛けた筆者である。そのうちの一軒が東京上野の旧岩崎邸庭園だった。このときの訪問は、庭園の敷地内にある国立近代建築資料館でおこなわれている資料展見学のついでに、岩崎邸の洋館を訪問したのだが、久々の岩崎邸はとても見応えのあるものだった。 最近から邸内の撮影が再び解禁になったそうで、今回は4年前に撮影した外観写真とともに、こちらの写真もあわせて紹介していきたい。 さて旧岩崎邸庭園の洋館、筆者が説明するまでもなく、三菱グループの3代目総帥・岩崎久彌(1865~1955)の邸宅として、明治29(1896)年に建てられたものである。岩崎久彌は三菱の創立者・岩崎彌太郎の長男として土佐で生まれ、のちに東京へ転居。慶應義塾、三菱商学校を経て、明治19(1886)年に米国へ留学する。 そして渡米から5年後の明治24(1891)年に、久彌は米ペンシルヴァニア大学のウォートン・スクールを卒業。米国から帰国したのちは、三菱の幹部として働き明治26年(1893)には28歳の若さで社長に就任した。また社長就任の翌年に久彌は結婚。それに際し建てられたのが、東京茅町(台東区池之端)の邸宅であった。 東京茅町の岩崎久彌邸、現在は三分の一の敷地面積になってしまったが、往時は約15000坪の広さを誇る広大な邸宅だった。なお冒頭でご覧いただいた洋館のほかに、500坪の広さの和館もあったというが、現在はほんの一部しか残されていない。 ちなみに戦前は湯島天神向かいに建つ高層マンションの土地までが、岩崎邸の敷地だったという。これらのことを考えると、いかに岩崎久彌邸が広大だったかを実感して頂けるだろう。なおこの頃の三菱財閥は、政府から丸の内の土地の払い下げを受け、 三菱1号館(明治27年築)をはじめ、一丁倫敦と呼ばれる煉瓦造の近代的オフィス群を建設し、名実ともに日本屈指の大企業として君臨し始めた時期だった。 そして岩崎久彌邸洋館の設計を手掛けたのは、イギリス人建築家のジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852~1920)である。コンドルは日本政府の招きにより、いわゆるお雇い外国人として明治10(1877)年に来日。工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の教授として、 辰野金吾 、 片山東熊 、 曾禰達蔵 、 佐立七次郎といった日本人建築家の育成に取り組むとともに、東京帝室博物館本館(明治15年)、鹿鳴館(明治16年築)、ニコライ堂(基本設計はロシア人技師、明治24年築)、海軍省本館(明治27年築)など国内主要の建築設計も手掛けていく。 また明治21(1888)年には自身の設計事務所を開設、官庁、外国行使、国内企業など幅広い建築活動をおこなってくことになった。その中で多く手掛けたのが、三菱のオフィスや経営者である岩崎家の邸宅設計だったのである。 当時20代後半の若さで新婚ほやほやだった三菱財閥の総帥・岩崎久彌が、やはり新婚ほやほやのイギリス人建築家・コンドルに建てさせたのは、ジャコビアンという17世紀初頭イギリスの建築様式を見倣ったとものと言われている。しかし正面玄関前に植えられたソテツやヒマラヤスギの木のせいもあってか、南側に大きく取られたベランダは南国風に感じられる。しかも室内には、イスラム風なデザインで纏められた客室もあったりする。 また木工や金唐革紙の仕事は、日本の工芸の粋を集めたような見事なもの。そしてステンドグラスや暖炉タイルなどに、新世紀芸術の誕生を予感させるデザインを発見できたり、本当にバラエティーに富んだ内容の邸宅である。 明治の洋館というと重厚さばかり目立つものが多いが、時代の良いところをチョイスした岩崎久彌の邸宅は、設計者であるコンドルと施主の久彌のセンスの良さを窺い知れる。あまりにも豪華すぎて現実味に欠ける気もするが、近代日本建築の父とも呼ばれるコンドルの力量を思い知らされる、素晴らしい建築作品であった・・・・。 ![]() ◎設計:ジョサイア・コンドル(Jasiah Conder) ◎施工:不詳 ◎竣工:明治29(1896)年 ◎構造:木造2階建て、地下1階 ◎所在地:東京都台東区池之端1-3-45 ❖国指定重要文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-06-10 16:10
| ◆明治モダン建築探訪
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![]() ・・・・・明治43年竣工、スカイブルーとイエローの塗装が眩しい元町の木造洋館 完全に春めいた3月中旬の函館。北海道新幹線の開通があと一週間と迫ったものの、オフシーズンの時期である函館の観光地に目立ったのは、卒業旅行と思わしき多くの若者たちの姿だった。 黄色い歓声が賑やかな女の子のグループ、はたまた硬派を決め込んだ?男の子のグループ、男女混合の仲良しグループ、そしてラブラブのカップルなど、見ているこちらが楽しい気分になってくる函館の滞在期間であった。その中でも若者たちで一番賑わっていたのが、元町の旧函館区公会堂である。 最近少し色が薄れてきたが、スカイブルーとイエローの派手なカラーリングが印象的な旧公会堂。この洋館は元町のハリストス正教会やカトリック教会 、 ベイエリアの金森倉庫と共に、函館の顔とも言うべき歴史的建造物であり、明治期の日本を代表する木造洋風建築の一つでもある。 公会堂の竣工までの経緯は、明治40(1907)年8月の大火でそれまで使用していた町会所が焼失し、市民有志の発案により建設が決定したのがこの公会堂だった。但し日露戦争後の不況も影響したのか、建設資金に充てるつもりだった寄付金が、殆ど集まらないという緊急事態が発生する。 そこに手を差し伸べたのが、函館経済界の重鎮・初代相馬哲平(1883~1921)である。相馬は5万円を寄付し、公会堂の建設を具体化させた。ちなみに公会堂の建設にかかった金額が5万8千円というから、その86パーセントが相馬の寄付によるものだったという訳だ。何とも凄い話である。 かくして函館区の公会堂は、明治42(1909)年5月に起工。冬季の建設中止期間を経て、明治43(1910)年9月には本館が竣工し、翌年には周辺の付属施設も完成する。そして明治44(1911)年9月には、当時の皇太子(のちの大正天皇)の行啓に際しての宿舎として使われることになった。 その後、函館市民向けの公共施設としての役割は、大正末期に銀座通り (豊川町)に竣工した市民館や、昭和45(1970)年に湯の川に竣工する函館市民会館に主役の座を譲るが、現在まで函館市民の文化拠点として使われ続けている。市民館が解体、市民会館が近年竣工した、函館アリーナの陰に隠れてしまったことを考えれば、元町の公会堂の偉大さがお分かり頂けるだろう。 なお公会堂の設計者については、当時函館区の土木課に務めていた、地元出身の技師・小西朝次郎(1879~1924)が手掛けたと言うのが一般的な通説だった。しかし2015年1月にNPO箱館写真の会が発表した記事によると、実際は公会堂の施工を担当した、 棟梁・村木甚三郎(1848~1924)の長男である村木喜太郎(1880~1911)が、設計を手掛けた可能性があるとの事だ。 村木一家(屋号は山平)は函館に拠点を置き、長年同地で活躍した木請負業者であることは以前にも紹介した通りである。特に父・甚三郎は先見性に優れていた人物だったようで、喜太郎と喜三郎(1882~1928)という二人の子供を、東京の工手学校(工学院大学)に通わせ、当時最新の建築技術を学ばせている。 NPO箱館写真の会発表の記事では、当初は市民有志により進められていた公会堂の建設計画だったが、途中から函館区がそのプロジェクトに加わる事になったという。そこで本来設計者だった村木喜太郎の名は消え、函館区技師だった小西朝次郎の名が、設計者として記載される事になったのだという。 また村木喜太郎が公会堂の設計を手掛けたという説は、ご遺族の聞き取りにより判明したものだという。現段階で筆者の手元には、有力な資料がないので、それ以上の事は語れない。しかし村木喜太郎、小西朝次郎という、当時20代後半だった若手の技師たちが、公会堂の建設に携わったというのは、とても興味深い史実である。 そして函館区公会堂の竣工から約十年後、この公会堂の2階大広間でおこなわれた講演会で、函館の木造建築を猛烈に批判した若手建築家がいた。その人の名は、建築家の関根要太郎(1889~1959)。関根は大正10(1921)年4月に函館で起きた大火の直後、函館政財界人の有志が催した[火防区民大会]という講演会の中で、「相当入念な建て方であっても、とても燃えやすく出来ているのだから可笑しい」と函館の木造建築にケチを付けたのであった。 度重なり函館で起きる大火の防火対策よりも、目先の建築の華やかさに重点を置いて建設された函館区公会堂。ルネッサンスに和風、アールヌーヴォーと様々なスタイルが混在した、函館のワンダーランドとも言える、色々な意味で見応えのある建築作品である・・・・。 ![]() ◎設計:小西朝次郎(函館区技師) ◎監督:渋谷源吉(函館区技師) ◎施工:村木甚三郎、村木喜太郎、村木喜三郎 ◎竣工:明治43(1910)年9月 ◎構造:木造2階建て ◎所在地:函館市元町11-13 ❖国指定重要文化財 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2016-04-16 04:16
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![]() ・・・・・・明治40年築、赤レンガ造りのロマンチックな刑務所建築 日を追うごとに日照時間は短くなりつつあっても、あまり晩秋と言う実感が沸かない今日この頃。しかし先週末に関東地方で降った雨はとても冷たく、冬が間近に迫っているなと感じさせるものだった。 そして冷たい雨がなかなか止まない日曜日の朝、天気の回復はないと半ば諦め気分で出掛けたのが、千葉県の県庁所在地である千葉市である。しかし武蔵野台地東端の自宅を出発し、千葉へ向かううちに徐々に重苦しい雲があけ始め、千葉市内に入る頃には爽やかな晴れ間が広がった。今回の千葉訪問はかなり前から計画していたので、天気の急速な回復にとても安堵した筆者であった。 そしてJRの千葉駅から路線バスに乗り向かったのが、市中心部から一キロほど離れた若葉区の貝塚。今回の千葉訪問の目的は、貝塚の高台にある千葉刑務所でおこなわれる、同刑務所の矯正展を見学するためである。 筆者が矯正展に参加するのは、10月の東京拘置所(旧小菅刑務所、昭和5年築)に次いで二回目。今回の千葉刑務所の矯正展は、子供を中心にした[よさこいソーラン]の演舞や、刑務所の刑務作業品の販売のほか、地元物産品の販売や模擬店の出店など、アットホームなとても楽しい催しものであった。 さて今回の矯正展で筆者が楽しみにしていたのが、施設内に残る歴史的建造物の見学である。千葉刑務所には、冒頭の写真でご覧いただいた赤レンガの事務所棟のほか、やはり赤レンガで作られたロマネスク調の可愛らしい正門が現存している。ともに明治40(1907)年に建てられたものだ。 ちなみに千葉刑務所の前身である千葉監獄は、明治の初め頃は市南部の中央区寒川町に施設を置いていたが、明治30年代半ばより新獄舎の建設が始まり、この赤レンガの獄舎が完成したのを機に、当地に移転してきたのである。なお現在は改築されているが、竣工時は放射状に分かれる獄舎が設置されていたという。 明治に入ってからの日本政府は、様々な事業の近代化に迫られていたが、その中で急務とされていたのが刑務所施設の改良だった。明治期の日本は、それまでの牢屋の伝統を引き継いだ獄舎建築がその大勢を占めていた。 そして当時監獄を管轄していた司法省は、欧米へ技師を派遣させ獄舎建築の改良を取り組ませることにした。時は新しい世紀を迎えることになった、明治30年代半ばの話である。 そこで派遣された司法省の技師というのが、建築家の山下啓次郎(1868~1931)。薩摩の下級武士の子として生まれた山下は、明治25(1892)年に東京帝国大学の造家学科を卒業後に警視庁へ入庁。ここで監獄建築事務員を命じられ、間もなく巣鴨監獄の施設の設計を担当する。 また明治30(1897)年に山下は司法省へ移籍。間もなく営繕課長のポストを得るとともに、明治34(1901)年には刑務所建築の視察のため、約一年に渡る欧米への視察旅行を敢行。この出張のあいだに、山下は約30箇所の獄舎の視察をおこない帰国した。そしてその成果をもとに、山下は千葉のほか金沢 、 長崎 、 鹿児島 、 奈良の五獄舎の造営に着手。それらの監獄を明治40(1907)年から、その翌年にあたる明治41(1908)年に竣工させている。 現在そのとき山下が手掛けた獄舎建築は。奈良は多くの施設が現存するが、千葉は本館と正門、鹿児島、金沢、長崎は正門のみしか現存していない。しかし明治期に建てられた獄舎の一部を今回見学して、山下が欧米の刑務所視察から得たのは、力による刑罰での受刑者への抑圧ではなく、優しさによる受刑者たちの更正への願いだったに違いない。 まるで中世ヨーロッパの修道院のような刑務所建築。その造形の美しさから、建築家の心の美しさを感じてしまった千葉の刑務所建築であった。山下のもう一つの現存作品、奈良刑務所も見学してみたいと思ってしまった今回の訪問であった・・・・・。 ![]() ◎設計:山下啓次郎、太田毅(司法省営繕課) ◎施工:直営 ◎竣工:明治40(1907)年4月 ◎構造:煉瓦造2階建て ◎所在地:千葉県千葉市若葉区貝塚町192 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2015-11-21 11:21
| ◆明治モダン建築探訪
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![]() ・・・・・門司港レトロに複製された、中国・大連にあったドイツ風の美しい洋館 開放的でとても明るい雰囲気が漂う、 門司港レトロの歴史的景観地区。関門海峡の眺めが美しい門司港ホテルを出発し、かつて門司港が貿易港だったことを物語る、第一船溜まりに架かる跳ね橋を渡ると、建っているのが煉瓦の外壁が印象的な二軒の洋館だ。 そのうちの一軒は、明治45(1912)年に建てられた旧門司税関(設計:妻木頼黄、咲壽栄一) 。そしてもう一軒の煉瓦建築が、本日紹介する北九州市国際友好図書館である。 一見すると古い洋館にも見える、北九州市門司港の国際友好図書館、しかしその竣工は、僅か二十年ほど前の平成6(1994)年。実はこの図書館、北九州市と中国・遼寧省の大連市との友好都市締結15周年を記念し、大連市にあった旧東清鉄道汽船会社事務所を、複製建築したものである。 また一見すると煉瓦造りに見える建物、実は外壁に煉瓦が貼られているだけで、その中身は鉄筋コンクリート製。他の煉瓦建築に比べて、シャープな印象を受けるのもそのせいなのだろうか。また現在は1階に中華レストラン、2階には中国や東アジア関連の書籍を置く図書館、3階には児童図書館と旧満州関連の資料室が置かれている。 北九州市国際友好図書館のオリジナルになった、東清鉄道汽船会社事務所は明治35(1902)年の竣工。これは帝政ロシアが建設したものである。 ここからは少し歴史の話を始めてしまうが、19世紀後半の帝政ロシアが躍起になって欲しがっていたのが、軍事・貿易に有利な冬でも凍らない港となる極東の土地。手始めにロシアは国力が弱体しつつあった清国から、1860年の北京条約で外満洲の土地を取得し、 ウラジオストク港の開発を始めた。 そして更なる南下政策を目論んだロシアが、次に狙ったのが中国東北部の遼東半島だった。日清戦争後の明治28(1895)年に、日本による遼東半島の領有を阻止させた(いわゆる三国干渉)見返りに、ロシアは鉄道の敷設権を得る。更に明治31(1898)年には、 旅順に次ぎ大連(ダーリニー)の租借権を得て、自国が設立した東清鉄道に町の開発をおこなわせた。その期間に建てられたのが、東清鉄道汽船会社の事務所だったのである。 但しこの二つの町の開発は、明治37(1904)年の日露戦争開戦間もなくの、日本軍占領により終焉を迎える。その後、町のイニシアチブは日本へと渡り、ロシアの野望であった大連開発はスタートからわずか数年で、あっけなく潰えてしまった。またこの東清鉄道汽船の事務所は、日本統治時代は倶楽部や図書館などに使われていたそうである。 そのような様々な国の思惑に翻弄されてきたこの建物だが、興味深いのは帝政ロシアが建てた建造物なのに、完全なるドイツ風のデザインということ。これは大連(ダーリニー)建設の総責任者である東清鉄道の技師長・サハロフが、ウラジオストクにいたドイツ人技師のユンヘンデルとブカリノスキを招聘し、建造物の設計をおこなわせたからだという。 また外観は、赤煉瓦に花崗岩の横帯を巻いた外壁に、露出した木骨が細いドイツ風ハーフティンバー、複雑な形をした平面計画、それに順応して付けられたベランダなど見所は多い。竣工時が近いだけに、京都同志社大学の クラーク記念館(設計:ゼール、明治26年築)や、神戸風見鶏の館として知られる旧トーマス邸(設計:デ・ラランデ、明治38年築) 、函館の旧ロシア領事館(設計:ゼール&デ・ラランデ、明治41年築)など、同胞であるドイツ人建築家の設計作品と共通項が多く見られるのも、この作品の見所の一つであろう。 アールヌーヴォーやセセッション、ユーゲントシュティールなどの、世紀末モダン文化の誕生をも予感させる、いかにも19世紀末のドイツ建築と言った佇まいの、東清鉄道汽船事務所。この建物に纏わる流転の歴史はともかく、作品の美しさが認められて、北九州の門司の地に複製された事実は間違いない。その美しさはもちろん、門司港が中国大陸と船で密に繋がっていた時代にも、思いを馳せる事が出来る素敵な作品であった。 ちなみに門司港の複製品が竣工して間もなく、大連のオリジナル建築・旧東清鉄道汽船事務所は解体され、 門司港の複製品を模したレプリカが1996年に建てられた。つまり門司港の方が、今度は大連のオリジナルになった訳である。言葉に詰まる凄い話だが、これが現代中国の近代文化遺産に対する価値観なのだろう・・・・・。 ![]() ◎設計:ドイツ人建築家(オリジナル) :日本設計(複製品) ◎施工:不詳(オリジナル) :安藤建設(複製品) ◎竣工:明治35(1902)年(オリジナル) :平成6(1994)年12月(複製品) ◎構造:煉瓦造3階建て(オリジナル) :鉄筋コンクリート造3階建て(複製品) ◎所在地:福岡県北九州市門司区東港町1-12 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2015-07-04 09:04
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![]() ・・・・・明治44年竣工、開放的な吹き抜けを持つ美しい赤煉瓦の洋館 明治40(1907)年8月25日午後10時に函館で起きた火災は、市内商業地域・住宅街を中心に8977戸を焼失、市内の大半を焼く大火になってしまった。この頃、函館で暮らしていた石川啄木が、火災の惨状を目の当たりにし、当分の町の復興は無理と判断してこの町を離れていったが、復興はかなり早い時期からおこなわれていく。それは地元の民間建築も、東京資本の企業や官庁の建築もそうだった。 その中で明治40年大火後の復興建築で、現存する官の代表的建築と言えば豊川町の旧函館郵便局だろう。明治44年に竣工したこの作品は、現在は観光ショップ[はこだて明治館]として再生利用されている。今年で築104年を迎える赤煉瓦が美しい洋館だ。 豊川町の函館郵便局は同局の移転に伴い、昭和37年に民間に払い下げられる。そして昭和58年からは、地元の工芸家組合[クラフトユニオン]が再生使用を開始。明治館という名称で親しまれるこの建物は、函館の歴史的建造物再生のパイオニア的存在の物件となったという事は、以前にも紹介した通りである。 赤煉瓦の美しい豊川町の旧函館郵便局、明治40年の大火でこれまで使っていた郵便局が焼失したため、この地に新たに建設されたもの。以前の郵便局は明治10年代の竣工、外壁に白漆喰が塗られた洋風2階建ての局舎だった。 ちなみに函館郵便局の歴史は、明治5年に開拓使郵便局が開設されたのがその始まり。明治8年に一等郵便局へと昇格。省庁の組織改編により逓信省が発足して間もない明治20年には、函館郵便電信局と改称されている。 この旧函館郵便局だが一等郵便局という事もあり、設計は逓信省の営繕課によりおこなわれている。逓信省の建築と言うと東京中央郵便局(昭和6年築、設計:吉田鉄郎)や、 千住郵便局電話事務室(昭和4年築、設計:山田守)など、大正中期から昭和初期のモダニズムスタイルの作品が知られるが、明治期から帝大卒などのエリート建築家を擁し、建築界の第一線を牽引してきた営繕組織である。 なおこの頃の逓信省は、工部大学校造家学科(のちの帝大工学部建築学科)卒業でイギリス留学の経験も持つ、工学士・吉井茂則(1857~1930)が営繕課のトップを務めていた。 さて函館の旧郵便局だが、下関と京都に現存する南部町郵便局(明治33年築) 、中京郵便局(明治35年築) [・・・・ともに設計は建築家・関根要太郎の師にあたる三橋四郎が担当] の流れを汲んだルネサンス・スタイルの外観。ちなみに郵便局時代は、玄関から入って右側の二階建ての部分に電信課、左側の二階建ての部分に電話局、そして吹き抜けになっている部分に郵便課が置かれていたという。 また建設用地が海辺の軟弱な地盤だったこともあり、敷地地下の固い部分から更に2メートル掘り下げ、そこに1200本の木杭を打ち、更に古煉瓦やコンクリートを埋め基礎を固めたという。また建物外壁は日本煉瓦製造(埼玉深谷)製のもの、内部は地元函館産の煉瓦が使われている。 そして旧函館郵便局の最大の見所が、建物中央の広い吹き抜けを持つ箇所。実はこれ竣工当時は荷捌き場の目的で設けられたそうで、そのために柱を持たない開放的なスペースが作られたそうである。力強さを感じさせる天井の木製トラスは、当時最新の建築技術が用いられたと想像される。 旧函館郵便局の設計を、逓信省のどのような技師が手掛けたかについては明らかになっていないが、逓信省営繕課の建築知識の深さとセンスの良さを思い知らされる作品である。なお参考として今回は、逓信省営繕課のトップだった吉井茂則の名を、設計者の覧に記させて頂いた。 さてこれまで3回に渡り、明治40年大火後に建設された煉瓦造りの復興建築を取りあげてきたが、次回は函館の実業家の発案により、その当時最先端だった建材で誕生した、前代未聞の巨大建築を紹介する事にしたい・・・・。 ![]() ◎設計:逓信省(吉井茂則) ◎施工:猪之橋組 ◎竣工:明治44(1911)年 ◎構造:木骨煉瓦造2階建て ◎所在地:函館市豊川町11-17 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2015-02-07 02:07
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![]() ・・・・・甦れ!、明治41年竣工のドイツ風の美しい洋館 函館に滞在して訪れない観光名所は多々あるが、必ずと言っていいほど足を運ぶのが、船見町の坂上に建つ旧ロシア領事館である。 函館港を一望できる素晴らしい立地に、赤煉瓦が美しいこの領事館は建っているのだが、急坂を登るのも苦にはならない魅力ある歴史的建造物だ。建物の事については、後ほど詳しく解説させていただくが、幕末以降続いた函館とロシアの文化的交流という点と、20世紀初頭全盛を極めていた函館の北洋漁業の歴史という点から捉えても、とても貴重な文化遺産なのである。 旧ロシア領事館は明治41(1908)12月の竣工。また明治39(1907)年12月に一度は落成した露領事館であったが、翌明治40年8月の大火で焼失・倒壊し、それ以前の建物の設計図を忠実に再現して建てられたのが、現在の建物であった。 また長年のあいだ設計者については不詳とされていたが、今からの十数年前に函館の研究者・清水恵さん(2004年逝去)の調査により、その作者がドイツ人建築家:リヒャルト・ゼール(Richard Seel、1854~1922)という事が判明。また明治36年にドイツに帰国したゼールに代わり、ゼール帰国直前に来日したドイツ人建築家:ゲオログ・デラランデ(Georg de Lalande、1872~1914)が、業務を引き継ぎ竣工に至った事も、清水さんの調査で明らかになっている。 リヒャルト・ゼールは、明治21年に東京日比谷の司法省庁舎(法務省旧本館、明治28年築) 、裁判所庁舎建設のために来日。それらの任務から離れた後もそのまま日本に留まり、横浜を拠点にミッション系の建築設計に多く携わっている。特に京都同志社大学のクラーク記念館(明治26年築)が、日本における代表作と言えるだろう。 そしてゲオログ・デラランデは、 神戸・風見鶏の館(旧トーマス邸、明治38年築)の設計者として名高い建築家。明治末から大正初期にかけて、ドイツ版アールヌーヴォーとも言えるユーゲントシュティールを、日本に紹介した事で知られる人物だ。 ちなみにゼールの仕事を引き継いだデラランデにとっても、函館のロシア領事館建設は誇る仕事だったようである。近年デラランデについて丹念な調査をされている広瀬毅彦さん のご教示によると、明治43年2月に発行された[実業之横浜]という雑誌のデラランデに対するインタビュー記事内で、ラランデ本人が近年の業績として[露国大使館]をあげているとのこと。当時東京のロシア大使館は、目立った改築・増築をしていなかったそうで、函館の領事館を指しているのではないかという事である。 また1997年に清水恵さんが発表された論文、[日露戦争及び明治40年大火とロシア領事館]の中には、火災で焼失した先代の領事館の設計図が掲載されている。広瀬さんによると、この図面(1903年作成)に記された設計者のサインの仕方が、デラランデのものと酷似しているそうだ。 ちなみにこの設計図、明治40年大火後に再建されたものと若干作りが違う。そこで筆者で注目したのが、2階玄関上の窓の形が長方形ではなく、アーチ型になっているという点。妻破風の作りなどはゼールの得意としたハンマービームが用いられているが、全体的にはデラランデの代表作である神戸・風見鶏の館(旧トーマス邸)と、どことなく似た作りなっている事も見逃せない。 なお以前、玄関上の唐破風ポーチは、大火後に再建を手掛けた棟梁のオリジナルという仮説を立てたが、既に設計図にそのデザインは記されていた。筆者の仮説が広く伝播し広まってしまった事については、この場を使って深くお詫びを申し上げたい。 しかし2年振りに訪れた旧ロシア領事館の傷み具合は、目を覆いたくなるまでに進行していた。現在市民団体から函館市に対し、旧ロシア領事館に関するリノベーション案が提出されているが、それもなかなか進行しなそうな感じである。これだけの価値がある歴史的建造物、朽ちさせ続けるのは余りにも勿体なすぎる・・・・。 ![]() ◎設計:リヒャルト・ゼール(Richard Seel)、ゲオログ・デラランデ(Georg de Lalande) ◎施工:佐藤誠 ◎竣工:明治41(1908)年12月 ◎構造:木骨煉瓦造2階建て ◎所在地:函館市船見町17-3 ❖函館市景観形成指定建造物 ![]() ![]() ![]() こちらは1903年作成という刻印が入った設計図。 なお広瀬毅彦氏の著作[既視感の街へ]によると、ゼールの名が入ったサインはデラランデの書体に近いとのこと。となるとラランデが竣工までの数年間のあいだに、設計図へ手を加えたという事になる訳だ。神戸・風見鶏の館(旧トーマス邸、明治38年築)に似た、2階玄関上のアーチ窓にも注目したい。 なお玄関ポーチの唐破風のデザインは、設計当初からのものである。 ★図版・・・・「地域史研究はこだて」第25号、1997年より ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2014-09-20 20:20
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![]() ・・・・・明治42年竣工、東京市の旧区役所庁舎を移築したレトロな大学校舎 彼岸も過ぎ、やっと春らしい強い日差しが戻ってきた今日この頃。色々な所用の間を利用して訪ねたのが、JR中央線の武蔵境駅だった。 中央線も長年続いていた高架化工事がほぼ終了。筆者が子供の頃から親しんできた沿線風景も大きく様変わりし、何だか初めて乗った路線を利用した錯覚にも襲われてしまったこの日の訪問だった。 今回武蔵境で下車したのは、駅から歩いてすぐの場所にある日本獣医生命科学大学の校舎を撮影するためだった。当ブログでは五年前に一度この作品を取り上げているが、もう一度簡単におさらいすると、明治42年に現在の東京都港区六本木三丁目に建てられた麻布区役所の庁舎を、昭和12年に日本獣医生命科学大学の前身にあたる学校が、校舎として使うために譲り受け、武蔵境の地に移築したもの。また昭和の移築に際しては、かのウイリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrel Vories、1880~1964)が、指導をおこなったというのも、近代建築ファンの間では有名な話である。 この日本獣医生命科学の校舎、移築の際や時代の経過に伴い、竣工時の姿を留めている箇所は少ない。しかし明治期に都心に建てられた庁舎建築という事を考えると、非常に貴重な建築作品だという事は、五年前に紹介させていただいた通りである。 それから五年、このブログで紹介記事と、筆者がその時に紹介した麻布区役所時代の写真は、色々な方が設計者に関する独自の推測を加えた形で再び取り上げられ、不思議な方向へと一人歩きをしていたのが現状だった。自分の記事を切っ掛けに、多くの人がこの建物に関する新しい視点を持っていただいた事に関しては嬉しいのだが、真の史実が捻じ曲げられてしまった事に関しては、歯痒さをも感じていたのが本音である。 このような事も致し方ないのかなと、半ば諦めかけていた先日、筆者と同様に近代建築を念入りに調査されているCさんより、明治42年に発行された日本建築学会の機関誌[建築雑誌]に、麻布区役所建設に関する記事が、掲載されているという情報が寄せられたのである。 以前だったら都心の図書館に行って、その書籍を請求して丹念に一頁、一頁とその資料を調べるのが常だった。しかしデジタルアーカイブ化が進行した最近では、自宅でもこのような資料を、すぐに閲覧出来るようになったのは便利の一言に尽きる。筆者もその後、Cさんがご教示していただいた建築雑誌のデジタルアーカイブを閲覧してみたところ、麻布区役所に関する着工記事を発見した訳である。 着工記事と言っても写真や図面もない僅か数行の記述のみだが、そこには当時東京市の営繕課に勤務していた小林鶴吉という人物が、麻布区役所の設計を担当したと記されていた。小林鶴吉と言っても殆どの方はご存じではないと思うが、 建築家・関根要太郎(1889~1959)を研究する筆者にとっては、注目に値する人物なのである。 実はこの小林、上京して間もなくの関根要太郎に、高崎に建設される事になった公立小学校の校舎(高崎南尋常小学校)の現場監督の職を紹介したという人。ちなみに高崎の小学校建設の仕事が終了した後、関根は小林の以前の上司(東京市前営繕課長)だった建築家・三橋四郎(1867~1915)の建築事務所に就職するのだが、小林との出会いが無ければ、そのようなチャンスも無かった事は想像に難しくない。また後に関根は、高崎での仕事を機に、建築家としてのキャリアの第一歩を踏み出せるようになったと回想している。 また関根が東京から高崎に渡ったのは、明治42年ころの出来事。ちょうどこの頃、麻布区役所は建設中だった訳で、二十歳そこそこの関根青年も、この庁舎建設現場に自分を売り込むため、小林のもとを訪れていた可能性もあり得そうな話である。そのような時期の設計作品だったという事も、関根要太郎を研究する筆者としては更に興味深い事実である。 長年設計者不詳とされていた武蔵境の洋館は、関根要太郎の恩人が設計を手掛けた作品だった事を知り、興奮を抑えられなかったこの日の訪問であった・・・・。 ![]() ◎設計:小林鶴吉(東京市技師) ◎監督:小原益知(東京市営繕課長) ◎施工:不詳 ◎竣工:明治42(1909)年6月 ◎移築:昭和12(1937)年 ◎構造:木造2階建て ◎所在地:東京都武蔵野市境南町1-7-1 ◎旧所在地:東京都港区六本木3丁目(東京市麻布区市兵衛町2丁目) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() More ▲
by sy-f_ha-ys
| 2014-03-29 20:29
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![]() ・・・・明治44年建立、原爆ドームの設計者レツルが手掛けた宗教施設 先月は週末に、二週連続の記録的な大雪に見舞われた首都圏地方。交通機関は機能しない、食料品の流通が滞るなど、毎度のように雪に弱い首都圏の現実が露呈してしまったが、それもどうにか一段落。やっと普段通りの日常が戻ってきた。 そういう事で先週末筆者は久々に、地下鉄直通の普通電車に乗り、都心の建築探訪へ出掛けた次第である。今回訪ねたのは、文京区関口にある東京カテドラル聖マリア大聖堂である。 関口のカテドラル聖マリア大聖堂と言えば、昭和建築界の巨匠として知られる丹下健三(1913~2005)が設計を手掛けた、十字架の形を模したという銀色に光り輝く大聖堂(昭和39年竣工)があまりにも有名である。しかし冒頭の写真をご覧になられて、その写真ではないことに疑問を思われた方も多くいらっしゃるかも知れない。実を言うと今回紹介させて頂きたいのは、その教会内にある[ルルドの洞窟]だ。 ルルドの洞窟についてご存じではない方もいらっしゃると思うので、簡単に説明させて頂くと、1858年フランスの南西部の町・ルルドと言う小さな山村の洞窟において、聖母マリアが一人の少女の前に現れた事を記念し、世界各国のカトリック教会や施設にこれを模したものが多く作られる事になったのである。ちなみに筆者もカトリック系の幼稚園に通っていたのだが、そこにも子供数人が入れるくらいの、小さな可愛らしい洞窟があった。 さて今回突然ルルドの洞窟を取り上げたかと言うと、カテドラル大聖堂敷地内にあるルルドの洞窟の設計者が、 チェコ出身の建築家:ヤン・レツル(Jan Letzel、1880~1925)だという事を知ったからである。レツルと言えば、現在原爆ドームとして知られる旧広島県物産陳列館(大正4年築)をはじめ、明治末から大正期に日本国内において、ユーゲントシュティールというモダンな建築スタイルや、和風を取り入れた独自の作風で活躍した建築家として知られる。 なおこのレツル作品の存在を知る切っ掛けになったのは、二月初旬に江戸東京博物館でおこなわれたセミナー「建築家デ・ラランデとその周辺について」で、講演者の一人・菊楽忍さん(広島平和記念資料館)が紹介されていたことによる。またその後、週末にかるたび大雪に見舞われ、ようやく先週レツル作の洞窟を見学しに行った次第である。 菊楽忍さんによると、レツルがルルドの洞窟の設計を手掛ける事に切っ掛けは、レツルがこの教会に当時建っていた聖堂の、改修を手掛ける事になったからだという。同教会の案内によると明治44年5月の建立とのこと。レツルが改修を手掛けた聖堂の方は昭和20年の空襲で焼失してしまったそうだが、ルルドの洞窟は建立から一世紀以上経った現在もこうして残っている。 なおレツルは国内において、東京の聖心女学院、上智大学、雙葉高等女学校などカトリック系の校舎設計も数多く手掛けているのも興味深い。レツルが熱心なカトリック信者だったとも想像できるのではないだろうか。 そしてレツルが設計を手掛けたというルルドの洞窟は、国内にある同様の施設の中でもかなり大規模なもの。またレツルならではのモダンな箇所を探してみたのだが、そのような部分を発見することは出来なかった。敬虔な心でこの施設を作り上げたのだろう。 モダンな作風や日本文化への造詣とは違う、もう一つのレツルの顔が見えてきたような、今回のルルドの洞窟の訪問であった。近未来的な大聖堂を背にして、美しいルルドの洞窟へ見入ってしまったこの日の筆者である・・・・・。 ![]() ◎設計:ヤン・レツル(Jan Letzel) ◎施工:不詳 ◎施工:明治44(1911)年5月 ◎構造:石造り・一部コンクリート造 ◎所在地:東京都文京区関口3-16-15 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 丹下健三の代表作として知られるこの大聖堂。 この日も多くの訪問者が、この聖堂を撮影されていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ★参考講演会 「建築家ヤン・レツルについて-書簡集から建築活動をたどる」菊楽忍氏講演、2014年2月7日・江戸東京たてもの園セミナー ★撮影・・・・2014年2月 ▲
by sy-f_ha-ys
| 2014-03-01 18:01
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