東京新宿区の林芙美子記念館(昭和モダン邸宅再訪2023)

◆旧林芙美子邸

　・・・・昭和16年築、モダニズム建築の名手・山口文象設計による和風邸宅

　梅雨明けが発表された先週末、東京新宿区の林芙美子記念館を訪ねた。今月初旬からNHK-Eテレ(教育テレビ)の〔100分de名著〕なる番組で、作家：林芙美子(1903～1951)の代表作である〔放浪記〕が取り上げてられており、久しぶりに新宿区の西端にあたる中井にある、林芙美子の記念館(旧宅)を訪ねた訳である。今回も過去の写真データを調べてみると、実に13年振りの訪問であった。

　山手線の高田馬場駅より西武新宿線の各駅停車に乗り換え、車内から目白の高台に建つ住宅地を望みながら2駅目の中井駅で下車する。

　西武線の車内から見える目白の高台は、かつて目白文化村と呼ばれた地域で、西武グループの創始者である堤康次郎(1889～1964)が、大正11(1922)年に分譲を開始。それ以降、数回に渡り分譲がおこなわれた住宅地である。令和の現在、数は少なくなってしまったが、往時を物語る歴史的建造物や区画がぽつりぽつりと町に残されている。

　新宿区中井の高台は、旧目白文化村の東端にあたる下落合2丁目付近と比較すると高低差はあまりないが、一の坂から八の坂と呼ばれる数え坂がこの地区に均等に配置され、その一部は西武新宿線の車内からも見る事が出来る。筆者が西武線で電車通学を始めた昭和後期に比べると、町並みはかなり変わったが、風情ある坂道は昔のままである。西武線の車内からは見えないが、中井の数え坂の中で一番の美しさを誇るのが、旧林芙美子邸が建つ四の坂だろう。

　林芙美子は大正11(1922)年に上京。自伝的小説である放浪記がベストセラーになって間もない昭和7(1932)年頃に、現在の新宿区下落合に転居している。そして戦時色が強くなった昭和14(1939)年に、自邸を建てる事を決意。これまで暮らしていた場所から程近い、中井の南斜面の土地を購入する。

　また自邸建設に際して芙美子は200冊を超える参考書を購入し、設計事務所の担当者や大工棟梁と同行し京都へ出かけ、自身の住宅の好みを彼らに伝えたそうである。そして昭和16(1941)年に、数寄屋風の美しい和風住宅が完成したのであった。

　中井・四の坂の中程に建てられた旧林芙美子邸。その設計を手掛けたのは、大正末から昭和にかけてモダンな作品を数多く設計した、建築家の山口文象(やまぐちぶんぞう、1903～1978)である。元祖建築探偵として名高い建築史家で建築家の藤森照信さんの著書によると、山口建築事務所のスタッフであった角取庸司(かとりょうじ)が、実質的な業務をおこなったと紹介されている。

　山口文象は東京浅草に大工棟梁の子として生まれ、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)附属職工徒弟学校を卒業後、父の縁故で清水組の定雇の人夫として勤務。しかし自らが目指す仕事とは違う事に嫌気がさし、父には無断で清水組を退職。その後は建築家：中條精一郎の(1868～1936)紹介で逓信省に入省した。

　また逓信省在籍時には、中卒の同僚若手製図工たちと〔創宇社建築会〕を結成。東京帝国大学建築学科在籍のエリートたちにより、この数年前に結成された〔分離派建築会〕とは違った独自の路線の活動を展開していく。

　その後は、分離派建築会のリーダー的存在であった建築家：石本喜久治(1894～1963)のアシスタントとして、東京数寄屋橋の朝日新聞社(昭和2年築)、東京日本橋の白木屋百貨店(昭和3年築)の設計に参加。

　この他に関東大震災後には分離派建築会のメンバーであった山田守(1894～1966)の紹介により、内務省帝都復興局の橋梁委託技師となり、東京・横浜の橋梁デザインを数多く設計したという。隅田橋に架かる橋でいうと、清洲橋(昭和3年架橋)、駒形橋(昭和2年架橋)は、山口のスケッチが原案となり制作されたものだという。

　

　なお当ブログの主人公である建築家：関根要太郎(1889～1959)と親交があったかは謎だが、関根の実弟である山中眞三郎(1897～1977)は大正後期に逓信省に在籍していた当時、製図工として山口文象と同僚で共に大阪出張を経験。なお大正末から昭和初期には関根が主宰する〔関根建築事務所〕に、山口が結成した創宇社建築会のメンバー：小川光三、野口巌が加入している。決して高学歴ではない関根と山口、年齢や目指す建築家としての路線は多少異なっていたが、相通じるものを感じていたのかも知れない。

　林芙美子邸が建設される約10年前にはドイツへ渡り、ワルター・グロピウスの下でバウハウスのモダニズム建築を学んだ山口文象。そのような建築家が和風建築を設計したとは意外に思われるかも知れない。

　実は山口文象、逓信省在籍時に大阪出張となっていた20歳の頃、休みの度に京都へ出掛け茶室を撮影していたという逸話も残る。和風建築とモダニズム建築の根底に、相通じる構成の美しさを発見していたのかも知れない。

　戦時色が強くなった昭和10年代半ばに建てられたこともあり、建坪の制限などはあるものの、暗い時代に建てられたとは思えない、切れ味鋭い和風モダン建築である。

　青春期は放浪の苦節の日々を過ごした林芙美子、労働者階級の意識が高い反骨の建築家：山口文象に邸宅設計を依頼したというのも、とても頷ける話ではないだろうか。芙美子がこの邸宅で暮らしたのは10年ほどだったが、やっと手にした安住の地だったのではないかと想像してしまったのである。

◆旧林芙美子邸(現新宿区立林芙美子記念館)

　◎設計監督：山口文象

　◎現場管理：角取庸司

　◎施工：渡辺某(大工棟梁)

　◎竣工：昭和16(1941)年8月

　◎構造：木造平屋

　◎所在地：東京都新宿区中井2-20-1

中井の四の坂。旧林芙美子邸の鬱蒼と茂った木々もあってか、この坂がいちばん美しい。

玄関。現在の林芙美子記念館の入り口は敷地北側にある。
邸宅は画家で夫の手塚緑敏のアトリエを除いて純和風。

戦時色強くなった昭和10年代、住宅の建坪は1棟につき30坪以下と制限されていた。

林芙美子は夫の手塚緑敏(てづかりょくびん、1902～1989)と入籍していなかった事を逆手に取り、芙美子・緑敏名義の2棟の屋敷を建設。2棟の家を中央でドッキングする形で、この屋敷を完成させた。

林芙美子の書斎。

入場券などを取り扱う管理棟にはかつて茶室が建てられていたという。

芙美子の母のための居室。芙美子は母と夫、養子の泰の4人でこの邸宅で暮らし始めた。

こちらは芙美子の夫・緑敏のアトリエ。現在は展示室として使われている。

画家のアトリエらしく天井には天窓も設けられている。

そしてこちらがアトリエ棟。林芙美子邸の中で唯一の洋風なデザインが施されていた。

台所の冷蔵庫は東京芝浦製作所(現在の東芝)製のもの。

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★参考文献・参考資料

「建築の出自　長谷川堯建築家論考集」長谷川堯氏著、鹿島出出版会、平成20年

「光跡　モダニズムを開花させた建築家たち」池原義郎氏著、新建築社、平成7年

「日本の洋館　第六巻　昭和篇Ⅱ」藤森照信氏著、講談社、平成15年

「日本の初期モダニズム建築家」吉田鋼市氏著、王国社、平成30年

「山口文象研究会ホームページ」

「まちもり通信YB版ホームページ」

★撮影・・・・2023年7月