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◆このブログの写真は当サイト製作者の撮影によるものですが、それだけでは全てを紹介しきれないため、大正から昭和初期に発行された当時の書籍・建築関連の雑誌・新聞等の記事・図版を一部転載しております。またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。 なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 ◆当ブログ製作者は、建築業や建築学に携わっていない、素人研究家です。建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。そのつど御指摘していただければ幸いです。 ◆本ブログ掲載の写真および図版、記事内容の無断転用はご遠慮ください。但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません(大した写真では御座いませんが・・・・)。もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。なおその際は、当ブログの出展である事を明記お願いいたします。 ◆また本ブログの記事内容と関連のないコメント、トラックバックは削除させていただく場合もございますので、予めご了承ください。 **************** ★excite以外のリンク --------------------- ❖分離派建築博物館 ❖収蔵庫・壱號館 ❖新・我愛西安、観光と生活情報 ❖建築ノスタルジア ❖トロンボーン吹きてっちゃんの独り言 ~函館応援プログ~ ❖虚数の森 Forest of im aginary number ❖MEGU 「めぐ」を究めよう ❖中央区立明石小学校の保存活動 タグ
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・・・・昭和11年竣工、グリーンベルトの交差点に建てられたモダン校舎 昭和9(1934)年3月21日の午後6時53分に立待岬に近い住吉町を火元に発生した函館大火は、翌日の午前6時に鎮火かるまで市内の3分の2を焼く大惨事となった。そして大火鎮火後間もなくより内務省(政府)の主導により、大火復興事業が計画される。 道路区画の再編や拡張、火災発生時の防火帯となる緑地帯(グリーンベルト)の設置、防火水利の更なる充実などが主な事業内容であったが、その中の一つに大火焼失区域に、火災発生時の緊急避難場所となる鉄筋コンクリート造による市立の小学校舎の建設が計画された。 以前にも紹介したように大火発生翌年の昭和10(1935)年には、青柳町の住吉尋常小学校(~青柳小学校、昭和10年12月竣工)を皮切りに、高盛町の大森高等尋常小学校(~高盛小学校、昭和10年12月竣工)の2校が落成。その翌年の昭和11(1936)年には東川町の大森浜沿いに大森尋常小学校(昭和11年6月竣工)、的場町に的場尋常高等小学校(~的場中学校、昭和11年11月竣工)の2校が落成。更にその翌年には大森町の海岸沿いに大森尋常小学校(昭和12年6月竣工)が落成し、大火発生地域に計5校の〔大火復興小学校〕が、町の施設として活用される事になった。 更に昭和13(1938)年には昭和9年大火の焼失を免れた、市西部地区の弥生町に弥生尋常小学校(昭和13年12月竣工)が竣工し、昭和9年大火の復興事業はひとまず終焉を迎えた。函館大火の区画整理と小学校舎の建設計画は、大正12(1923)年9月の関東大震災後に東京でおこなわれた復興事業を参考としたもので、特に小学校建築のプランは東京で数多く建てられた〔復興小学校〕の影響を色濃く受けたものだった。本日紹介する市立的場中学校(竣工当初は的場尋常高等小学校)も、その中の一つである。 的場尋常高等小学校は校舎落成に合わせ、昭和11(1936)年に開校。昭和22(1947)年の新制中学校発足に伴い、的場中学校と改称する。その後長年に渡り、地域を代表する中学校として親しまれてきたが、平成27(2015)年に周辺地域の児童数減少に伴い、近隣の凌雲中学校、光成中学校との合併が市議会で議題に上がる。そして翌年〔市立巴中学校〕の新たな校名が決定する。 平成30(2018)年には的場中学校の隣地に、新生・巴中学校の校舎が落成し、的場・凌雲・光成の3中学校はその歴史に幕を閉じた。間もなく昭和11年に竣工した的場中学校の校舎も解体され、82年に渡る学び舎としての役目を終えている。 平成30(2018)年に解体された的場中学校(的場尋常高等小学校)。その設計は同時期に建設された他の函館大火復興小学校と同様、建築家・小南武一(1897~1976)率いる函館市建築課が設計を担当している。小南はこれまでも紹介したように、大正12(1923)年に東京の工手学校(現在の工学院大学)卒業後に曾禰中條建築事務所 に就職。同事務所在籍中の大正14(1925)年に、函館市からの要請で函館市に奉職した。以来、函館市で数々の公共建築の設計を手掛けていた人物である。 のちに的場中学校となる的場尋常高等小学校の校舎も、先に竣工した住吉(青柳)、大森(高盛)の各小学校と同様に鉄筋コンクリート造3階建てという構造。更に東京の震災復興小学校と同様に校舎をコの字型に構成し、火災発生時に中庭が緊急避難先となるような配慮がされている。 そしてこの学校建築の最大の特徴と言えば、グリーンベルトと呼ばれる防火林が交差する部分に校舎が配置されている事だろう。火災発生時はグリーンベルトを伝ってここへ避難し、学校の敷地で火災鎮火時まで待機して貰うというプランを描いていたと想像される。 的場尋常高等小学校として建てられたこの校舎、以前の大火を教訓にしてか、西側と北側の窓が小さめに取られているのも特色である。大きく窓を取ったモダニズム建築が全盛期を迎えていたこの時代、それと相対する窓を設置したのも、小南武一をはじめとする函館市建築課職員の信念が感じられる作りである。更に津軽海峡に面する南側に、やはり鉄筋コンクリート造となる体育館を置き、完全防備の校舎にした訳である。冬場の採光を考えると少し厳しい構成だが、安全性を考えてこのような校舎配置になったのだろう。 とてもシンプルな外観のこの校舎。玄関部分に数点のテラコッタと、階段室に函館の大火復興小学校に多く用いられている丸窓が採用されている以外、派手さを全く感じさせない質素なデザインである。日本国内の軍事態勢が強化されていったこの時代、それに伴い国による資材統制がおこなわれ始めた頃で、そのような時代背景も簡素な的場中学校の外観に影響しているのだろう。 また校内は函館市内に同時期建てられた他の大火復興小学校と同様、アーチの梁が連続して続く美しいものだったという。階段室の丸窓も、さぞかし美しかっただろう。 的場・凌雲・光成の3校が合併して、市立巴中学校が誕生して早4年。それに際し新築されたモダンな校舎は、とても好評を得ているようである。そして巴中学校誕生まもなくに、昭和9年の大火復興事業の一環として建てられた的場中学校の校舎も、人知れず解体されていった。きちんとメンテナンスをおこない、その歴史的な価値をアピールし活用をおこなっていたなら、国の重要文化財に指定されても何の不思議ではない、とても美しい学校建築だったので、その解体はあまりにも悔やまれる。 そして今回、的場中学校の記事を作成するにあたり、新生となった巴中学校のホームページを参考にしようと思ったのだが、前身にあたる各学校に関する歴史が全く紹介されておらず、正直驚いてしまった。なお他地域の合併・新設された学校の中には、前身校の歴史を丁重に説明されている学校のホームページも多く見受けられる。 巴中学校の新しい施設の数々をアピールするのも結構だが、各学校の歴史もきちんと紹介しないと、多くの卒業生の方々は納得しないだろう。そしてグリーンベルトが交わるこの地に何故校舎が建てられたのか、その歴史の経緯も関係者の方々には生徒たちに語って頂きたいものである。 ◎設計:小南武一(函館市建築課) ◎施工:森川組 ◎竣工:昭和11(1936)年11月 ◎閉校:平成30(2018)年3月 ◎解体:平成30(2018)年4月以降 ◎構造:鉄筋コンクリート造3階建て ◎旧所在地:函館市的場町12 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 的場中学校の校舎がまだ現存していた平成26(2014)年7月に撮影。木々の葉が生い茂るこの季節になると、昭和9(1934)年の函館大火後に設置されたグリーンベルト(防火林)の存在がよく分かる。写真右上のグリーンベルトが交差する部分に、的場中学校の校舎が僅かながら確認できた。 ❖図版・・・・「函館新聞」昭和11年11月14日 ![]() 後年に降雪対策のため屋根カバーが取り付けられたが、竣工当初はご覧のようなシンプルな外観だった。 昭和9年大火発生直後に作成されたもの。赤の線で記された幅員の広い幹線道路と、緑の線で記された防火目的の緑地帯(グリーンベルト)で構成される。実際に敷設された部分が異なる箇所もあるが、この計画案がベースとなり函館市の復興事業はおこなわれる事になった。 ❖図版・・・・「ホームページ:虚数の森」佐田祐一氏作成、原図・函館市立図書館所蔵 ![]() ![]() ![]() ![]() 体育館も校舎と同時期に建てられたもの。 ![]() 的場中学校は三方をグリーンベルトに挟まれた場所にあった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ★参考文献・資料 「ホームページ:虚数の森」佐田祐一氏作成 「函館市ホームページ」 ★撮影・・・・2008年7月、2009年6月、2014年7月、2020年10月
by sy-f_ha-ys
| 2022-04-16 09:16
| ★函館・懐かしの建築写真
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Comments(6)
![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
> オガタのSさま、
近況報告ありがとうございます。最近、コメントを頂かないと思っていましたが、ご多忙だったのですね。いろいろお疲れ様でした。 的場の写真は2008年と2009年に大火慰霊堂→高盛→的場のルートで訪れまして、2009年に撮影したものは幸運にもデーターが残っていまして、今回はヴォリュームのある拡大画像で掲載した次第です。映画「太陽がいっぱい」の曲が帰りのチャイムとは洒落ていますね。何となくあの曲の事かなと想像してしまいましたが、哀愁漂いすぎてませんか?。 私は昨日と今日のいずれかに遠出する予定でしたが、昨日の悪天候、今日もスタートが遅くなってしまうなどの理由で、行先は電車で20分ほどの「蔵の街」川越になってしまいました。100円で入館てきる大正末に建てられた国指定重要文化財の洋館を見学し、芋プリンソフトを食べて帰ってまいりました。函館に今年こそ行きたいですね。
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![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
> オガタのSさま、
実は休みは金土のみで、今週も通常勤務です。 今週金曜の対日ハム戦は、奮発してバックネット裏の指定席のチケットを買ったので、それを楽しみに今週を乗り切りたいと思います。今年からオーナーズシートの入場口からも入場ОKになったそうなので、ちゃっかりリッチ気分を味わって入場してみようと思います。 脱線話はともかく、連絡船の桟橋、ベイエリアの東浜など観光向けの整備がおこなわれ、だいぶ様変わりしたようですね。函館の観光客ですが、私のように行きたいんだけど行って良いものかと悩んでいる人も多くいると思います。逆に昨日私が訪れた川越のように、近場の観光地は激込みのようです。森町の新栄館、後ほどチェックしてみようと思います。今日もコメントありがとうございました。 ![]()
私は、父が昭和48年に函館に転勤となり、その年に的場中学校に入学し卒業後はまた父の転勤で千葉に引越ました。とても懐かし写真を見ることができてとても感動しております。当時は窓は鉄製で、床は木の床でした。中庭がありテニスコートになっておりました。階段室の丸い窓はとても印象的で今でも覚えております。歴史のある建物であったことは初めて知りました。
> ken-gさん
的場中学校の建物は、昭和9年に起きた函館大火の復興事業で建てられたものです。 戦局が厳しくなり建築資材が高騰していた時代ですが、函館市や内務省関係者の尽力により、建てられたから70数年近く使われる立派な校舎が建てられた訳です。そして丸窓ですが、当時函館に建てられた大火復興小学校(…的場中は戦前は高等小学校でした)の中で共通して用いられていたデザインです。中庭は火災発生時の避難場所としてこのような作りになったそうです。
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