函館市末広町の旧日下部久太郎邸(函館の建築再見2021)

◆旧日下部久太郎函館邸

　・・・・大正中期築、函館ゆかりの海運王が建てた重厚な和風邸宅

　函館の隠れた名坂の一つ、末広町から元町に延びる日和坂。坂の名については諸説あるが、港の様子が一望できることからこの坂の名が付けられたという。

　海食崖の急坂を上ると、緩やかな上りが続く函館ならではの坂道である。筆者が函館に初めて訪れた20数年前は、坂下には巨大な戦前竣工のモダン建築である旧森屋百貨店(大正14年築、昭和5年増築)が建ち、坂下には高層マンションも建てられておらず、とても風情のある坂道だった。

　しかし時代の流れと共に、坂下を中心に周辺の環境も様変わりしてしまったが、坂上には日本海員掖済会函館宿泊所(現高橋病院天使寮、昭和3年築)、旧佐田作郎邸(設計：田上義也、昭和3年築)など、北洋業業で賑わっていた頃に建てられた歴史的建造物が幾つか現存している。そして今回紹介させていただく日下部家住宅も、その頃に建てられた歴史ある邸宅で、この界隈にある和風住宅では旧相馬哲平邸(設計：筒井平左衛門、明治41年築)、石井家住宅(昭和2年ころ築)と共に、豪華さと完成度を誇る建築作品である。

　現在は坂下に高層マンションが建てられ眺望が遮断されてしまったが、かつては眼下に函館の港の賑わいを、一望できたであろうこの邸宅。施主は明治末から昭和初期にかけて、函館や神戸を拠点に活躍した海運商・日下部久太郎(1871～1953)である。竣工時期については諸説あるが、日下部の商いが全盛を迎えた大正6(1917)年ころに建てられたと推測される。

　ちなみに冒頭の写真でご覧いただいた和風邸宅の左隣には、日下部家が所有する昭和7(1932)年ころに竣工した洋風の民家が近年まで現存していた。しかし老朽化のためか、一昨年に新たな住宅へと建て替えられてしまっている。これも時代の流れなのだろうか。

　和風モダンな雰囲気も漂う日下部家住宅。施主の日下部久太郎は岐阜の生まれ。明治21(1888)年に釧路へ渡り、父親が出資した海産問屋に勤務する。その後、函館に渡り米穀・肥料・海産物を取り扱う商店を開業させ、傍ら海運業にも着手する。しかし米相場の投機に失敗し、商店を閉鎖することになる。その後、これまでの働きぶりが認められてか、函館の北海産業合資会社に入社する。だが塩魚の思惑買いで会社に損益を与えてしまい、それが原因で会社を退職する。

　日下部久太郎は度重なる商売の失敗にもめげず、明治41(1908)年には日下部合名会社を函館で設立。業務は主に回漕業で、当初は関西方面から船をチャーターし代理業をおこなっていたが、業務の拡大に伴い自身の船を所有するようになる。この頃には業務を神戸へ拡大させた。

　更に大正3(1914)年には第一次世界大戦が勃発。船価が日を追うごとに高騰し、日下部は船舶の買収・新造を積極的におこなう。この時期の回漕業は立て続けに成功し、莫大な財を短期間で手にすることになった。いわゆる船成金の誕生である。

　大正初期に莫大な資産を手にした日下部久太郎。そして日下部はこの時期、生まれ故郷の岐阜、新たに活動の拠点となっていた神戸、そして古くからのホームグランドである函館に自身の邸宅や事務所などを次々と建設する。岐阜の事務所や神戸の別邸は当時日本国内で流行していたユーゲントシュティール調、また函館、岐阜、神戸の和風建築は完成度の高い純和風建築に仕上がっている。函館の邸宅は本州から大工を呼んで建設したと想像される。

　そして日下部は日和坂上の本邸のほか、その坂下の東浜に自社ビルの建設に着手する。完成したそのビルは万世ビルと命名され、鉄筋コンクリート造3階建て、銅板葺きマンサード屋根の4階部分を持った当時の函館では屈指の大建築となった。

　当時の古写真を見ると大正6(1917)年から大正9(1920)年ころに竣工したと推測される。外観デザインは神戸の別邸、岐阜の事務所と同様にユーゲントシュティール調の大正モダンな装いであることから、同一の建築家が設計に携わったようだ。

　大正期の函館ではランドマーク的な存在となった万世ビル。しかし大正13(1924)年8月27日に東浜地区で起きた大火事では、建物内が著しく焼けてしまった。この頃、日下部久太郎が興した日下部汽船は、第一次世界大戦後の反動不況により経営が苦しくなり、自社所有の船を手放していた時期だったので、まさに弱り目に祟り目と言った事件だったのである。なお万世ビルは、火災後修繕工事がおこなわれ、昭和30年代まで使われていたようである。

　それから昭和・平成・令和と時は流れ、函館で残された数少ない日下部久太郎の遺構が、日和坂の和風邸宅なのである。また日下部は谷地頭町の函館八幡宮(設計：安藤時蔵、大正7年築)造営の寄進、末広町の函館海産商同業組合事務所(設計：関根要太郎+山中節治、大正9年築)の建設資金寄付のほか、函館の社会貢献にも尽力した人物であった。

　現在も日下部久太郎の子孫にあたる方が住まわれているこの邸宅。迷惑にならない程度に、坂上や坂下からその美しさを堪能して頂きたい、函館の名建築の一つである。

◆日下部住宅(旧日下部久太郎函館邸)

　◎設計：不詳

　◎施工：不詳

　◎竣工：大正6(1917)年ころ

　◎構造：木造2階建て、蔵は鉄筋コンクリート造

　◎所在地：函館市末広町20-1

　　❖函館市指定伝統的建造物

◆万世ビル(大正中期竣工)

大正半ば日下部久太郎が東浜に建てた自社ビル。鉄筋コンクリート造3階建てで銅板葺きのマンサード屋根を4階部分に充てた。大正中期は函館一の高層建築だったと想像される。

日下部汽船(日下部合名会社)の岐阜事務所、神戸の日下部邸と同様にユーゲントシュティール調の大正期らしい洒落たデザイン。設計者は不詳であるが、その完成度から見て当時国内の第一線で活躍していた建築家が設計を手掛けたと想像される。

❖図版・・・・筆者所蔵絵葉書コレクション

❖図版・・・・「函館市制実施記念写真帖」円山貞吉編、大正12年

◆大正13年8月の火災を伝える新聞記事

大正13(1924)年8月27日、東浜の勝田旅館で発生した火災は八幡坂下から基坂下の海側98棟を焼く大規模火災になった。日下部久太郎が建てた万世ビルの他、日本銀行支店、金森魁文社、金森回生堂など主要な商業施設を焼いた。この後、万世ビルは銅板葺きのマンサールが撤去され、簡易な3階建てビルへと改修され昭和半ばまで使われていたようである。

❖図版・・・・「函館毎日新聞」大正13年8月28日

★万世ビル跡地

こちらは2016年の早春に撮影。5年が経過し周辺環境が多少変わっているが、写真中央辺りに万世ビルがあったと想像される。

◆日下部家所有附属住宅(昭和7年築)

日下部の本邸の横に昭和初期建てられた邸宅。和洋折衷の典型的な函館の町家建築だったが、老朽化のためか一昨年解体された。その跡地にはそのイメージを継承した住宅が新たに建てられている。
ここまでの7枚は2009年の6月と10月に撮影。

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★参考文献・資料

「歴史遺産　日本の洋館・４」藤森照信氏著、講談社、平成14年

「函館市史　通説編第3巻」函館市史編さん室、函館市、平成9年

「ステップアップ　日下部久太郎」函館市文化・スポーツ財団ホームページ

★撮影・・・・2009年6月・10月、2016年3月、2018年9月、2020年10月