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![]() ・・・・未曾有の被害となった昭和9年函館大火と関根要太郎の活動を辿る 明日3月21日は、昭和9(1934)年の同日に発生した函館大火より87年目にあたる日である。函館は津軽海峡に面し、町の両側を海に囲まれるという陸繋島という地形もあってか、明治のはじめ以降海峡から吹く強風が原因で、度重なる大火災に悩まされていた。特に明治40(1907)年8月に起きた大火以降、昭和9年まで27年間の間に焼失戸数・100棟を超す、いわゆる大火の発生は実に10回を数えている。 昭和9年3月21日の午後6時53分、住吉町の民家で発生した火災は、津軽海峡から吹く風速20メートルを超す当日の強風に煽られ、市内各所へと類焼。当時この大火を体験したという方のお話によると、火災発生から強風はますます強くなり、一時は元町の高台よりも高い火焔が度々発生していたという。 そして焼失戸数・24186棟、市内の3分の2を焼き、翌22日の午前6時頃にようやく鎮火。犠牲者2196名という、これまでの函館の歴史の中で最悪の災害になったのである。 函館における大火の知らせは、22日の午前より新聞やラジオにより、号外や速報にて帝都東京でも報じられる。そして函館大火の知らせを聞き、急遽函館へ向かった在京の建築家がいた。その人物は大正中期より昭和初期に函館で活躍した建築家の関根要太郎(1889~1959)。関根は不動貯金銀行函館支店(大正7年築)の建設を機に函館を訪れ、次いで函館海産商同業組合事務所(大正9年築)、区立函館病院外来診療棟(大正10年築)、百十三銀行本店(大正15年築)など町の主要建築の設計を担当している。 また区立函館病院外来診療建設中の大正10(1921)年4月14日には、函館市内で大火が発生。当時31歳の若さだった関根要太郎は、日本建築学会の依頼により函館の大火後の被害調査を行うとともに、函館政財界の有力者により開催された火防実行区民大会の講演会に出席、函館区民に耐火建築の重要性を説く。 その後、関根はこの大火で焼失した地域を中心に、亀井喜一郎邸(大正10年築)、石塚商店(大正11年築)、泉泰三邸(大正12年築)など、モダンな邸宅や商店の設計を手掛ける。数こそは少ないが華やかな建築作品を、函館に幾つか残した建築家であった。 彼岸の翌日にあたる3月22日木曜、当時44歳という年齢になっていた関根は、函館大火発生の知らせを聞く。そして上野発青森行き午後2時53分発の急行列車に乗車。翌日朝には青函連絡船へと乗り換え、その日の正午に函館に到着している。 関根の函館行きは、大火の被害に遭った不動貯金銀行函館支店(所在地・鶴岡町:現大手町)の火災後の処置という名目であったが、その間に函館大火の被害調査をおこなっている。そして3月29日の木曜に、函館市による復興計画根幹の発表を見届け、函館を後にした。 東京へ帰った関根は、すぐさまに函館大火報告書の作成に着手する。そして大火発生後から15日後には、〔函館市の火災報告ー本文を市会議員故泉泰三君の霊に捧ぐ〕を完成させ、自身が所属する日本建築士会に提出。そして関根作成の大火報告書は、日本建築士会の機関誌〔日本建築士〕昭和9年4月号に発表されている。 なお報告書の副題に付けられた市会議員の泉泰三(1882~1934)は、関根と長年親交のあった函館の名士で、この大火で不慮の死を遂げている。泉泰三については、後日改めて紹介させていただきたい。 ちなみに当時関根が所属していた、もう一つの建築家団体である日本建築学会の調査員が、東京を出発したのが大火発生より4日後。日本建築学会のメンバー13名作成による調査報告書〔函館大火災調査報告〕の発表が、同年6月に日本建築学会の機関誌〔建築雑誌〕に発表されたことを考えると、関根の行動がいかに早かったかお分かりいただけるのではないかと思う。大正以来、函館の町づくりに少なからず加担していた関根。並々ならぬ責任感や、自負の念を抱いていたのではないかと、想像してしまうのである。 この他に昭和9年大火直前の函館を語る上で、〔函館水電買収問題〕を忘れてはいけない。大正末に函館市は、函館水電という東京資本の電灯会社を、函館市が将来的に買収するという覚書を両者の間で交わしていた。 しかし買収に関する協議がまとまらず、折からの函館市民を無視したような経営などにも市長や市民の不満が爆発。電気料金の値下げなどを訴え、電気料金の支払い拒否や電気使用拒否などの、強硬手段をとるまでの大問題になっていた。だが大火発生2週間前に札幌逓信局長の仲裁により休戦調停が交わされ、これから問題を改めて詰めていこうとしていた矢先の大惨事であった。詳しくはこちらも後日紹介する事にしたい。 そういう事で当ブログでは、本日から数回に渡り関根要太郎が作成した〔函館市の火災報告〕を中心に、昭和9年の大火について考察をおこなっていきたい。今から87年前の出来事とはいえ、多数の犠牲者を出し、人々のごく当たり前の日常の暮らしを奪ったという事を考えると、非常に重いテーマである。長年いつかはやらなければと思っていたテーマだったが、今年こそチャレンジしてみようと思う。 まず初回は関根の手記の冒頭部分と、明治40(1907)年、大正10(1921)年に起きた過去の函館大火を振り返ることにしたい。 ◎執筆:関根要太郎(不動貯金銀行営繕課長) ◎脱稿:昭和9(1934)年4月5日 ◎掲載:「日本建築士」昭和9(1934)年4月号 ★昭和9年函館大火の焼失地域図 函館は長年の大火を教訓に水利施設や消防施設が充実していたが、当日の猛火では太刀打ちできなかった。下の大火略図は関根要太郎本人が作成したもののようである。 3月21日の午後6時53分、住吉町の民家から発生した火災は風速20メートルの強風に煽られ、市内の約3分の2を焼く大火へとなり、翌日の6時過ぎに鎮火した。 上2点は大火翌日の新聞記事。函館から直接の連絡が取れなかったこともあってか、焼失した被害地域や焼失建造物が完全に把握できていなかった事が分かる。今回は朝日新聞の記事を掲載したが、東京日日(毎日)、読売などの東京に拠点を置く大手新聞各社は、数日に渡り函館大火の被害状況をトップ記事で紹介している。 ❖図版・・・・「東京朝日新聞」上の3点 函館山頂から撮影。写真には写っていないが、この右手の住吉町付近が火元となった。 写真左手が火元の住吉町。ここから一晩に渡り函館市内の3分の2が焼けてしまった。 ![]() ★昭和9年函館大火焼失区域 建築家・佐田祐一氏作成による函館大火焼失区域図。今回は佐田氏から10年前に作成した図版を幾つか使用させていただいた。3月21日の午後6時53分に住吉町で発生した火災は、当日吹いていた台風並みの強風に煽られ、瞬く間に市内各所へと類焼し、市内の3分の2を焼く大火へとなってしまった。一晩にしてこれだけの地域を焼いたのは驚きである。 ![]() ★再び函館山山頂より 住吉町を火元に消防局の努力も虚しく、写真下に写る西部地区から写真上の時任町までが一晩にして焼けてしまった。 こちらも佐田祐一氏作成の図版。筆者が撮影した写真と比較して頂きたい。 ❖図版・・・・「ホームページ・虚数の森:佐田祐一氏作成」 ------------------------------------------------------------------------------- ★函館の火災報告、関根要太郎著より ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「大正10年4月、2041戸を烏有に帰せしめた函館大火の際、西村好時君と共に火災の調査をなし之が報告を建築学会に致した事がるが、今回の災禍の程度は更に夫れより大きく、殊に吾人の痛感に堪えざるは、多数の死傷者を出したる事で、3月26日現在の死亡者は、死者1662人であるが、今尚連日死者は発見され其の数を増加しつつある状態である。」 ![]() ★函館大火調査報告・・・・建築雑誌、大正10年12月号 大正10(1921)年4月14日、函館区東川町で発生した火災は、市内中心部2041戸を焼く大火となった。火災による犠牲者は1名。 それより間もなく、第一銀行函館支店の建設のため函館に滞在していた建築家・西村好時(1886~1961)と、区立函館病院外来診療棟の建設のため函館に滞在していた関根要太郎は、日本建築学会の依頼により函館大火の被害状況の調査調査をおこない、調査報告書を発表した。 ![]() こちらは度々紹介させていただいている〔函館大火調査報告〕に掲載された写真。煉瓦の外壁を残して焼けてしまった元町カトリック教会、間一髪のところで焼失を免れ、煤だらけになった函館海産商同業組合事務所(設計:関根要太郎+山中節治、大正9年築)が写る。 ![]() ❖図版・・・・「建築雑誌」大正10年12月号より・・・・上の3点 再び建築家・佐田祐一氏作成の焼失区域図を掲載させていただいた。この時の大火は東川町を火元に北部へと類焼している。 また大正10年大火の14年前にあたる明治40(1907)年8月、8977戸を焼く大火が発生したが、津軽海峡から北・もしくは北西への風が影響し、函館山の麓にあたる市内中心部の大半を焼いている。通常、函館に吹く風は津軽海峡から北に吹く風が多いこともあってか、昭和9年大火では多くの市民が市内東部に避難したため、東へ吹く風に煽られた猛火の犠牲になったと考えられる。 ★函館山の山頂より 明治40年、昭和9年に比較して焼失規模は少なかったが、末広町商業地域の大半や元町の高級住宅地など市内中心地域を焼く、経済的被害の大きい大火となった。 ❖図版・・・・「ホームページ・虚数の森:佐田祐一氏作成」 自身が手掛けた設計作品の建設のため函館に滞在していた関根要太郎と西村好時は、日本建築学会の依頼により大正10年4月に発生した大火の被害調査をおこなうことになった。関根は不動貯金銀行、西村は第一銀行の店舗営繕を長年手掛けていた銀行建築家とも言える2人が調査をおこなったのは興味深い。 ❖図版・・・・筆者所蔵絵葉書 ![]() ★昭和9年大火のボーダーラインとなった二十間坂 昭和9年大火では二十間坂より南側が全焼。二十間坂の道幅の広さや、風向きが変わったことにより元町、末広町の大半をはじめ、弥生町、船見町、大町、弁天町、入舟町などは大火の焼失を免れた。 写真右手に写る東本願寺函館別院(設計:九世伊藤平左衛門、施工:十世伊藤平左衛門+木田保造)は、明治40年の大火を教訓に建てられた日本初の鉄筋コンクリート製寺院。この寺の檀家総代だった三代渡辺熊四郎(金森合名会社代表)の発案により、当時珍しかった鉄筋コンクリート造の伽藍が建設された。このコンクリート製寺院は、昭和9年大火でも大正10年大火に続き、火災の被害を免れることになったのである。 三度、佐田祐一氏作成の焼失区域図を転載させて頂いた。明治40(1907)年8月23日・午後10時35分、東川町の石鹸工場から出火。函館山の麓にあたる西部地区の大部分を焼いた。焼失戸数8977戸、犠牲者8名を出した大火は翌日の午前9時にようやく鎮火している。 ![]() ![]() 函館山の麓という事もあり1枚の写真で納めきれなかったが、函館の典型的な風向きで火災が燃え広がったことが分かる。 明治10年代の大火を機に開拓使は函館区内の建造物施工に対し、煉瓦造建築の建設を奨励。しかしこの時の大火では煉瓦造の建物の多くが焼失・倒壊してしまっている。そのような事もあってか、明治40年大火後の復興建築は、旧函館区公会堂をはじめ火災を諦めたような木造下見板張りの洋風建築が多く建てられたのも特徴である。 当時函館で暮らしていた石川啄木は、この時の大火に遭遇。それより間もなく函館を離れ、札幌へと渡っている。 ❖図版・・・・「ホームページ・虚数の森、佐田祐一氏作成」 ![]() ★二十間坂の坂上より 二十間坂の右側が昭和9年の大火で焼失した地域。ここから右手に行くと一部の鉄筋コンクリート建築を除いて、昭和9年以前に建てられた建物はかなり少なくなる。特に昭和9年以前に建てられた木造建築は皆無に等しい。 大正10年大火発生時、宝来町の映画館〔錦輝館〕の建設のため函館に滞在していた建築家の中村鎮(1890~1933)は、末広町・豊川町・宝来町にある銀座通りを中心に、廉価で建てられる自身が開発した中村式鉄筋コンクリートブロック工法の耐火建築を多く建設。特に銀座通りの耐火建築群は、大正10年大火復興事業の目玉になった。 しかし中村設計の鉄筋コンクリートブロックの建築群は、防火窓などの対策が万全ではなかったようで、昭和9年の大火では内部を焼失。一部では猛火により倒壊する建物も出てしまっている。 関根要太郎・山中節治兄弟初期の代表作の一つで、建物の構造は準防火建築にあたる木造モルタル塗り。大正10年大火では間一髪のところで焼失を免れる。そして昭和9年の大火では下の写真を撮影したポイントまで火の手が迫っていたが、風向きが変わったことで焼失を免れている。 現在は観光施設〔はこだて明治館〕として使われる煉瓦造の旧郵便局。冒頭の朝日新聞の記事では大火の焼失物件として紹介されているが、函館郵便局も道幅の広い二十間坂通りに助けられ、寸前のところで焼失を免れている。 なお当日の大火で、函館郵便局、函館駅、函館市役所が焼失したと報じられているが、函館郵便局のほか函館駅も焼失を免れている。市役所は残念がら全焼してしまった。 ★参考文献・参考資料 「函館市の火災報告」関根要太郎著、日本建築士・昭和9年4月号 「函館市大火災調査報告」小南武一氏ほか作成、建築雑誌、昭和9年6月号 「函館市史」佐藤勘三郎氏著、函館日日新聞社、昭和10年 「ホームページ・虚数の森」佐田祐一氏作成、平成21年 ★撮影・・・・・2009年10月、2014年6月、2015年9月、2016年3月・10月、2018年9月、2020年10月
by sy-f_ha-ys
| 2021-03-20 07:20
| 15-昭和9年・函館大火
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Comments(6)
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おはようございます。
函館山のフェーンが原因と思いますが、函館も大火の多い町だったようですね。 満を持しての掲載だと思います。期待しております。
1
> してぐりさま、
昭和9年の大火ですが、大正10年に起きた大火で建てられたコンクリ―造の復興建築の殆どが焼けてしまったこと、大火発生直前に休戦となった函館水電争議の結論が曖昧になってしまっことなど、戦前の函館史をを考えるとターニングポイントとも言える事件だったと思います。頭の中で色々と構想を練っておりますが、上手く伝えられるか不安です。今後ともよろしくお願いいたします。 ![]()
先週の土曜日は夕食の頃から風の音がだんだんひどくなり、家の裏からバタンバタンとトタンが剥がれるような嫌な音がして来るのを聞きながら読ませて頂きました。その日は大火が発生した前日に当たると知り、あまりにもピッタリな効果音に気持ちも高ぶりました。
さて、関根要太郎さんの足取りを写真で追うような構成が、素人の自分には楽しかったです。しかし、最近ブログでよくお名前をお見かけする泉泰三さんが非業の死を遂げたこと、谷地頭方面への近道としてよく通る住吉浜の辺り~我が家の方まで焼け野原となったこと、あのステキな海産商同業組合の建物が大火直後はすすけた姿になっていたこと、関根要太郎さんがいち早く函館に駆けつけた思い等々…読み進めて行くうちに「古い建物ってステキ…」だけでは済まされない「何か」をひしひしと感じました。 ところで関係ないのですが、オガタの建物は大正9年築だったかと思います。あれも海産商組合と同様に消失を免れた建物だったのですね。何か塀のような囲いが見えるので、自分にとっては結構興味深い写真です!
> オガタのSさま
彼岸の前後は全国的に春の嵐が吹いていたようで、我が家の雨戸も勢いよくガタガタと音を立てていました。お彼岸の夜に大火が起きたというのも不思議な感じがします。私が長年お世話になっている、函館古建築学のご師匠さんは入舟町の漁港のそばにお住まいなのですが、奥様のお話しによると「風が強い日に消防車のサイレンが聞こえると、うちは風下だから不安になるのよ」と仰っておりました。函館の人たちに大火の教訓は生き続けているのだなと、その時思いました。 そして関根要太郎さん、函館での大火の知らせを聞いたその日の午後には東京を発っていたとは凄いバイタリティーです。実は泉泰三さん要太郎さんとはその寸前まで交友が続いておりまして、大火発生直前にはお手紙を貰っていたり、なかなか不思議な縁を感じてしまいます。その話は4月上旬に発表しようと思います。 それと大正10年4月大火後の写真、尾形商店の工事中の囲いを発見されましたか。建設中だったのか、大火後のお直しをしたのか気になる写真です。 ![]()
そうですね、これは昭和9年ではなく大正10年大火後の写真ということですね。焼失を免れたのは1回だけではなかった!その建物が今も残っているということに、なんだかジ~ンとしてしまいます。
囲いの話ですが、その頃塀があったのかと思いましたが、ただの工事中の囲いなのですか!?工事中の囲いも風情があります!
> オガタのSさま、
昭和9年の大火は日本最古のコンクリート電柱まで火の手が迫っていたことを考えると、焼失を免れたのは奇跡だったと思います。強風に煽られ火の手が迫り、しかも春先の寒さ、当時の人たちは本当に恐怖だったのでしょうね。 尾形商店の囲い、そう言われるととても気になります。でも道路にせり出した塀という事を考えると、工事中の囲いだったと思いますよ。
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