江戸東京たてもの園、旧北尾次郎邸(明治モダン邸宅再訪)その2

◆旧北尾次郎邸(デ・ラランデ邸)

　・・・・明治末竣工、明治の天才学者・北尾次郎が遺した美しい赤の洋館

　先日は東京小金井公園の江戸東京たてもの園に移築・公開されている、島根出身の気象学・物理学などマルチな方面で才能を発揮した、元東京帝国大学教授の北尾次郎(1853～1907)の自邸を紹介させていただいた。もとは東京都新宿区の信濃町の高台に建っていたもので、切妻屋根と赤く塗られたスレート壁が美しい洋館である。

　とは言っても江戸東京たてもの園をはじめとする関係者は、この邸宅を家主の北尾次郎のものではなく、北尾の没後数年間この家を借りていたドイツ人建築家：ゲオログ・デラランデ(Georg de Lalande、1872～1914)の邸宅として公開されている。

　これはご存知の方も多いと思うが、信濃町に建っていた当時から長年に渡り、北尾家が建てた赤い洋館は、デ・ラランデの設計作品だと信じられてきた。特に元祖建築探偵・藤森照信氏の著作〔建築探偵の冒険・東京篇、昭和61年〕は、近代建築愛好家の間に、この赤い洋館の存在を広く世に知らしめた功績を持つ書籍である。この本が無ければ、この赤い洋館が移築・保存される事もなかっただろう。若き日の筆者も藤森氏の書籍を通じこの邸宅を知り、中央線快速や総武・中央緩行線に乗るたび、信濃町駅を出たすぐそばに見える赤い洋館を、よくチェックしていたものだ。

　先に紹介したように藤森氏の著作の中では、旧北尾邸はデ・ラランデが所有し、ラランデ自身が設計を手掛け、明治43(1910)年に竣工した作品と紹介されている。しかし実際は明治25(1893)年に、北尾次郎が取得した土地に自身の設計により、木造下見板張りの平屋住宅を建設。更に明治40(1907)年ころに北尾次郎、もしくは次郎の長男・北尾富烈(きたおふれつ、1884～?)の設計により、3階建てに増築されたようである。

　これは何度となく説明してきたように、当時デ・ラランデ建築事務所の筆頭スタッフだったチェコ出身の建築家：ヤン・レツル(Jan Letzel、1880～1925)が、故郷の母親に宛てた手紙の中で、この邸宅が現在の規模でほぼ完成していたと思われる文章が幾つか見受けられる。つまりデ・ラランデに入居前に旧北尾次郎邸は、今見られる形になっていた訳だ。また北尾家は明治39(1906)年暮れから翌年はじめまで、東京の代々木に一時転居していたので、その頃増築工事がおこなわれていた可能性が高い。

　また旧北尾邸のデ・ラランデ設計説は、大正2(1913)年に刊行された、雑誌「建築画報」に発表されたこの邸宅に関する記事や、以降に発表された建築関連の書籍で、設計者がデ・ラランデであると紹介されている。藤森氏をはじめとする建築史家の多くは、これを信じてしまったのだろう。

　なお旧北尾邸、作風はラランデの諸作品と多少異なるが、14年のドイツ留学の経験を持つ北尾次郎の好みが色濃く出た、ドイツ的なテイストも感じられる洋館である。これは筆者の想像だが、デ・ラランデがこの邸宅に暮らしていた当時、建築雑誌の記者やカメラマンが取材に来たのだろうが、その見事なデザインと完成度にデ・ラランデの設計によるものと、思い込んでしまったのかも知れない。

　ちなみに北尾次郎の没後、東京信濃町の土地と屋敷は長男の富烈に相続。そして富烈が生糸検査所の勤務のため東京を留守にしていたため、昭和15(1940)年5月まで主に外国人向けの貸住宅として使われた。そしてこの邸宅がデ・ラランデの設計及び自邸でないことは、広瀬毅彦氏の著書〔既視感の街へ、平成24年〕内に発表された調査結果により明らかになった。

　だが藤森照信氏をはじめとする多くの建築史家の発表では、実際は北尾次郎・富烈親子が土地と屋敷を所有していたにも関わらず、デ・ラランデが土地を所有していたという認識のもと、話が進められている。恐らく土地台帳については何も調べず、自分の想像でデ・ラランデが所有していた邸宅として話を進めてしまったのだろう。

　しかし先に紹介した広瀬毅彦氏の著書〔既視感の街へ〕での、旧北尾邸に関する新事実発表を受け、江戸東京たてもの園はデ・ラランデ邸の公開直前に、この邸宅に関する解説内容の一部を訂正している。ちなみにたてもの園は、デ・ラランデの設計により明治43(1910)年ころ既存の木造平屋から現状の３階建てに、増築がおこなわれたという内容に解説を変更した。また従来あった北尾邸の1階部分は、デ・ラランデにより大改造されたという主張を、江戸東京たてもの園はとっている。

　旧北尾次郎邸、長年に渡りデ・ラランデの設計作品だと思われてきた訳で、増築部分だけでもデ・ラランデの作品にしたいという、江戸東京たてもの園や建築史家の諸先生の気持ちは分かる。しかし広瀬毅彦氏によりこれだけ有力な資料を提示されたのだから、そろそろ北尾次郎邸の邸宅として、この洋館を再オープンすることは出来ないだろうか。

　これは以前から常々思っているのだが、日本の建築史というジャンルは資料による裏付けや、その資料の検証という点で他の史学に劣っている感が強い。この時の北尾次郎邸(デ・ラランデ邸)に関する一件も、多くの教訓を残したのではないだろうか。

　そのようにドイツ人建築家：デ・ラランデ作品と、公的機関の力により無理矢理されてしまった旧北尾次郎邸。しかし外観の造形をはじめ、1階玄関や食堂の天使の和のテイストたっぷりのレリーフなど、絵画や建築の方面でも多大な才能を発揮した、北尾次郎の素晴らしさを堪能できる箇所も多く見受けられる。

　もし江戸東京たてもの園へ訪れることがあれば、ドイツ帰りの天才学者が自らの設計で建てた邸宅という事を頭に入れて、この洋館を鑑賞して頂きたいものである。作品の中に所どころ垣間見られる和のテイストと素人っぽさが、とても良い味を出している明治建築の傑作の一つではないだろうか。

◆旧北尾次郎邸(江戸東京たてもの園ではデ・ラランデ邸という名称）　◎設計：北尾次郎、北尾富烈　◎施工：不詳　◎竣工：明治25(1893)年　◎増築：明治40(1907)年ころ　◎解体：平成12(2000)年　◎再建：平成25(2013)年　◎構造：木造2階建て　◎現所在地：東京都小金井市桜町3-7-1　　　　　　（都立小金井公園、江戸東京たてもの園内）　◎旧所在地：東京都新宿区信濃町26

★旧北尾邸のレリーフ

玄関のレリーフは、家主である北尾家の家族３人(家主：次郎、妻：ルイーゼ、長男：富烈)をモチーフにしたもの。この他に食堂、暖炉のレリーフも同系統のデザインなので、同一人物が原案を構想したと考えられる。

なお北尾次郎は絵画・芸術にも独自の才能を発揮してた人物だったので、これらも北尾本人がデザインしたものと考えられる。ドイツ風でありながら日本らしい味も感じさせる力作である。

★旧北尾次郎邸レリーフの下絵

平成12(2000)年の旧北尾次郎邸解体時に１階レリーフ下より発見された下絵。平成25(2013)年のデ・ラランデ邸オープン前後に、たてもの園ビジターセンターで公開されていた。

そしてこの下絵、何と墨絵で描かれているのだ。画風のタッチから北尾次郎が描いたと想像される。

★北尾次郎の小説「森の女神」の挿絵

北尾次郎は本業の気象学・物理学の他にも様々な分野で、マルチに才能を発揮していたという。そしてドイツ滞在時に独逸語で小説を執筆し、その挿絵も自身で描いた。この小説は未発表に終わったものの、島根県立図書館に原稿と挿絵は所蔵されているという。上の挿絵は平屋時代の北尾邸、下の挿絵は増築後の北尾邸を連想させるデザイン。既にこの頃から自身の頭の中には、将来建てる自邸の構想が固まっていたのかも知れない。

なお1枚目は左上には、和服の西洋人女性のイラストが描かれているが、北尾の挿絵の中には和洋折衷の女性のイラストが度々登場する。

❖図版・・・・所蔵：島根県立図書館、司法ジャーナル・2013年より転載

★デラランデ居住時の北尾邸

居間の金物飾りは当時の写真を参考に再現されたもの。ちなみに広瀬毅彦氏の調査によると、北尾次郎の妻・ルイーゼのドイツの実家の家業は金物職人だったとのこと。もしかしたらドイツで暮らす妻の実家が制作したものを、北尾邸では飾っていたかも知れない。

★ヤン・レツル設計による門
江戸東京たてもの園への旧北尾次郎邸再建にあたり再現された木製の門。実はこれ、当時の建築雑誌のグラビアを参考に作られたものである。同誌のクレジットではデ・ラランデの設計とされているが、レツルが母親に宛てた手紙の書面から推測するに、レツル本人がデザインを手掛けたようである。
ユーゲントシュティール風の美しいデザインの門。この頃のヤン・レツル、デ・ラランデの諸作品には同系統デザインの門が多く設置された。当時の建築雑誌の編集者は、この門に騙され北尾家が建てた邸宅も、デ・ラランデの設計作品と思い込んだのかも知れない。

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★参考文献・資料

「既視感の街へ　ロイヤルアーキテクト　ゲオログ・デラランデ新発見作品集」広瀬毅彦氏著、edition winterwork、2012年

「北尾次郎ルネサンスプロジェクト研究報告書」北尾次郎ルネサンスプロジェクト編、2016年

「続・江戸東京たてもの園捏造疑惑の新規復元展示物【デ・ラランデ邸】は東京都に作られた贋作ではないのか」広瀬毅彦氏著、司法ジャーナル、2013年

★撮影・・・・2013年５月、2014年11月、2017年３月、2020年10月