横浜市中区山手町のえの木てい(昭和モダン邸宅探訪)

◆横浜山手えの木てい
　・・・・昭和2年築、赤と白の対比が美しい横浜を代表する西洋館


　横浜山手を彩る美しい数多くの西洋館。筆者がカメラ片手に、この町の探索をするようになった1990年代後半の頃と比較すると、無名の西洋館の多くが姿を消した。だが町の雰囲気としては、その頃とあまり変わらないハイソなオーラを発しているのも、この町の不思議なところである。居留地以来培われてきた地域の歴史が、そのように感じさせるのだろうか。

　そして横浜山手で思い浮かべるのが、山下町から谷戸坂を大きくカーブを描きながら上り、港の見える丘公園から外人墓地、山手聖公会から雙葉やフェリスの校舎、山手のカトリック教会を眺めながら、共立学園方面へ抜けるというものだ。特に外人墓地から元町公園にかけての雰囲気は絶品である。
　そして前回紹介させていただいた山手234番館の隣には、瀟洒な一軒の西洋館が建っている。それがティーサロンの〔えの木てい〕である。

　白に塗られたモルタルの外壁と、赤瓦の寄棟屋根と赤に塗られた窓枠の対比が美しいこの西洋館、この邸宅の前に大きく生い茂るエノキの木から、〔えの木てい〕の名が付けられたという。地番から89-6番館という名称でも呼ばれることがあるが、〔えの木てい〕の名の方が広く知られている。広く取られた前庭はガーデン席として使われ、春から秋にかけて多くの人で賑わっている。

　ちなみに横浜の山手地区、234番の隣なのに突然89番という番地が現れるかというと、居留地時代に分譲した順番に番地を付けたためだという。今でこそスマホの地図アプリなどが発達したが、その昔は番地を目当てに西洋館探しをするのは至難の業だったものだ。現代ではランダムに振り分けられた番地の他に、急峻な地形に設けられた数々の坂道、そして山手の急斜面に作られたブラフ擁壁と呼ばれる石積みの壁が、山手が外国人居留地だった時代を物語る遺構である。

　現在〔えの木てい〕として使われる山手89-6番館、先日取り上げた山手234番館と同様、大正12(1923)年の関東大震災発生から間もない、昭和2(1927)年に建てられたものだという。89-6番館も震災を機に、横浜から去って行った外国人を呼び戻すため建てられたもので、234番館と同じ民間業者により施工されたものである。

　なお昭和30年代に撮影された写真を見ると、〔えの木てい〕右隣にはこれと瓜二つの西洋館一軒の姿が確認できる。234番館は四世帯向けアパートメントハウスだったが、現在〔えの木てい〕として使われている89-6番館を含む2軒の西洋館は、一世帯向けの住宅として建てられたものだ。

　ちなみに関東大震災を機に横浜で暮らしていた外国人は、震災前の7500人から2500人までに減少。それに危機感を抱いた横浜市は、29戸の外国人向け住宅を山手や根岸地区に建設。20数年程前までは〔えの木てい〕界隈にも、横浜市が建設した質素な作りの外国人向け住宅が数軒現存していたが、その大半は解体されてしまっている。そういう点ではこの89-6番館、当時を物語る貴重な遺構の一つである。

　現在えの木ていとして使われる、昭和初期竣工の西洋館・89-6番館。その設計はその作風や同じクライアントであることから、234番館と同様の建築家が手掛けたと推測されている。その人物とは朝香吉蔵(1889～?)。山形出身の朝香は、浅野造船所や横浜船渠の勤務を経て、大正12(1923)年に自身の建築事務所を開設している。
　施工は地元横浜出身の宮内初太郎率いる宮内建築事務所。宮内も234番館の施工を手掛け、横浜で幾つかの邸宅や教会などの施工や設計に携わった人物である。

　そして〔えの木てい〕の館内は、外観の華やかさに比べ質素な感じの室内であった。店のホームページによると、昭和45(1970)年に現オーナーの両親が、アメリカ人検事が暮らしていたこの西洋館を自宅として取得。昭和54(1979)年より1階のリビングをカフェとしてオープンしたという。
　過去に何度かこの店に入ったことがあるが、外国人住宅にしては廊下も狭く、階段が急だったりして、体格の良い人にとっては少し窮屈な感じ。日本の尺貫法で家を建てたら、このサイズになってしまったのだろうか。

　関東大震災後、日本人建築家により建てられた外国人向け住宅。見た目は西洋館なのに、妙な懐かしさを感じさせてくれるのは、そのせいなのだろうか。どの季節に訪れても絵になる、横浜を代表する名建築の一つだと思う。過去に撮影した写真を見返すたびに、真夏の猛暑が一段落したら、久々に山手の町を歩いてみたいと思った筆者であった。

◆山手えの木てい(山手89-6番館)
　◎設計：朝香吉蔵
　◎施工：宮内初太郎(宮内建築事務所)
　◎竣工：昭和2(1927)年
　◎構造：木造モルタル塗り2階建て
　◎所在地：横浜市中区山手町89-6

★横浜山手89番館(設計：横浜市建築課、昭和2年築)
本文でも紹介した、横浜市が関東大震災後に外国人向けに建てた住宅の数少ない邸宅の現存例。えの木ていから坂を少し下った場所に建つ。設計は横浜市建築課が担当。外壁のモルタルに三原山の火山灰を混ぜたことにより、このような独特な色になったという。デザイン的には平凡であるが、大きく取られた上げ下げ窓が西洋人向け住宅の雰囲気を醸し出す。関東大震災後に横浜山手に建てられた多くの西洋館が取り壊された現在、この住宅を活かし暮らす施主の方の英断は、大いに称賛すべきではないだろうか。

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★参考文献・資料

「都市の記憶　横浜の近代建築Ⅱ」横浜市歴史的資産調査会、平成9年

「開港150周年記念　横浜建築家列伝」横浜都市発展記念館、平成21年

「えの木ていホームページ」

★撮影・・・・2011年9月・10月、2015年5月、2016年3月、2017年5月・7月、2020年3月