函館競馬場観客席(建築家・山中節治作品研究)

◆函館競馬場観客席

　・・・・昭和5年築、函館郊外柏野に建てられたモダンな競馬場


　函館に夏の訪れを告げる、函館競馬の開催。その会場となる駒場町(柏野)の函館競馬場は、スタンドから津軽海峡と函館山が一望できることから、日本一美しい競馬場と称されることも度々ある素敵な場所である。

　明治29(1896)年の北海共同競馬会社がこの地に競馬場を開設して以来、一世紀以上に渡り柏野(駒場町)の地にレース場を構えている函館競馬。移転当初から長年に渡り、木造の観客席や施設で競馬を催していたが、函館競馬倶楽部が運営していた昭和5(1930)年に、鉄筋コンクリート造による、近代的な観客席が建てられることになった。

　その競馬場は予算16万円で、昭和4(1929)年の秋に起工。冬季の工事中断を経て、昭和5(1930)年の7月に、冒頭の写真でご覧いただいたスタンドが竣工したのである。またこれと前後して、本馬場、固定障害馬場、練習場も新設され、東京以北屈指のゴージャスな競馬場施設となった。柏野の地に建てられたこのモダンな競馬場のスタンドだが、埼玉県秩父出身で東京を拠点に活動していた建築家の山中節治(1895～1952)が設計を担当している。
　なお設計者が山中だという事を裏づける資料は、村田専三郎著〔函館工匠小伝、昭和33年、函館市立図書館蔵〕と、山中のご遺族からの証言による。

　山中節治は関根要太郎(1889～1959)の実弟で、兄・要太郎の影響もあってか建築の道を志し上京、大正7(1918)年頃から兄弟で共同設計を始めている。関根の函館における初作品：不動貯金銀行函館支店(大正7年築)をはじめ、函館海産商同業組合事務所(大正9年築)、区立函館病院外来診療棟(大正10年築)、亀井喜一郎邸(大正10年築)、石塚商店(大正11年築)、爾見淳太郎邸(大正11年築)、泉泰三邸(大正12年築)など函館の諸建造物の設計を、兄・要太郎と共に手掛けた。
　それと現在、大三坂ビルジングとして再生利用されている、末広町の旧仁壽生命函館支店(大正10年～14年ころ築)も、そのデザインが山中単独の設計作品と酷似しており、関根・山中兄弟の設計と推測される。

　特に函館の資産家で当時函館市議を務めていた、泉泰三(1882～1934)の南部坂上(旧曙町、現元町)の邸宅は、鉄筋コンクリートで建てられた当時最先端の住宅で、山中節治が主任としてそのデザインを手掛けたという。またこの邸宅建設を機に、施主の泉泰三と関根・山中兄弟は親交を深めたようで、大正15(1926)年に函館郊外の湯の川に建てられた泉家のセカンドハウス、泉合名会社湯川住宅も関根要太郎の建築事務所の設計で建てられたが、どちらの邸宅も既に取り壊されている。

　実はこの当時、泉泰三が函館競馬倶楽部の幹事を務めており、そのような人脈で山中節治が函館競馬場の設計を担当することになったと想像される。泉は熱意溢れる市民派の政治活動のほか、プライベートにあっては多趣味な人物だったそうで、いちばんの趣味は乗馬だったという。
　その極みのエピソードと言えば、トップレベルの乗馬競技見たさに家族や友人の反対を押し切り、単身ロサンゼルスへ渡り昭和7(1932)年のオリンピックを見物。このときに同オリンピック乗馬競技で金メダルを獲得した、西竹一(バロン西、1902～1945)と親交を深めたという。

　そのような拘りの男・泉泰三が代表幹事を務める函館馬倶楽部が、当時モダンな作風を得意とし国内で活躍していた山中節治に設計を依頼した競馬場スタンド。実は当時の山中、得意としていたのは住宅とオフィスビルの設計で、競馬場のスタンドの建設など想像していなかったかも知れない。
　そして山中を悩ませたもう一つの問題は工期の短さである。秋競馬の終了から工事に入り、冬季の工事中断を挟み雪解け後に工事を再開。何とか7月のレース開催直前に工事を間に合わせたという。山中のご遺族によると晩年の思い出話で、競馬場を工期に完成できなかったのが悔やまれると、よくしていたという。

　昭和5年の初夏に何とか竣工に漕ぎつけた函館競馬場。設計者の後悔はさておき、その豪華な施設は函館のみならず、他都市の関係者からも注目を浴び、視察に来る関係者も相次いだという。
　そして春秋と二期に分けて開催されたレース当日は、最上階の一等馬見所には地元の老舗レストラン・五島軒の臨時出張所が出店。各レースの出場馬の先導役は、白馬に乗った泉泰三が務め、とても華やかなレースとなったという。

　函館の地元商人や有力者により運営されていた函館競馬倶楽部も、昭和12(1937)年に解散となり日本競馬会の直轄となる。昭和9(1934)年の函館大火以降、函館の自主的な経済・文化活動は急速に力を失っていたが、函館競馬倶楽部の解散もそれを象徴する事件の一つだったと言える。
　大正から昭和初期にかけてモダンな作風を武器にして活躍した、山中節治設計による函館競馬場のスタンドは、昭和40年半ばに解体。その頃の偲べる遺構も殆ど残ってない。今回は数少ない当時の写真をご覧き、昭和初期の競馬場の賑わいを想像して頂きたい。

◆函館競馬場観客席
　◎設計：山中節治(山中建築事務所)
　◎施工：不詳
　◎起工：昭和4(1929)年秋
　◎竣工：昭和5(1930)年7月
　◎構造：鉄骨および鉄筋コンクリート造、一部4階建て

　◎旧所在地：函館市駒場町12-2

★筆者所蔵絵葉書コレクションより〔上5枚全て〕

上4枚が函館競馬倶楽部時代のもの。いちばん最後の絵葉書が日本競馬会の管轄となった以降のもの。山中設計のスタンドの両脇に新規スタンドが増築され、函館競馬会時代とは場内が様変わりしてしまっている。当時の記録によると昭和40年代前半まで山中設計のスタンドは現存していたようである。

★山中節治(1895～1952)肖像

十数年前、山中のご遺族からお借りした写真より。最初の写真が山中20代、２枚目の写真が40代の頃と想像される。

山中は明治28(1895)年秩父の生まれ。関根要太郎は母の実家・秩父大宮(現在の秩父市宮側町)の関根家へ養子に入ったが、対する山中節治は父の実家・秩父郡旧大滝村上中尾の山中家に育った。本人がはっきりとした記録を残さなかったこともあり、建築家になるまでのプロフィールが謎だが、大正半ばに早稲田大学の理工学部の建築科に選科生として学んでいる。

デザイン性に秀でた建築家で、「建築世界」「建築画報」「国際建築」などには、数多く山中の設計作品、デッサン、イラストが紹介されることになった。

なお昭和に入ると、東京から横浜鶴見の高台へ転居。自身が設計した邸宅に暮らしていたという。

❖写真提供・・・・・足立マリ子様

★東京臨海野球場鳥観図、山中建築事務所設計

昭和7年に雑誌「建築画報」に発表された野球場の鳥観図。競馬場の仕事を機に路線転換を狙ったのか、これまでの山中とはガラっと作風の変わった作品案である。甲子園球場を彷彿とさせる美しい野球場だが、実現には至っていない。

❖図版・・・・「建築画報」昭和7年9月号

★函館競馬場現状（2016年、2018年撮影）

山中節治設計によるスタンドの解体後、昭和45(1970)年に鉄筋コンクリート造の新スタンドが竣工。その新スタンドも十数年前に解体され、平成22(2010)年には更に新しいスタンドへと建て替えられている。昭和初期の函館競馬場を物語る遺構は、エントランス付近にある皇太子殿下（のちの大正天皇）の行幸記念碑くらいだ。

競馬場の案内板には、この競馬場の沿革が非常に事細かく紹介されていた。文章のみの簡素な展示だが、競馬場の歴史をきちんと記したとても好感の持てるものである。

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★参考文献・資料

「日本競馬会、函館競馬場沿革」山崎松太郎氏編、日本競馬会函館競馬場、昭和18年

「函館毎日新聞」昭和4年～昭和5年

「函館競馬場沿革」函館競馬場案内ボードより

「ホームページ、競馬切手：Horse racing stamp」田中昂作氏作成

2005年に筆者がおこなった森洋子氏(泉泰三子女)、足立真理子氏(山中節治子女)へのインタビュー

★撮影・・・・・2016年10月、2018年9月