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![]() ・・・・吉原大門脇に建つ昭和3年竣工のモダン小学校舎 今回紹介する待乳山小学校は、浅草寺から北へ歩いて15分ほどの場所に建つ昭和3年竣工の小学校。土手通りの吉原大門交差点の脇に建つ。 待乳山小学校は明治6年の創立の小学校で、今から10年ほど前にこの近隣にある田中小学校と合併、現在の東浅草小学校という名称へ変更されている。 この小学校に初めて訪れたのは昨年の初夏の事だったが、小学校の旧名称〔待乳山〕をどう読むのかが分からなかった。その時ご一緒したfinchesさんと道すがら色々な読み方を挙げてみたが、どうもしっくり来ない。結局、小学校の外観を撮影していた時、偶然この前を通りがかった買い物帰りのお婆さんにfinchesさんがお話を伺ったところ、『まつちやま』と読むことがやっと分かった訳である。 なおこの待乳山小学校の名称は、ここから隅田川へと流れる山谷堀の下流にある〔待乳山聖天〕に由来しているという。山谷堀というと吉原へ行く男たちを乗せた船が、隅田川からこの堀を上って行ったという紹介がよくされるが、この周辺で暮らす当時の人たちにしてみれば生活の基盤を支える、大切な堀だったに違いない。 また戦後になりこの堀は埋め立てられ緑地公園となっているが、待乳山小学校と同様に関東大震災後の復興事業の一環として架けられた小さな橋の数々が、その当時ここに堀があったことを僅かながら今に伝えている。 さて本題に戻って、この待乳山小学校の校舎がなかなか良かった。 例えば待乳山小学校と同時期に建設された、中央区の明石小学校や上野の黒門小学校のように、その時代のモダンデザインで校舎が彩られている訳でもなく、その校舎は関東震災後に建てられた復興小学校群の中ではごく標準的な外観である。しかし校舎両脇が道路になっていることや、南面に小さいながらも校庭があることもあってか、とても開放的な感じがした。 なお現在校庭の一部として使われている部分は、もとは日本堤公園という復興事業の一環で造成されたもので、当時は学校の校庭と公園の両方を兼用したものだったという。また筆者がここへ再訪した時は、残りの部分は児童公園として再整備の真っ最中だった。 ちなみに台東区内で戦前築の小学校舎が現役の公立小学校として使われているのは、黒門小学校と東浅草小学校のみ。夏になると校内の緑が美しい築80年の昭和モダンの小学校舎、この先も町の宝として使われ続けることを祈ってやまない・・・・・。 ◆本文中で公園の名を今戸橋公園と長年紹介しておりましたが、正式には日本堤公園が正式名称との事です。ご指摘有難うございます。 ![]() ◎設計:東京市 ◎施工:芝江初五郎 ◎竣工:昭和3(1928)年5月31日 ◎構造:鉄筋コンクリート造3階建て ◎所在地:東京都台東区東浅草2-27-19 ❖この建造物は現役の学校施設として使われております。見学に際してはマナーを守った行動をお願いいたします。 ![]() ![]() ![]() 竣工時の写真と比較すると、この箇所だけ形がかなり違うので、後年になり改築されたものと考えられる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 白亜の校舎と木々の緑のコントラストはとても美しかった。 ![]() 本文中でも紹介した山谷堀の下流に架かる今戸橋の親柱。旧待乳山小学校の校舎が竣工した同時期に架けられたもの。 尚このすぐそばには、校名の由来になった待乳山聖天がある。 ********************************************************* ★撮影・・・・・2009年6月、2010年3月
by sy-f_ha-ys
| 2010-04-14 21:14
| ◆昭和モダン建築探訪
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Comments(4)
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待乳山小学校OBです。学校の隣にある公園は確か今戸公園ではなく日本堤公園だったと思います。もしかしたら名称を変えたのかもしれません。
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卒業生さま、はじめまして。
待乳山小に訪ねたのは今から10年以上前でして、公園の事を忘れていました。地図を見ると日本堤公園と記載されていますね。ご指摘有難うございます。後ほど修正させていただきます。 ![]()
私はもうこの近くに住んでいないのですが、名称は変わっても校舎は以前のままですね。私の親父(90歳)もこちらに通いました。中は防空壕の跡なども残っていました。懐かしい写真、有難うございます。
> 卒業生さま
関東大震災後に鉄筋コンクリートで建てられた小学校は、今から十数年前は30校程度残っていたのですが、東日本大震災もあってか、その大半が建て替えられてしまいました。旧待乳山小の校舎が現存しているのは驚きです。三世代・四世代とこの小学校に通われているお宅もあるのでしょうね。本日はコメント頂き誠にありがとうございました。
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