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◆当ブログのタイトル『関根要太郎研究室@はこだて』は、大正から昭和初期に函館をはじめ日本国内で活躍した建築家の故・関根要太郎氏を紹介したく付けさせていただきました。また、関根氏の作品の他にも、同氏の設計作品が多く残る函館の歴史的建造物や、同時代のモダン建築なども紹介しております。 ◆このブログの写真は当サイト製作者の撮影によるものですが、それだけでは全てを紹介しきれないため、大正から昭和初期に発行された当時の書籍・建築関連の雑誌・新聞等の記事・図版を一部転載しております。またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。 なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 ◆当ブログ製作者は、建築業や建築学に携わっていない、素人研究家です。建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。そのつど御指摘していただければ幸いです。 ◆本ブログ掲載の写真および図版、記事内容の無断転用はご遠慮ください。但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません(大した写真では御座いませんが・・・・)。もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。 ◆また本ブログの記事内容と関連のないコメント、トラックバックは削除させていただく場合もございますので、予めご了承ください。 **************** ★excite以外のリンク --------------------- ❖『ギャラリー村岡』のjirojiro junction ❖分離派建築博物館 ❖収蔵庫・壱號館 ❖新・我愛西安、観光と生活情報 ❖なんだか函館 ❖建築ノスタルジア ❖トロンボーン吹きてっちゃんの独り言 ~函館応援プログ~ ❖虚数の森 Forest of im aginary number ❖ウイリアム・メレル・ヴォーリズ展 in近江八幡 ❖MEGU 「めぐ」を究めよう ❖建築日誌 ❖ありがとう 明石小学校舎☆幼稚園舎 ❖中央区立明石小学校の保存活動 ❖近代建築青空ミュージアム タグ
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![]() ・・・・建築家・関根要太郎、中村鎮、木田保造の活動などを中心に 大正10(1921)年4月14日午前1時、函館市東川町の菓子屋から発生した火災は当日の強風に煽られ、またたくまに現在でいうところの宝来町、青柳町、末広町、元町などに飛び火。この火災は当日の午前7時に鎮火したが、当時の函館市内中心部の約2000戸を焼失し死者1名を出すという、函館では明治40年以来の大火になった。 そして今回からは当時函館市立病院の設計のために函館に滞在していた建築家・関根要太郎(1889~1959)の大火後の活動や、同時期に廉価で建てられる鉄筋コンクリートブロック建築を函館で普及させた建築家・中村鎮(1890~1933)、これより6年前に元町に建設された日本で初めての鉄筋コンクリート製の寺院建築・東本願寺函館別院の施工を手掛け、この時の大火で同地での評判が上がった建築家・木田保造(1885~1940)の活動、そしてこの当時に建てられた建造物などを中心に大正10年函館大火後におこなわれた復興事業を紹介していく予定だ。 当時の函館は海産業の好景気も相まってか、国や東京主導ではなく自発的な街の運営をおこなっていた時期。また当時30代前半だった関根要太郎、中村鎮、木田保造という若い建築家たちが、当時の函館の復興に関与したというのも、この頃の函館の気質があらわれているのではないかと私は考える。その頃に建てられた建造物を見ても、当時の資料を見ても街の熱い意気込みが感じられる大正後半の函館である。 この頃に建てられた建造物は現存するものだけでも数多くすべてを紹介しきれないと思うが、当時の函館にあった熱き情熱を伝えていきたいと思っている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ![]() 大正10年函館大火後の復興事業において大いに活躍したのが、福岡出身で当時東京に拠点に建築家活動していた中村鎮(なかむらまもる)。 中村は自らが設計した蓬莱町の映画館[錦輝館]建設途中に大正10年の函館大火に遭遇。その後中村は、自らが開発した廉価で建設が可能な[中村式鉄筋コンクリートブロック工法]を用い、函館市内に不燃建築であるコンクリート建築を数多く建設させた。写真右手に建つピンク色の旧目貫商店も、中村の設計により大正10年の大火直後に建てられたもの。 ![]() 日本初の鉄筋コンクリート製寺院として名高い、東本願寺の函館別院。 この鉄筋コンクリート製の寺院が建立された当初はあまり評判は芳しくなかったようだが、大正10年大火で無被害であった事から、この寺院の施工を手掛けた木田保造の評判が高まり、これ以降木田は函館にて大活躍することになる。 ![]() 函館の政財界人は大正10年の大火直後に、防火目的の耐火建築群の建設を計画。函館区は耐火建築に関し低金利の融資や補助金などの優遇措置をおこない、鉄筋コンクリートをはじめとする耐火建築の建設を奨励する。そして大正10年暮れごろには、銀座通り・末広町などに数多くのコンクリート建築が軒を連ねることになった。 現在も銀座通りにはその当時建てられた耐火建築が20数軒現存している。 ![]() 大三坂下に建つヱビス商会も、大正10年函館大火直後に建設されたものの一つ。昭和9年の函館大火のため一部は焼失・倒壊してしまったが、大正末ころには十字街を中心にして東京以北最大のモダンな街並みが完成した。 ****************************************************** ※撮影・・・・・・2006年1月、2007年3月、2008年2月・6月、2009年3月・6月 ★・・・・尚、こちらの項は2008年9月1日から10月30日にかけて投稿したものですが、話の展開の関係もあり再構成させていただきました。 ![]() ・・・・・大正10年・函館大火後の復興事業について(その1) 『猛火函館を包めり!!、警鐘の乱打、区民総立ち、火元は新蔵前の菓子屋だ。』 最初に紹介させていただいた物々しいこの件は、大正10(1921)年4月14日の未明に函館で起きた大火の模様を伝える、地元新聞の見出しである。 この日の午前1時、現在の東川町の菓子屋で起きた火災は当日の強風に煽られ、またまたくまに市内へと飛び火。現地名でいうと東川町のほか、宝来町、青柳町の一部、元町と末広町の大部分を焼き払い、この日の朝7時にようやく鎮火した。ちなみに当日の猛火は、現在函館の観光名所として知られる元町の旧函館区公会堂(明治43年築)の寸前まで迫っていた。 幸いこの時の大火による死者は1名・負傷者も僅かと、人的な被害は火災の規模に対し少なく済んだ。ただ当時函館の要人たちが多く居を構えていた元町はほぼ全焼、また函館経済の中心地であった末広町の大半もこの火災の被害にあい、函館の主要な銀行・商店・レストラン・劇場等が多く灰と化している。明治40(1907)年に起きた大火以来、海産業の好景気に乗り街の発展が続いていた函館経済にとって、この時の大火が及ぼした経済の損失は計り知れないものだったに違いない。 また明治40年の大火以来函館に建てられた建造物の多くは、この地でたびたび起きる大火災に対し諦めたかのように火災に無防備な木造建築により街が彩られていったのだが、そのような函館の風潮に対する認識を改めさせる教訓になったのが、大正10年に起きた大火だった訳である。 このころ函館の繁華街だった末広町や宝来町は、これより数年前に起きた第一次世界大戦に伴う海運業の繁栄が嘘だったかのような一面の焼け野原。ちょうどこの大火が起きた頃は、函館はそれ以前の好景気から真っ逆さまに景気が落ちていた時期でもあった。これからの函館経済の先行きに不安を抱いた人たちも数多くいたかも知れない。 しかし、この時の大火で間一髪のところで奇跡的に火災の危機から免れた建物があった。その建物とは函館海産商同業組合事務所(海同会館)。函館海産商の組合施設として、この大火の前年にあたる大正9(1920)年1月に在京の建築家であった関根要太郎(1889~1959)、山中節冶(1895~1952)兄弟の設計より竣工した、大正モダンな木造モルタル塗りの3階建ての建物である。 大正10年の函館大火後の復興とは直接は関係ないが、関根・山中兄弟の設計による函館海産商同業組合事務所が火災で無被害だったことは、これ以降の関根要太郎の函館における活動を考えると大きな転機になったのではないかと私には思えてくるのだ。今回は少し話が長くなってしまうが、関根がこの大火後におこなった被害調査などを引き続き紹介していきたい。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() 『函館新聞』大正10年4月14日夕刊より。この時の火災では教会、料亭・銀行などが多く火災の被害に遭った。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() 先程ご覧頂いた〔函館新聞〕大正10年4月14日付夕刊には、この日の未明に起きた函館の大火災の被害状況が克明に取り上げられている。その中には『海産商組合 辛うじて』という見出しで間一髪のところで火災の被害から免れた函館海産商同業組合事務所(以下は海同会館と表記)についても紹介されている。 記事によると、消防隊の応援を待っていた同組合の書記長・米田清発氏が、火の手がこの建物の隣に建っていた北海道拓殖銀行支店に引火した事により、消防隊の応援を諦め一人必死に海同会館を火災の引火を防ぐため努力したという内容。この〔函館新聞〕、大衆向けな少し大袈裟な記事が多いのだが、この下に紹介させていただいた火災直後の海同会館の写真を見ると、新聞記者がこのような大袈裟な書き方をしたくなるのも頷ける被害状況なのである。 ちなみにこの火災発生時、関根は函館海同会館に引き続き、自らの設計による函館病院外来診療棟(大正10年11月竣工)建設の真っ最中。断定できるほどの資料はないのだが、このころ函館に滞在していたと思われる。一面煤だらけになった海同会館を見た関根は、どう思ったのだろうか・・・・。 また大火発生直後、関根は当時所属していた〔日本建築学会〕から函館の火災直後の被害調査を依頼されることになった。ちなみに同行者は建築家の西村好時(1886~1961)と、同じく建築家の森田慶一(1895~1983)。 西村は当時末広町に自らの設計による第一銀行函館支店(現在は函館市文学館)を建設中で、銀行建築の設計を多く手掛けた点では関根のライバル的な存在の人物。また森田はこの前年に東京帝国大学を卒業したばかりの建築家で、同大学の在学中だった大正9年には、同窓の石本喜久冶・山田守・堀口捨巳らと〔分離派建築会〕という建築家グループを結成し、新進気鋭の作風を世に問い話題を集めていた若手の建築家であった。つまり関根要太郎がこれまで発表してきたモダン路線を更に発展させた建築家だった訳である。 かなり前置きが長くなってしまったが、関根・西村・森田の3人による大火後の被害調査の結果は、西村により纏められ建築学会の機関紙〔建築雑誌〕大正10年12月号に『函館大火調査報告』というタイトルで発表さた。 この火災報告書の中では大火の被害から免れた建物の一つとして、関根要太郎・山中節冶設計による函館海同会館も紹介されているが、西村の文責による報告書では『多少偶然の感あれども・・・・』という前置きをしながら、この建物が火災から無被害だった理由を外壁がモルタル塗りだった事や、火が向きが窓の少ない建物側面に当たっていたことなど指摘している。この報告書を読む限り、関根設計による函館海同会館が火災の被害を免れたのは偶然だったのではないかとも思えてきてしまうのだ。 設計者である関根は『運も実力のうち』と思ったのかも知れないが、この大火での函館海同会館の一件は、これ以降の関根の函館における活動において大きな追い風になった事は間違いないようだ。 また次回は関根同様、函館・大正10年の大火を機に同地で更なる活躍を遂げる事になった建築家・木田保造について紹介したい。 ※参考文献・・・・・「函館市史、通説編第3巻」 「函館火災調査報告」、建築雑誌・大正10年12月号より -------------------------------------------------------------------------- ![]() ◎設計:関根要太郎、山中節冶(日本勧業株式会社建築部) ◎施工:村木甚三郎、村木喜三郎 ◎竣工:大正9(1920)年1月 ◎構造:木造モルタル塗り3階建て ◎所在地:函館市末広町15‐3 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 〔函館新聞〕大正10年4月14日夕刊より。記事が2段になっており、すべては掲載できなかったが、事務所の防火を命がけでおこなった組合書記・米田清発氏の勇気を称える内容で記事は締められている。 ![]() 煤だらけになった組合事務所が当日の火災の勢いを物語る。なお右手に見えるのは現在〔和雑貨いろは〕として使われている建物。 ![]() ![]() この建物の外観は、昭和50年代初頭と今から10年ほど前などに改修が施されオリジナルの部分は少ないが、外観で創建当時から使われているのがご覧いただいている扉。大火などの様々な事件を80年以上生き抜いてきた訳である。 ****************************************************** ●図版・・・・〔※2〕「函館新聞」大正10年4月14日夕刊 〔※3〕「建築雑誌」大正10年12月号 ※撮影:2008年7月、2009年3月 ![]() ・・・・・大正10年・函館大火後の復興事業について(その2) 本日も大正10(1921)年4月14日に起きた函館大火で明暗を分けた建物と、その建物の建設に携わった建築家を紹介したい。 前回は延焼寸前、間一髪のところで、その危機から免れた函館海産商同業組合事務所(設計:関根要太郎・山中節冶、大正9年築)を取り上げたが、今回は紹介するのは元町に建つ東本願寺函館別院(大正4年築)。最近では『日本初の鉄筋コンクリート製寺院』として紹介される事が多いが、不燃素材である鉄筋コンクリート製という事で火災の被害を免れ、函館市民に鉄筋コンクリート建築の重要性を認識させた建物だ。 そして、この寺院の施工を手掛けたのは、在京の木田保造(きだやすぞう、1885~1940)という建築家。大正10年の大火を機に函館で更なる活躍を遂げ、この街と深い繋がりを持つことになった人物である。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() この建物に関しては昨年取り上げさせていただいたが、建設の経緯を改めて簡単に紹介すると、明治40(1907)年に起きた大火直後、度重なる大火ごとに本堂を焼失してしまう事に頭を抱えた当時の檀家総代を務めていた3代目・渡辺熊四郎(金森合名会社代表)は、不燃素材での本堂再建を主張。 渡辺は自らの意見を確かめるため東京まで赴き、在京の建築家(東京駅などの設計で知られる明治建築界の大家・辰野金吾といわれている)に意見を聞き、このころ最新の建築素材であった鉄筋コンクリートでの寺院再建を決断。そして東本願寺・西本願寺の寺院造営を多く手掛けていた9世・伊藤平左衛門の設計により、明治45(1912)年から寺院の造営が開始されるのだが、この施工を当時27歳だった木田保造が担当することになった。 またこれ以降の建設に関する苦労話はご存じの方もいらっしゃると思うが、建設まもなく同寺院の信徒から『不浄極まる地面から取ったもので本尊を祀るのはいかがわしい!』や、『大屋根をそんなもので支えられるのか!』などの反対意見が殺到し、建設資金に充てる予定だった地元信徒の寄付が集まらなくなるという事態が発生。そこで施工者である木田と檀家総代の渡辺は、様々なパフォーマンスをおこない、鉄筋コンクリートの安全性を確認させ、着工から3年の歳月が建った大正4(1915)年に、京都・東本願寺の阿弥陀堂を模した鉄筋コンクリート製の大伽藍を完成させた訳である。 これは以前にも何度か紹介させていただいたが、明治40年に起きた函館大火以降に地元の有力商人により建てられた建造物というのは、大きく分けて二つのパターンに分かれる。 まず最初が〔火災など諦めて今を謳歌しよう派〕。気の利いた言い回しが思いつかなくて申し訳ないが、代表的な例をとると元町の旧函館区公会堂(明治43年築)など、下見板の木造建築を積極的に建てる傾向が明治40年の大火以降多くみられた。これに関しては様々な背景が考えられるが、この時の大火で明治初頭に開拓使が耐火建築として奨励した煉瓦建築の大半が、炎上・倒壊してしまった事が大きな要因として挙げられるのではないかと思う。『火災が起きたら自然の猛威には逆らうできない、荷物を纏めてさあ逃げなさい・・・・・』、といった感じだったのだろうか。 そして2番目が〔今回の反省をもとに耐火建築を更に追求しよう派〕。こちらは東本願寺函館別院の建設を推進させた3代目・渡辺熊四郎がそれにあたる。但し、東本願寺のような鉄筋コンクリート製の建築は函館では後続が殆んど現れず、渡辺が経営する金森関連の建物(木田保造が施工を担当)や、岡田健蔵が館長を務めていた青柳町の函館市立図書館・書庫(大正5年築)くらいであった。 恐らく不燃素材である鉄筋コンクリートへの認識がまだ低かったのだろうが、公会堂をはじめ木造建築の建設を推進したのが、幕末より函館の豪商として君臨し続けた相馬哲平。そして鉄筋コンクリート建設を推進したのが、3代目・渡辺熊四郎や岡田健蔵など、大正半ばから函館のリーダー的存在として活躍した人物だった事はとても興味深い。 さて大正4年の寺院の建立以降も、奇妙な建物として地元の人達から見られていたであろう東本願寺函館別院。しかし大正10年の大火では、周辺地域の建物の殆んどが焼失してしまったなか、この寺院はほぼ無傷で一面焼け野原になった函館に生き残っていた。この事実が函館の人達に、耐火建築である鉄筋コンクリートの重要性を痛感させる出来事だったのではないかと私は考える。 そしてこれを機に、同寺院の施工を手掛けた木田保造に対する信用は函館で広まり、これ以降この街の数々の建築施工を手掛ける事になるのだ。東本願寺建立より6年後の少し遅い評価であった。また木田が大正10年の函館大火以降に同地で設計・施工を手掛けた建物は、後日改めて紹介していきたい。 また次回は、大正10年の函館大火直後におこなわれた、建築家・関根要太郎の耐火建築に関する講演会を紹介する予定だ。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() ◎設計:九世伊藤平左衛門 ◎施工:木田保造、十世伊藤平左衛門 ◎竣工:大正4(1915)年 ◎構造:鉄筋コンクリート製平屋 ◎所在地:函館市元町16‐15 ![]() 鉄筋コンクリート製でありながら、細部はモルタル塗りで木造寺院を忠実に再現している。なお京都の東本願寺・阿弥陀堂が函館別院のモデルになったようだ。扉はすべて鉄製。 少し余談になるが、外観は和風なのだが内部の鉄筋はアメリカ製。またこのすぐ上に建つロシア正教のハリストス正教会は地元産の煉瓦が使われていたり、建材に関しても多国籍な函館・元町なのである。 ![]() 門や塀も鉄筋コンクリート製の完全防備。 また本堂以外の周辺施設は大正5年に竣工したもの。 ![]() 坂下のほうにある鐘楼も鉄筋コンクリート製。なお大正10年・昭和9年の大火とも、二十間の広さがあるこの坂により火災の類焼がくい止められている。 ![]() こちらはハリストス正教会の前庭より。大正10年の大火では東本願寺の本堂が坂下から迫っていた火災をガードしたため、建物坂上の敷地は火災焼失の難を免れている。 ![]() 西村好時・関根要太郎・森田慶一により発表された『函館大火調査報告』より。ちなみに現在カールレーモンやかふぇ・やまじょう等が建つ寺院前はこの火災で全焼している。 ![]() 火災翌月にあたる大正10年5月、〔函館毎日新聞〕に掲載されたもの。 この大火以前に木田が施工を手掛けた建造物というと、ベイエリアの金森34番倉庫が現存する。また広告には紹介されていないが、関根要太郎の函館の初設計作品である不動貯金銀行函館支店(大正7年築、現存せず)も木田が施工を担当している。 ****************************************************** ※図版→〔※3〕・・・・・『建築雑誌』大正10年12月号 〔※4〕・・・・・『函館毎日新聞』5月14日朝刊 ※撮影・・・・2007年3月、2008年2月、2009年6月 ![]() ・・・・・大正10年・函館大火後の復興事業について(その3) 先日から始めさせていただいている、函館で大正10(1921)年4月14日に発生した大火後の復興事業についての考察。 前回・前々回は、このときの火災で函館市民に耐火建築の重要性を認識させた東本願寺函館別院(大正4年竣工、施工:木田保造)と、木造モルタル塗りの準防火建築ということで辛くも火災の被害を免れた函館海産商同業組合事務所(大正9年築、設計:関根要太郎・山中節治)を紹介させていただいた。そして今回からは、その後の復興事業・都市計画などを中心に話を進めていきたいと思っている。 これはご存じの方も多くいらっしゃると思うが、函館は街の両岸を海に面している地形という事もあり、十数年に一度の割合で街の大半を焼く火災が発生している。そのたびに防火対策については街の有力者や函館の議会では検討されてはきたものの、具体的な対策の導入までには至らず大正10年の大火発生まで至っていた。 しかし大正10年大火後のこの街の大火防止に関する取り組みは、これまでとは違う積極的な行動がとられる事になった。まず火災発生の6日後にあたる大正10年4月20日には、日本初の鉄筋コンクリート製寺院・東本願寺函館別院の建設を推進させた金森(渡辺合名会社)代表・3代目渡辺熊四郎が先頭となり、冒頭の写真でご覧いただいた元町の函館区公会堂にて協議会が催された。この時の出席者が百人以上ということからも、耐火都市建設へに実現に対する当時の函館市民の関心の深さが伺える。 そしてこの協議会では、地元函館の有力商人や地主などを中心に、十数人のメンバーからなる〔火防設備実行会〕が選定された。会長には函館商業界の重鎮・相馬哲平を置いたが(まもなく相馬は病に倒れ、同年6月に逝去)、実質的なメンバーは当時函館図書館の館長でこののち函館市議などを務める岡田健蔵、そして函館の有力地主でやはりこの数年後より函館市議を務める泉泰三などだったようだ。少し余談になるが、この岡田・泉は大正末から昭和初期の函館の政治・文化などを支え、これ以降の函館のニューリーダー的存在になった人物でもある。 また火災後の地元紙〔函館毎日新聞〕、〔函館新聞〕を見ると、この火防設備実行会の決断の早さには正直なところ驚かされる。委員会結成の2日後にあたる大正10年4月22日には、火防施設に関する骨子案が決定。この案は消火施設の充実、防火対策のための道路の拡張のほか、大規模商店・銀行などへの不燃質(鉄筋コンクリート)建築の義務化、そして防火壁を目的とした防火建築群(現在の函館銀座通り)の設置、防火建築建設への補助金支給などが復興事業の具体案としてあげられている。 当時の新聞記事を見ると、この火災発生直後も耐火建築としての鉄筋コンクリート建築へ疑問を抱く意見も寄せられている。しかし火防委員会の中心メンバーである3代目渡辺熊四郎は東本願寺函館別院の建設推進者、岡田健蔵は青柳町の函館図書館書庫を大正5年に鉄筋コンクリートで建設した人物、そして泉泰三はこれより2年後に元町南部坂の自邸を鉄筋コンクリートで建設(設計は関根要太郎、山中節治兄弟)するなど、鉄筋コンクリート製建築をこの街の新たなる活路として見い出していた事は確かなようだ。 そして火防設備委員会は、函館区民に防火建築の重要性を訴えるため、大正10年5月1日、函館区公会堂の2階大広間にて〔火防実行区民大会〕催すことになった。そしてこの大会の講演者の一人として、建築家・関根要太郎(1889~1959)が登場することになるのだ。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 〔火防実行区民大会〕開催を知らせる当時の新聞記事によると、当初の講演予定者は西岡助役(函館区)、梶沼(函館)測候所署長、松本(函館)警察署長、函館区技師の小野基樹の4人。しかし小野が欠席する事になり、急遽ピンチヒッターとして関根要太郎に講演依頼が舞い込んだようだ。 関根はこのとき、元町・基坂の中程に自らの設計による函館区立病院外来診療棟の建設が開始されてまもなくの時期で、函館に長期滞在していたようだ。このころ日本建築学会の要請で函館大火後の被害状況を調査していた事や、既に函館の要人らと人脈ができていた事などから、講演会のピンチヒッターの役が回ってきたと考えられる。 会場は公会堂2階の大広間。当時の新聞記事には出席者の数については記されていないが、恐らく大勢の人がこの講演会に詰めかけていた事が想像できる。当時の新聞記事によると主催者である3代目渡辺熊四郎の挨拶に続き、区助役・警察署長・測候署長の講演がおこなわれ、最後に関根の出番が回ってきたようだ。 関根は眼下に自らの設計により建設中の函館病院を望みながら講演をおこなった訳だが、その内容はかなり毒舌に近いものであった。当時の講演内容を伝える〔函館毎日新聞〕の記事をこの下に掲載したので、詳しくはそちらを参照していただきたい。 関根の講演会での大筋の主張は、大正10年大火以前に度重なる函館での火災発生に対し諦めたかのように建てられた木造建築への問題提議だったのだが、もう一つの地元紙〔函館新聞〕では関根の発言の一部が、『函館人は都市生活の責任観念なしと冒頭して、木造都市は不合理・不自然にして都市の価値なきものなりと高唱』、『珍奇なる建造物の多きは函館の恥辱である』など、若干誇張されスキャンダラスに報じられることになった。当時31歳だった関根、大観衆に緊張して口がすべったか、ただ単に鼻高々だったのかは知る由もないが、函館のこれまで抱えていた問題を少し毒舌ではあったが見事なまでに指摘した訳である。しかしその発言は、あまりにもストレート過ぎた・・・・・。 関根の講演会での主張は過激ではあったが、この大火を機に関根は元町の亀井喜一郎邸(大正10年築)、末広町のイチヤマ商店(大正11年築)、船見町の爾見淳太郎邸(大正11年築、現存せず)、元町・南部坂の泉泰三邸(大正12年築、現存せず)など函館で数々の設計を手掛けている事を考えると、多くの函館市民が関根の意見に同意したのではないかと私は想像する。そして当時の函館は官民問わず、不燃都市実現という一つの目的に向かって邁進していたのではないかとも思えてくるのだ。 今回は後半に関根の講演会を紹介して少しお茶を濁してしまったが、次回からは銀座通りや末広町に建設されたコンクリート建築群、そして廉価で建設可能な鉄筋コンクリートブロック建築を函館に普及させた建築家・中村鎮(1890~1933)の活動などを紹介していく予定だ。 ![]() 〔函館毎日新聞〕大正10年5月3日の記事より。誤植なのか〔関根要次郎〕になっているが、関根要太郎本人であることは確かなようだ。 『相当入念な建て方であったも、とても燃え易く出来ているのだから可笑しい』と関根は発言しているが、講演会場である公会堂がその代表的な建築だったというのも皮肉だ・・・・。 なお画面部分をクリックしていただくと、大きな画像にてご覧になれます。 ![]() -------------------------------------------------------------------------- ![]() ◎設計:小西朝次郎(函館区技師) ◎施工:村木甚三郎 ◎竣工:明治43(1910)年 ◎構造:木造2階建て ◎所在地:函館市元町11‐13 ![]() 創建当時を参考にして再現されたもの。明治末の建築ということもあり、少しアールヌーヴォー調のデザイン。 ![]() こちらもアールヌーヴォー調のタイル。輸入品なのだろうか・・・・?。 ![]() 大正10年時の外壁は現在と同じ色に塗られていたそうだが、これから間もなく別の色に変更されている。 ![]() 旧函館区公会堂の施工を手掛けた村木甚三郎(1848~1924)、喜三郎(1882~1928)親子による〔村木建築部〕の広告。 父・甚三郎は幕末以来、函館で活躍した棟梁として知られるが、この頃は高齢であったため息子の喜三郎が実務を取り仕切っていたようだ。村木の施工は大火前だと函館図書館の書庫、大手町ハウス 、函館海産商同業組合事務所などが判明しているが、大火後の施工作品は残念ながら不明。現存するこの当時に建てられた鉄筋コンクリート建築の何軒かは、村木施工の可能性も考えられる。 ****************************************************** 〔※5〕・・・・・「函館毎日新聞」大正10年5月3日、 〔※6〕・・・・・「 〃 」 〃 4月23日 ※参考資料・文献・・・・「函館市史・通説編3」、「函館新聞」、「函館毎日新聞」 ※撮影・・・・・2006年6月、2008年2月・7月、2009年6月 ![]() まず冒頭の写真でご覧いただいた建物は、末広町の二十間坂下にある旧目貫商店。市電通りに面して建っているこのピンク色のビル、函館に訪れたことのある方や、この街にお住まいの方も見覚えがあると思った方も多いかも知れない。 道幅が広く綺麗に整備された二十間坂にピンク色に塗られた外壁が美しく映えるこの建物、今から八十数年前の大正10(1921)年12月に、目貫商店という国内外の食料品を取り扱う商店のビルディングとして建てられたものだ。この旧目貫商店、これといって目を引く派手なデザインも施されておらず、明るく塗られたピンク色の塗装を除けば、無骨で地味な建物だが、函館の建築史を語る上でとても重要な作品なのである。 何故この地味なビルが、函館の建築史を語る上で重要な建物かというと、大正10年の函館大火後に函館市民のために、廉価で建てられる鉄筋コンクリートブロック工法の建造物を同地で多く普及させた建築家・中村鎮(なかむらまもる、1890~1933)設計・施工による貴重な現存作品の一つだからだ。 中村は大正10年函館大火発生直前に同地に赴き、このときの大火に遭遇。そして大火発生後は、防火目的のコンクリート建築を普及させようとしていた函館市関係者および一般庶民のために、中村自身が開発した鉄筋コンクリートブロック工法を推奨し、大火発生年にあたる大正10年から同12年にかけて、函館に20数軒の鉄筋コンクリートブロック建築の設計・施工をおこない、大正10年函館大火後の復興事業に大きく貢献した人物である。 そういう事で今回から3回にわたり、中村鎮の函館における活動を紹介する予定だが、中村の現存する作品の特定や、当時の資料収集が十分とはいえず、不足な部分が多いことを最初にお断りしたい。まず今回は中村が函館大火と遭遇した直後までについて紹介してきたいと思う。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() まず最初に中村鎮の函館来訪に至るまでの簡単な経緯を紹介したい(経歴は中村鎮の死後発表された『中村鎮遺稿』を参照させていただいた)。 中村は明治23年12月福岡県糸島郡波多江村に生まれ、同41年福岡県因幡町私立中学校研成校を卒業。その直後、台湾に渡り土木局に勤務するが、1年余りで退職。また退職を機に上京した中村は、明治43年4月に当時開設されてまもない早稲田大学理工科の建築科に入学。大正3年の卒業後は早稲田大学時代の恩師・佐藤功一(早稲田の大隈講堂や東京・日比谷公会堂の設計などで知られる建築家)の仕事を手伝いながら、陸軍技師をはじめ東洋コンクリート工業株式会社に勤務。また大正8年には日本セメント工業株式会社に入社し、同社の技師長を務めている。 また中村はこの頃、のちに特許を取得する『中村式鉄筋コンクリートブロック工法』を開発。大正9(1920)年には東京・日比谷に建築相談所を開設させ、東京と神奈川の工場の設計・施工を担当した。そして同年に自らの設計事務所を開設してまもない中村に、ひとつの大仕事が舞い込む。それは当時海産景気に沸いていた函館の劇場・活動映画館〔錦輝館〕の設計だった。 なぜ中村が、恐らく縁がなかったと思われる函館で設計の仕事を引き受けた経緯は不明だが、まもなく30歳になろうとしていた駆け出しの建築家であった中村にとっては、期待膨らむ新開地での仕事だった事は確かなようだ。 この〔錦輝館〕は地元の方によると、現在の宝来町・護国神社坂下にあった映画館だったそうだ。戦後は松竹の映画館、その後はスーパーホリタの店舗などとして使われていたそうだが、現在跡地には高層ホテル(JALシティーホテル、現・ちさんグランドホテル)が建ち、当時の面影は偲べない。 私も〔錦輝館〕の建物全体の写真を見たことがなくあまり多くを語れないが、地元の方のお話によると戦後まもなくの函館西部地区を代表する映画館だったそう。大正9年10月から建設が開始されたこの建物は、函館図書館・館長として知られる岡田健蔵の著書によると、九間(約16メートル)柱なしという当時として画期的な建物だったという。但し施工のための技術的な問題があったのだろうか、着工から2年という長い期間を経てようやく竣工している。 そして〔錦輝館〕の着工が開始されて約半年後の大正10年4月14日に、函館西部地区において大火が発生。またこの大火を機に、中村本人も予想だにしなかったであろう、函館での建築活動が始まることになるのだ・・・・・。 ![]() 錦輝館は明治期に開業。広告でご覧いただいた浪曲、活動写真、講演会など様々な目的で使用されていたそう。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() ◎設計:中村鎮 ◎施工:直営 ◎竣工:大正10(1921)年12月 ◎構造:鉄筋コンクリートブロック造り4階建て ◎所在地:函館市末広町17‐15 ![]() 現在は1階にブティックが入居し、華やいだ雰囲気の建物。最近、外壁も再塗装され、輝きを取り戻した。また大正10年大火後、二十間坂下から大三坂下には函館製網船具(ウロコ)本社など数軒の鉄筋コンクリート製のビルディングが建てられたが、現在はこの目貫商店と大三坂下のヱビス商店が残るのみである。 ![]() 毎度の定点撮影地点より。また奥に見えるのは関根要太郎設計の函館海産商同業組合事務所(大正9年築)。大正10年大火後の函館における活動を見ると、中村鎮と関根要太郎はまったく正反対の路線を走ることになる。詳しくはまた後日に解説させていただきたい。 ![]() ****************************************************** 〔※7〕・・・・・・「函館毎日新聞」大正11年11月4日夕刊 〔※8〕・・・・・・「 〃 」大正10年6月14日 ※参考文献・・・・「中村鎮遺稿」、「岡田健蔵先生論集」 ※撮影・・・・・・・・2008年2月・6月、2009年3月・6月・10月 ![]() 前回に引き続き今回も大正10(1921)年4月14日に函館で発生した大火後、同地に廉価で建てられる防火目的の鉄筋コンクリートブロック製建築を数多く設計・施工した建築家・中村鎮(1890~1933)の函館における活動を紹介したい。 この大火後の復興事業は、火災多発地帯の函館において防火建築普及が本格的におこなわれた時期で、同地に防火(耐火)建築を普及させようとしていた当時の函館の政財界人にとっては、廉価で建てられる鉄筋コンクリートブロック工法での復興建築施工を提案した中村は、当時の函館にとって救世主的存在な人物であった。また当時30歳で建築家としてのキャリアをスタートさせたばかりの中村にとっても、ここ函館での活動は、自らが開発した鉄筋コンクリートブロック工法普及の手ごたえを掴んだ土地であり、この後の建築家活動における自らの位置づけを確認した場所なのではないかと私は考える。 そういう事で、先日は中村が函館に来るまでの簡単な経緯を紹介したが、本日はこの大火後の函館の復興計画なども併せて紹介していきたい。今回も調査が十分とはいえず不足な点も多いが、当時の限られた資料をもとに中村の函館における活動を簡単ながら追っていきたい。 ------------------------------------------------------------------------- ![]() まず大正10年大火後の函館における復興事業についてだが、前々回でも紹介したように、同地での計画立案は火災鎮火直後より早々とおこなわれた。 火災発生の1週間後にあたる大正10年4月20日には、函館の財界人や有力者などが中心となった〔火防設備実行会〕という委員会が結成。またその2日後にはこの委員会により、防火目的のための道路の拡張、消防設備の充実などとともに、火災発生時の防火壁を目的とした耐火建築群の建設といった骨子案が纏め上げられている。そしてこのときの復興計画の目玉は、やはり耐火建築群の建設計画であろう。 これも以前に紹介させていただいたが、火防設備実行会の中心メンバーは明治40(1907)年大火後、東本願寺函館別院を鉄筋コンクリート製建築での再建を推進した金森(渡辺合名会社)代表の三代目・渡辺熊四郎など、耐火としての鉄筋コンクリート建築に早くから着目していた人物が中心となり委員会が組織されていた事が大きな要因としてあげられる。 また当時の委員会は、この時の火災が現在の末広町・宝来町などの商業地域(坂下)から、坂上の住宅地に燃え広がったことなどを考慮し、坂下の商業地域に耐火建築群を壁のように建設すれば、火災最小限で防ぐことが出来ると考えたようである。現在の銀座通りや、現存するものは少ないが十字街電停から末広町・大三坂下までの建物がそれにあたる。 時は関東大震災の起きる2年前。昭和9年の大火ではこれまでの想像を超える猛火のため、大正10年大火後に建てられた建築群の殆どがなす術もなく焼けてしまったが、この当時としては非常に画期的な都市計画だったのではないかと思う。 また火防設備実行会が纏め上げた骨子案は5月初旬には、函館の区議会(当時函館は区政をとっていた)を通過。ここで〔家屋建築補助規定〕という防火建築に対する、函館区からの助成金支給・低金利貸金が決議されることになったのである。 当時の区議資料を未見のため詳しくは説明できないが、この時期の新聞記事や建築家・中村鎮の没後発表された〔中村鎮遺稿〕などを参考にすると、当初函館区(火防設備実行会)は木造建築の約2倍の予算で鉄筋コンクリート建築が作れると試算、その半額を区が補助すればコンクリート建築を施工できると考えたようだ。補助金制度や、火防設備実行会の熱意に共感したのだろうか、5月下旬には15名(事業者)が耐火建築建設に立候補。また東本願寺函館別院の施工を請け負った木田保造(1885~1940)の仲介により、コンクリートが格安に供給される事などが決定し、函館の耐火(コンクリート)建築普及は順調な滑り出しを見せたかのように思われた。 しかしここで大きな落とし穴が待っていた。函館区が試算した予算ではコンクリートの建物は建設できないと、地元の施工業者たちが不満をこぼしたのである・・・・・。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 先ほど紹介したように、函館区の試算ではコンクリート建築は施工できないと、地元の施工業者たちが不満をこぼし、その実施が危ぶまれかけた耐火建築群(防火)の建設。ここで現われたのが、宝来町の映画館〔錦輝館〕の設計・施工のため函館に滞在していた建築家の中村鎮だったのである。 中村は函館区の試算より約1・5倍の額を主張していた地元施工業者に対し、区の試算に近い額で建設が可能な自らが開発した〔中村式鉄筋コンクリートブロック工法〕での建築施工を提案。そして中村は東濱町に臨時の建築事務所を開き、錦輝館と同時に函館の復興建築事業にも参加の意思を示した。 また10年5月30日には、建築技師の今井久夫とともに元町の函館区公会堂において耐火建築の重要性を訴える講演会を開催。中村は『都市発達と建築』という議題で、これまでの函館の無防備な火災に対する建築意識の改善を唱えた(その講演内容は〔函館毎日新聞〕の6月6日・8日・9日の三度に渡り掲載される)。 しかし、東京からやって来た無名の建築家・中村鎮に対する反感もあったようで、この講演会終了まもなくには、中村の寄宿していた東濱町の勝田旅館に中村宛の脅迫状が届くなどの事件も起きたが、中村はそれに臆することなく自らの開発した鉄筋コンクリートブロック建築の利便性を訴える。そして同年7月より、今回写真で紹介させていただいている旧目貫商店を含む16軒の商店建築の施工に着手。そして積雪期間となる12月には、それら全ての建物の工事を完了させるという早業を成し遂げたのである。 また個人的に興味深いと思ったのが、当時の中村の設計作品リストや、函館銀座通りの建築構造の分布表などを見ると、中村が施工を手掛けた建築物は大正10年大火後に建設された耐火建築の中でも比較的小規模なものが多かった事である。恐らく函館区の補助金の範囲内でしか、建設資金を捻出できなかった事業主や個人が中村を頼ったのではないかと私は想像する。 例えば同時期に函館で活躍した建築家・関根要太郎(1889~1959)と比較すると、関根は大正10年の函館大火を機に、この街の資産階級ともいうべき施主相手の建築設計を手掛けていたのに対し、中村は庶民階級に向けた建築普及を考え、この時期にそれを実践していたというのは称賛に値するのではないかと思う。また中村は来函以前これといった実績はなかった事を考えると、中村の熱意を情熱を認めた当時の函館の人たちも称賛できるのではないだろうか。 そして次回は中村鎮の活動報告の後編として、中村設計と思われる建造物、そして中村の影響下にある建造物、そして中村と函館の活動を共にした建築家を紹介していきたい。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 東濱の勝田旅館は八幡坂下、現在のウイニングホテル所有の敷地内にあった。当時は商人宿として賑わっていたようだ。 ![]() ![]() 大正10年9月に〔函館毎日新聞〕に掲載されたもの。 早稲田大学の恩師・建築家の佐藤功一(1878~1941、早稲田大隈講堂の設計者)の名が顧問として記載されている。 ****************************************************** ◆図版・・・・・〔※9〕→「函館毎日新聞」大正10年5月31日、夕刊 〔※10〕→「 〃 」 〃 9月13日 ※参考文献・資料・・・・「中村鎮遺稿」、「岡田健蔵先生論集」、「函館市史・通説編、第三巻」、「函館毎日新聞」、「函館新聞」 ![]() 本日も前回に引き続き、大正10年(1921)年4月に発生した函館大火後、廉価で建設が可能な鉄筋コンクリートブロック工法を用い、同地にて耐火建築を広く普及させた建築家・中村鎮(1890~1933)の活動を紹介していきたい。 前2回と内容が重複してしまうが、中村は宝来町に建設されることになった〔錦輝館〕の設計・施工のため大正9年ころに函館へ訪れ、この建設中に大正10年の函館大火と遭遇。またこの大火後、函館の政財界の有力者や区職員は、このとき焼失した区域に火災の類焼を最小限に防ぐことを目的として、防火帯となる鉄筋コンクリート建築群(耐火建築群)を計画したが、予算上の折り合いがつかずこの計画が頓挫しかかった。そしてこのとき函館に滞在していた中村は、低予算・短期間での施工が可能な、中村本人が開発した〔中村式鉄筋コンクリートブロック工法〕での建設を提唱する。また中村に賛同した16名の事業者が、中村に鉄筋コンクリートブロック工法での商店再建を依頼し、中村は大正10年7月よりそれらの建設工事に着手。そして同年暮れには、それらすべての建物を着工から5カ月という短期間で竣工させた。 この大正10年の函館大火直後より、函館区(当時、函館は区政)は耐火建築に建設に対し、補助金および低金利融資などの優遇策を制定し、約60数名の事業者がこの制度を利用してコンクリートや煉瓦などの耐火建築を建設。大火より約1年後には、現在の銀座通りや十字街・末広町などを中心に、当時としては画期的な鉄筋コンクリート建築などの耐火建築群の町並みが完成したのである。また函館区の補助制度を適用して建設された耐火建築の約4分の1が、中村の設計・施工によるものであった。 そして中村は大正11年、宝来町の銀座通りに〔中村建築研究所〕の函館出張所を開設。 同年から翌年にかけて宝来町の商店3棟、地蔵町と相生町の交番2棟、現在の豊川町にあった函館区役所の車庫(この建物は昭和9年の大火で焼失)、東川町の西本願寺の庫裡・塀などの関連施設の設計を手掛けるが、これを最後に函館での活動を休止している。 恐らく大正10年の函館大火後におこなわれた復興事業がとりあえず落ち着いたことや、中村自身が函館での成功をもとに、自らの開発した鉄筋コンクリートブロック建築を更に全国各地に普及させようという新たな目標が生まれたのではないかと思う。 これ以降、中村は昭和8(1933)年8月に42歳という若さで亡くなるまで、北は札幌から南は沖縄まで鉄筋コンクリートブロック建築の普及に従事し続けた。また中村は熱心なカトリック信者だったそうで、私には建築による生活向上という、建築家・中村鎮が自らに課せたにある種の布教活動だったのではないかと思えてきてしまうのだ。 以前、中村鎮の死後発表された〔中村鎮遺稿〕を読んでいたら、中村による以下の文章と出会った。この文章をはじめて読んだとき、思わず胸をうたれてしまった。 『私は呼びかける、建築経済の問題。建築費廉価の問題こそは現代建築界の最大の問題であること。そして若い建築家達が単に美しく大きく、値高き建築をなすことを憧れる夢より覚めて、この旗の下にに集られ以てこの切実な問題の解決に当たられん事を。 建築経済の問題、その廉価の研究の如きは決して華々しいものではない。否寧ろ泥まみれセメントまみれの苦しい研究である。この所に於いて従来のアーキテクト気どりの殿様建築家の興味を引かないかも知れない。そしてまた若い夢を見る都会的青年建築家に対して魅力の少ないものに見えるかも知れない。もし今後の建築家は決してそうしたドンキホーテであってはならない・・・・。』 昭和9年3月に起きた函館大火では、中村が設計・施工を手掛けた鉄筋コンクリートブロック建築の多くは、当日の猛火のため炎上・倒壊してしまったというが、大正10年の中村の活躍は函館図書館の館長・岡田健蔵の著書などで紹介され、後世で評価される切っ掛けを作ったのではないかと思う。当時、中村鎮は駆け出しの無名な建築家であったが、その主張を聞きいれ実行に移し、正当な評価を下す函館の気風が、中村の建築家活動における原点を形成したのではないかと私は考える。 また次回は中村が函館に残した遺産ともいうべき建造物と、函館で中村と共に活動をおこなった建築家について紹介していきたい。 ******************************************************* ![]() 中村鎮が函館において設計をおこなった建造物は20数軒。主に銀座通りなどに建設されたようである。私の調査不足のため、上の写真でご覧いただいている末広町の旧目貫商店以外の建物は特定しずらいが、昭和55年に日本建築学会より刊行された〔近代建築総覧〕を参考に、中村設計と思われる建物を何軒かピックアップしてみた。また間違い等があれば、ご指摘いただければ幸いです。 ![]() 現在の江口眼科の向いにあったカフェー。末広町に現存する旧目貫商店と似たデザインである。この背後に写る何軒かの建物も中村設計によるものと思われる。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 写真手前2軒の建物が中村設計と思われる建物。なお写真奥の白い建物はかっての銭湯で、現在美容院〔あみん〕として再生利用されている。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() 銀座通りと祇園通り(かっての市電通り)の角にある建物。 近年、外壁が改修され雰囲気がかなり変わった。 ![]() -------------------------------------------------------------------------- ![]() こちらは銀座通りと高砂通り(バス通り)の角にある建物。竣工当時からのものかは不明だが、カーブを描いた破風とその下の装飾が美しい。 ![]() ------------------------------------------------------------------------- ![]() 写真右手の建物がワインバー〔ル・コントワール〕。以前こちらのお店にお邪魔したとき、店内の壁にブロックらしき跡が微かに見え、この建物も中村設計作品ではないかと興味を抱いていたが、数年前新しいお店に建て替えられ謎は判明しないまま終わってしまった。 また中央の建物も鉄筋コンクリートブロック製で、中村の設計によるもの。残念ながらこちらも既に解体されている。なお写真左手に写る小野寺住建のビルは今も健在。 ****************************************************** 図版〔※11〕・・・・・「大正12~13年ころ発行の観光用絵葉書」筆者所蔵 撮影:2002年6月、2003年6月、2003年11月、2007年3月、2008年2月・6月・7月 ※参考文献・・・・「中村鎮遺稿」、「函館毎日新聞」、「近代建築総覧」ほか ![]() 先日から始めさせていた、建築家・中村鎮(1890~1933)の函館における活動報告。 これまで紹介してきたように、中村は大正10(1921)年4月の函館大火発生後、同地において低予算で建設が可能な自ら開発した〔中村式鉄筋コンクリートブロック工法〕を用い、数多くの建造物を設計・施工。この大火後、防火壁となる耐火建築群の建設を目指していた函館の行政・地元関係者にとっては救世主的な存在であり、大正10年大火後におこなわれた復興事業を辿ってみると、最大の功労者というべき人物の一人である。 前回紹介したように中村の函館における活動期間は、来函の切っ掛けとなった宝来町の映画館〔錦輝館〕の工事が開始された大正9年から、大正10年大火の復興事業が一段落した同12年までの約4年。例えば函館で同時期に活躍した建築家・関根要太郎(1889~1959)、木田保造(1885~1940)のように長きにわたりこの街と関わっていた訳ではない。しかし中村が残した遺産というものは、ここ函館でその後も受け継がれていったと私は考える。 今回は本題である大正10年函館大火の復興事業から話が逸れてしまうが、中村鎮が開発した鉄筋コンクリートブロック工法にて建設された建物、また中村と共に函館で活動した建築家の設計作品を紹介していきたい。 -------------------------------------------------------------------------- ![]() まず最初に紹介させていただくのは、大町の弥生坂下にあった旧函館西警察署。 函館一の海産商で地元のリーダ的存在の一人であった小熊幸一郎と、日魯漁業の創業者である堤清六からの多額の寄付により、大正15(1926)年に函館水上警察署として竣工したもの。実を言うとこの建物は、〔中村式コンクリートブロック工法〕で施工されたものなのである。 低予算での建設が可能な〔中村式鉄筋コンクリートブロック工法〕は、中村鎮が函館を去った後も地元の関係者には注目されていたようだ。例えば、以前弥生小学校の記事で紹介した、大正12年に函館市議会を賑わせる事になる、旧函館市立谷地頭小学校・校舎の建設問題が代表的なものとして挙げられる。 この問題は、谷地頭小学校を木造校舎での建設計画を進めていた函館市に対し、当時の函館市議で函館図書館の館長として知られる岡田健蔵が耐火素材での校舎建設を訴えたもの。岡田はこの問題に関し書籍まで出版する熱の入れようで、この校舎建設案の一つとして中村式のコンクリートブロック工法(耐火素材)での施工を提案している。 結局、熱意にあふれた岡田の主張は受け入れられず、谷地頭小学校の校舎は木造で建設されてしまうのだが、中村鎮の函館における活動が、岡田健蔵をはじめとする函館の市関係者に耐火素材としてのコンクリート建築の存在をより身近なものにさせたとも考えられなくもない。 そして大町の旧西警察署、小熊幸一郎、堤清六による5万円の寄付により建設される事になったのだが、同時期に建設された他の建物と比較すると予算的に若干少ないように思われる。予算面の問題などから施工関係者が頼ったのが、低予算で建設が可能な〔中村式コンクリートブロック工法〕だったのではないかと思う。 ちなみに警察署の竣工を伝える当時の新聞記事には、設計者として埴原欽次郎なる人物の名が紹介されている。この埴原、前々回の記事で紹介した中村鎮によるコンクリートブロック工法の新聞広告には、事務所の理事・法学士としてこの名が記載されているのだ。法学士で建築家だったのかは現段階では謎が解けないが、恐らく中村式鉄筋ブロック工法での施工の代表者として、埴原が設計者として紹介されたのではないかと私は想像する。 残念ながらこの建物は2006年に解体。翌年この跡地には、旧建物を模した〔函館臨海研究所〕が竣工しているが、こちらは通常の鉄筋コンクリート製だ。なお2階には、中村式コンクリートブロック工法の前建物の部材が展示されている。 ![]() ◎設計:埴原欽次郎 ◎竣工:大正15(1926)年11月 ◎構造:鉄筋コンクリートブロック造り2階建て ◎旧所在地:函館市大町13‐1 ![]() -------------------------------------------------------------------------- ![]() そして大正10年の函館大火後、中村鎮のもとで活動をしたのが地元出身の岡田哲郎(おかだてつお)という建築家。 岡田は明治33(1901)年に函館で生まれ、函館区立宝尋常小学校を卒業後、当時青柳町にあった区立函館工業補習学校(現在の道立函館工業高校の前身)に入学。また岡田がこの学校に入学してまもなくの大正4(1915)年、学校近くの函館公園内に函館図書館書庫が東京駅の設計などで知られる辰野金吾が所長をつとめる〔辰野葛西建築事務所〕の設計により建設される事になり、岡田哲郎は学校を代表して建設現場の助手として参加する。 この書庫は同図書館・館長をつとめていた岡田健蔵のアイディアにより、当時最先端の技術だった鉄筋コンクリートで建設されたもので、施工は幕末以来函館で活躍していた村木甚三郎とその息子・喜三郎が請け負ったものである。 またこの鉄筋コンクリート製書庫は大正5年に竣工したが、助手として参加していた当時15歳の岡田は、現場監督を務めていた〔辰野葛西建築事務所〕の所員・塚本慶十郎に見込まれ、塚本とともに上京。また上京後、岡田は塚本の家に寄宿しながら、昼は辰野事務所の現場の所員、夜は工手学校(現在の工学院大学)に通う。しかし岡田の身元を引き受けていた塚本が渡米することになり、志半ばで函館へ帰郷している。 そして岡田が帰郷してまもなくの大正10年、函館で大火が発生。この大火直後、鉄筋コンクリートブロック建築の施工に取り掛かろうとしていた中村鎮の助手として、函館図書館長・岡田健蔵の推薦により、当時二十歳の岡田哲郎が参加する事になった。中村と岡田の活動期間は短かったようだが、岡田にとって中村との活動は影響の大きいものだったようである。個人的にそれを実感したのが、昭和19(1944)年、当時43歳の岡田が発表した著書〔建築の美〕の著者紹介の一文。 「函館市に生まれる。学歴なし。中村鎮氏に師事す。爾来建築作品及び評論を屡々発表す。」 中村鎮は合理的建築の追求者である反面、美術方面の造詣も深かったそうで、当時の建築雑誌には建築の美術的要素に関する評論を数々発表しており、このような中村の建築・美術に対する姿勢が、岡田の著書に「中村鎮氏に師事す・・・」という一文を書かせたのではないかと私は想像する。当時二十歳そこそこだった岡田にとって中村との共同作業の日々は、この著書を発表するまでの生涯においてかけがいのない時間だったのではないかと、この短い一文を読み想像してしまった。 昭和6(1931)年に岡田は自らの設計事務所を開設。中小の住宅や旅館など数多くの建築設計を手掛けると同時に、建築評論なども発表。また戦後は、丹下健三らとともに〔新制作協会〕を結成し戦後まもなくの建築美術運動を盛り上げると共に、その後は和光大学芸術学部教授などをつとめ、勲四等旭日小授章を受賞している。 そして岡田の函館における設計作品が、上の写真でご覧いただいた〔石川啄木一族の墓〕。恐らくこの他にも函館に設計作品が現存していると思われるが、調査不足のため現段階で私が知る函館の岡田作品はこれだけである。 岡田哲郎について函館ではあまり知られていないようだが、郷里・函館の復興の寄与した建築家の一人として忘れていはならない人物だと思う。中村鎮との出会いが、岡田哲郎という建築家の生涯に大きな影響を与えたと思えてきてしまうのだ。岡田哲郎については以降も調査を続けていきたい。 ![]() 数年前、古書店で「函館に生まれる。学歴なし。中村鎮氏に師事す。」という一文を読み購入したもの。岡田は昭和初期に地元紙〔函館毎日新聞〕において、地元函館の建築評論などもおこなっている。 ![]() ◎設計:岡田哲郎 ◎建立:大正15(1926)年 ◎所在地:函館市住吉町16・市営墓地内 ![]() この角度から見る大森浜はいつ見ても美しい。 ****************************************************** ※今回をもちまして、建築家・中村鎮の函館における活動紹介を終了させていただきます。 またこの他に中村鎮の設計作品:東京文京区の弓町本郷教会、群馬県前橋市の橋林寺も紹介しております。宜しければこちらも併せてご覧ください。 --------------------------------------------------------------------- ※参考文献・・・・「岡田健蔵論集」昭和44年、「新建築、昭和56年12月号臨時増刊・日本の建築家」、「函館毎日新聞」 ※図版・・・・・〔※12〕→「建築の美」岡田哲郎著、昭和19年刊、筆者所蔵 ※撮影・・・・・1998年6月、2001年3月、2003年11月、2008年2月・7月 ![]() ・・・・・大正10年函館大火後の復興事業について(その7) 前回は大正10(1921)年函館大火後の復興事業に尽力した建築家・中村鎮(1890~1933)の函館における活動と、函館以外に現存する設計作品を紹介したが、今回からは当時竣工した復興建築の数々を紹介していきたい。そういう事で本日からはその第一弾として、現在の末広町・豊川町・宝来町の通称〔銀座通り〕に当時竣工し今も現存している建造物を取り上げていこうと思う。 この銀座通りの建築群は、建築家・中村鎮の活動報告の中でも少し触れたが、大正10年大火後に函館の政財界の有力者や地主などが中心となり結成された〔火防実行委員会〕により立案されたもの。これは鉄筋コンクリートをはじめとする耐火建築群を形成することにより、火災の類焼を最小限でくい止めようという目的で計画されたもので、耐火建築の建設にあたっては函館区による助成金や低金利の融資などの補助制度が適用された。 そして鉄筋コンクリート、鉄筋コンクリートブロック、煉瓦造りなどの耐火素材による復興建築の殆どが、大火が発生した大正10年から翌11年に竣工するという、驚異的なスピードでこの街並みは形成された。恐らく〔火防実行委員会〕や、当時函館で活躍していた中村鎮、関根要太郎(1889~1959)、木田保造(1885~1940)など、多くの建築家や技術者による不燃都市実現に対する熱意が市民を動かし、この街並みが造られたのではないかと想像される。当時、鉄筋コンクリート建築は一般庶民にとっては未知の建材であり、これらの建造物を連ねることにより火災の被害を未然に防ぐというのは、国内的に見ても画期的な都市計画だったのではないかと考えられる。 また現在〔銀座通り〕と呼ばれる、この通りの名称たが、大正11年の初頭に当時の商店主たちが新しく出来た防火建築群に俗称を付けようとして考えられたもの。当時の新聞記事〔※a〕によると、当初は「函館の銀座通り」にしたいという願いを込めて一般から通りの名称を募ったようだが、結局この〔銀座通り〕で落ち着いたようである。 そしてこれを機に、銀座通りはカフェーが多く入居する繁華街に発展。そして昭和初頭には〔東京以北最大のカフェー街〕と呼ばれるまでになっている。北洋漁業で繁栄を極めていた函館の象徴ともいえる場所になったのである。 残念ながらこの〔銀座通り〕の耐火建築群は、昭和9(1934)年3月21日から22日にかけて起きた大火では、その猛火の勢いには勝てず多くの建物が内部を焼失した。しかし、復旧可能な建物は修繕が行われ、現在も約20軒ほどの建物が現存している。 そういう事で次回からは函館銀座通りレトロ建築コレクションと題して、大正10年大火後に銀座通りに建てられた建造物(一部昭和9年大火後の建造物も含む)、また銀座通りのレトロな風景などを紹介していきたい。つい通り過ぎてしまうような地味な建物が殆んどだが、よく見るとなかなか味わいのあるものばかり。設計者・施工者に関する記録も残っていない謎の建物も多いが、函館の貴重な遺産の何個かを取り上げてきたい。 ------------------------------------------------------------------------ ◆冒頭の写真:大正期の函館銀座通りを写した絵葉書 〔※13〕 現在の江口眼科付近より津軽海峡方面を見渡したもの。絵葉書右下の〔函館要塞司令部〕の刻印や、スタンプの年号から見て大正10年代に撮影されたものと考えられる。 また右手前の建物は今の江口眼科の病棟が竣工以前、同医院の病棟として使われていたので、ご記憶されている方も多くいらっしゃるかも知れない。またその奥の何軒かの建物は今も健在である。 ![]() こちらは昭和9年大火後のもの。先ほどの写真とは逆に津軽海峡方面より現在のベイエリア赤煉瓦庫方面を写したもの。写真右奥に既に取り壊された市民会館(大正15年築)や、現在空家の旧ホテル中央荘などが確認できる。 ----------------------------------------------------------------------- ★現在の銀座通り(2008年撮影) ![]() ![]() ![]() この時はちょうど映画のロケハンの真っ最中・・・・。 ------------------------------------------------------------------------ ![]() これまで函館大火の記事内で、この大火後の復興事業に参加した中村鎮、木田保造、関根要太郎などの在京の建築家、村木甚三郎・喜三郎親子の地元請負師などを紹介してきたが、もう一人忘れていけないのが、藪越増太郎が代表を務める〔藪越工務所〕の活動。残念ながら大正10年後に建設された復興建築の多くは設計者・施工者が判明していないが、当時の復興建築の施工の何軒かは藪越が関与していた可能性が高い。 そして上の写真は、銀座通りに建てられた藪越の建築事務所が入居していたビルディング。恐らく藪越の直営で施工されたものだろう。またこの後には地元の新聞社〔函館日日新聞〕も、このビルに入居していた。のちに4階建てから3階建てに縮小されたが今も建物は健在で、現在は日研電機の事務所として使われている。 藪越の施工作品は他に、大森町の旧旭中学校(昭和4年築)や新川町の新川小学校(昭和2年築)があったが、いずれも現存しない。〔※b〕。 ![]() ***************************************************** 本文でも紹介しましたが次回から函館銀座通りの建造物紹介を開始します。なお全12回!と長期連載を予定しております。少し長い期間の連載になりそうですが、宜しければ銀座通りの建築ウオッチングにお付き合いください。 ★〔※13〕・・・・筆者所蔵絵葉書より、大正12年ころ・昭和11年ころ発行 〔※14〕・・・・「函館市制実施記念写真帖」円山貞吉編、大正11年刊 〔※15〕・・・・「函館新聞」大正10年5月3日記事より ★〔※a〕・・・・・「函館毎日新聞」大正11年1月14日付け記事より 〔※b〕・・・・・「日本近代建築総覧」日本建築学会・昭和55年より ▼この項で紹介した2枚の絵葉書の拡大図版を下のMoreに掲載しました。もし宜しければこちらもご覧ください。 More ![]() ・・・・・大正10年函館大火後の復興事業について(その8) 当ブログでは今年の9月より大正10年函館大火後の復興事業についてと題し、この大火前後に函館に携わっていた関根要太郎(1889~1959)、木田保造(1885~1940)、中村鎮(1890~1933)の在京の3人の建築家の活動、そしてこの大火後の復興事業の目玉ともいえる函館銀座通りに建てられた耐火建築群を紹介してきた。 これまで解説してきたように、大正10(1921)年大火後に函館でおこなわれた復興事業は、地元政財界人や地主などが中心となり結成された〔火防設備実行委員会〕が中心となり、この委員会のアイディアにより計画が開始されたもの。また函館区は復興建築の建設に当たって、当時最新の技術であった鉄筋コンクリートや鉄筋コンクリートブロックなどの耐火素材での建築施工を奨励。そして大正10年の大火以降、函館の商業地域の建物は、木造建築からコンクリート製などの耐火素材による建築群が街を彩る事になったのである。 また大正10年という時期的にも考えても、関東大震災の2年前。この震災後に東京・横浜でおこなわれた都市改造に比較すれば規模的には小さいものだが、政府などの主導ではない函館の自主的な運営だったことを考えると、とても画期的な都市計画だったといえるだろう。 そして次回からは、大正10年函館大火後におこなわれた復興事業のもう一つとも言うべき、函館十字街電停~末広町近辺に大正10年から12年ころに建てられた耐火建築などを中心に紹介していくつもりだ。ただこの十字街から末広町界隈に当時建てられた建築群の大半は、昭和9(1934)年3月21日から22日に起きた大火で延焼・倒壊したり、その後の再開発により取り壊されたものも多く現存するものは数少ない。数は限られているものの、それらの建物を巡っていきたいと思う。 ------------------------------------------------------------------------- ★冒頭の写真:大正末の末広町を写した絵葉書 〔※a〕 十字街電停方面より。中央に見えるのは旧丸井今井百貨店(大正12年築)。 ![]() 現在の南部坂下より十字街電停を撮影したもの。これらの建物はコンクリート製やモルタル塗りの準防火建築だったと思われるが、昭和9年の大火ではこれらの多くがが延焼・倒壊し姿を消した。 ![]() 1999年4月撮影。まだ市役所新分庁舎(アクロス十字街)が建設される以前のもの。 写真奥に写る塔の付いた建物は、この当時は市役所分庁舎として使われていた旧丸井今井百貨店(大正12年竣工、昭和5年・9年増築)。 また手前の白い建物は、大正10年大火後に建設された旧松下毛皮店。こちらの建物はアクロス十字街ビルの建設に伴い、2001年に解体された。 ![]() 函館末広町のランドマーク的な存在であった5階建て時代の旧丸井今井百貨店。 大正12年、当時函館で活躍していた建築家・木田保造率いる〔木田組〕の設計・施工により3階建てで竣工。竣工から7年後にあたる昭和5年、業務の拡大に伴い木田組により5階建に増築され、昭和9年大火後延焼した店内の修繕とともに、建物裏手を増築。なお昭和40年代に百貨店が五稜郭に移転したのに伴い、建物は市役所分庁舎に転用され数年前まで使われていた。 また数年前、函館市は建物の耐震強度不足を主張し、一部を3階建てに縮小する工事を敢行。その工事後、同建物は〔函館市地域交流まちづくりセンター〕に転用されている。 ![]() 左手のヱビス商会は、大正10年大火後に建設された鉄筋コンクリート製の事務所。 また右手の下見板の木造洋館は、リューリ商会というロシア貿易商の事務所として建てられたもの。明治40年代の築と紹介される事が多いが、大正10年の大火でこの周辺が全焼したことを考えると、大正10年後に建てられた可能性も考えられる。 また大正10年大火後におこなわれた耐火建築施工の事業は、末広町方面ではこの大三坂あたりまでが範囲だった。 ![]() ****************************************************** ★図版・・・・・〔※a〕→当時の観光用絵葉書、筆者所蔵 ★撮影・・・・・1999年4月・8月、2004年1月 ▼なお絵葉書を拡大してご覧になりたい方は下のMoreをクリックしてください・・・・ More < 前のページ次のページ >
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