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![]() ・・・・・かっては銭湯として使われていた大正ハイカラ建築 函館は明治から昭和初期に建てられた歴史的建造物が数多く残る街として知られる。 しかし、その多くの建物は時代の流れに逆らえず、その価値を認められないまま解体されていくものも数多い。例えば10年程前に北海道新聞社から発行された〔函館の建築探訪〕や、地元発行の観光パンフレットなどでは紹介されていない無名の歴史的建造物は、私が函館へ訪れるようになって約10年の間でも、かなりの数のものが姿を消している。 確かに21世紀という現代社会の物差しから見ると、これらの歴史的建造物は古くて使い勝手の悪いものかも知れない。だが、そのような風潮が多勢を占める世の中にあって古い建物を大切にし、現代の需要に合わせこれらの建物を立派に再生させた方も函館には数多くおられる事も忘れてはいけない。 今回紹介させていただく、函館銀座通りにある美容室・あみん(旧美容室・おしゃれ館)も民間の方の力により、昭和61(1986)年に再生された歴史的建造物である。この建物も、これまで紹介してきた函館銀座通りの歴史的建造物と同様、大正10(1921)年4月に起きた函館大火後の復興事業の一環として、その直後に造られた耐火素材の建造物。もとは〔衛星湯〕という銭湯として使われていたもので、銀座通りに現存する建物では数少ない煉瓦製建築である。 これまで紹介してきたように、大正10年の函館大火後、函館の有力政財界人や地主などが中心となり結成された〔火防設置設備委員会〕は、現在の函館銀座通りや末広町に火災発生時の焼失をくい止める為の耐火建築群の設置を計画。またそれらの建物は、鉄筋コンクリートや建築家・中村鎮(1890~1933)発明の鉄筋コンクリートブロック建築により建てられ、それらの建築施工に際しては函館区(函館の市制施行は大正11年より)から補助金が支給された。この耐火建築の施工に対する補助金支給はコンクリート建築のみならず、煉瓦や土蔵建築も対象となり、大正末まで銀座通りの約2割の建物が煉瓦で造られている。 残念ながら、これらの煉瓦製建築は昭和9(1934)年3月に起きた大火で、殆どが建物内が焼け倒壊もしくは使用不可能になったものが殆どだったそうだが、今回紹介している旧衛生湯(現・美容室あみん)は、その大火のなか火災による倒壊を免れた貴重な建物の一つである。 また建物の意匠は、銀座通りに現存する建物と同様、大正期らしいハイカラな雰囲気が漂う。見ていて楽しくなってしまう、ほのぼのとした雰囲気。竣工当初は建物中央に搭屋が付いていたようだが、それが無くても十分にお洒落な感じがする。 細部装飾に関しては下の写真をご覧いただくとして、この建物で面白いのは1階出入り口にある2連のアーチ型の玄関。実は銭湯という事で、男湯と女湯の入り口になっていたわけである。そして玄関横に付いている西欧の古典建築によく見られるオーダーの装飾、これも竣工当初からのものだそうだが、約20年前に当時かっての銭湯を美容室に改築する際、埋められた壁の中から出てきたものなのだそう。このような昔の部材を大切に再生されているのも、さすがである。 そして私など関東出身の人間からしてみると、銭湯というと和風の城郭や神社を思わせるあの雰囲気なのだが、当時の函館の銭湯主人は洋風でハイカラなものを作ってしまったというのも、この時代の函館らしいような気がしてならない。当時の銀座通りでも、とても目立つ建物だったに違いない。 この建物がある周辺は、高層マンションやホテルなどが建ち、かってのカフェー街の面影は偲べないが、この建物のお陰で味気ない街並みも少し華やいでいるように思える。この旧衛生湯のように、古いものが現在も輝いているのが函館の魅力ではないかと私は考えるのだが・・・・・。 ![]() ◎設計:不詳 ◎施工:不詳 ◎竣工:大正10(1921)年ころ ◎構造:煉瓦造り2階建て ◎所在地:函館市宝来町23‐5 ![]() 中央の弓型のペディメントが建物のデザインに花を添える。 また竣工当初はこの下にアーチ型の窓があったという。細部各所の装飾も美しい。 ![]() ![]() ![]() ![]() こちらも大正10年代に建てられたもの。なおこの2軒、建築家・中村鎮の設計と思われる。 ******************************************************* ★参考文献・・・・・「月刊 はこだでい」平成3年創刊号、〔特集 レトロ函館・銀座通り〕 「建築雑誌」昭和9年6月号、〔函館大火災調査報告〕 ★撮影・・・・・2001年9月、2007年3月、2008年2月・7月 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
あみん、良いですね。 私も好きな建物です。 空に突き出した4本の柱がカッコイイですが、この建物に塔屋まで載っかっていたとは知りませんでした。 ましてや煉瓦造だなんて思いもしませんでしたよ。 esさま、銀座通りでもこの周辺を写した写真があまりないのですが、中央2本の柱のあいだに搭屋が付いていたそうです。
昭和9年大火後は撤去されてしまったようですが、どんな目的に使われていたか気になりますね。 あと煉瓦造りのようですが、木骨なのか詳細は不明です。こういう事も追々調べていきたいなと思っております。
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