by ヨウタロウ研究員 カテゴリ
全体 ☆はじめに ★関根要太郎について ★関根要太郎・設計作品 ★関根要太郎、生誕130年・没後60年 ◆関根要太郎研究@東京 ◆関根要太郎研究@埼玉 ◆山中節治研究@東京・埼玉 ◆山中眞三郎研究@東京・埼玉 ◆関根・山中作品〔函館〕 ◆関根・山中作品〔東京〕 ◆関根・山中作品〔埼玉〕 ◆関根要太郎作品〔戦後〕 ◆関根要太郎作品〔仙台〕 ◆関根要太郎作品〔栃木〕 ◆関根要太郎作品〔横浜〕 ◆関根要太郎作品〔静岡、浜松〕 ◆関根要太郎作品〔金沢〕 ◆関根要太郎作品〔高岡〕 ◆関根要太郎作品〔名古屋〕 ◆関根要太郎作品〔岐阜〕 ◆関根要太郎作品〔京都〕 ◆関根要太郎作品〔大阪〕 ◆関根要太郎作品〔姫路〕 ◆関根要太郎作品〔岡山〕 ◆関根要太郎作品〔下関〕 ◆関根要太郎作品〔四国〕 ◆関根要太郎作品〔福岡〕 ◆関根要太郎作品〔長崎〕 ◆関根要太郎作品〔熊本〕 ◆関根要太郎・関連作品 ■関根要太郎関連資料 ■関根要太郎・著作論文 ------------------- ◇関根要太郎研究@函館 1‐関根要太郎と秩父 2‐三橋四郎事務所時代 3‐不動貯金銀行函館支店 4‐函館海産商同業組合 5‐函館市立病院 6-大正10年・函館大火 7‐亀井喜一郎邸 8‐爾見淳太郎邸 9-石塚商店 10-泉泰三邸 11-仁壽生命函館支店 12-百十三銀行本店 13-泉合名会社湯川住宅 14-函館競馬場建設 15-昭和9年・函館大火 関根要太郎の故郷・秩父 **************** ☆函館の建物案内 ☆函館銀座通コレクション ☆函館末広町コレクション ☆函館下見板コレクション ☆函館大町・弁天町探訪 ☆函館の復興小学校 ☆函館レプリカ建築探訪 ★函館・坂のある町の風景 ★函館・懐かしの建築 ------------------- ■木田保造について ■木田保造作品〔函館〕 ■木田保造作品〔東京〕 ■木田保造作品〔関東〕 **************** ◆明治モダン建築探訪 ◆大正モダン建築探訪 ◆昭和モダン建築探訪 ◆平成モダン建築探訪 ◎日本近代建築探訪 ◎海外建築探訪〔中国〕 ◎海外建築探訪〔台湾〕 ※私事、その他 最新の記事
検索
以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 more... 記事ランキング
お気に入りブログ
“はなみずき” 北欧建築ゼミ アアルト Ever Green のんびりいこうよ K's Sweet Ki... フィレンツェ田舎生活便り2 くーぽあ・くーぱー不定期便 ヴォーリズを訪ねて 窓の図鑑 近代建築Watch 近代建築ゼミ Moder... レトロな建物を訪ねて ezzoforte 中国・青島@建築探訪記 我愛西安!住んで発見 essay biblio... 函館 ・ 弥生小学校の保... 東京の水 2009 fr... 近代建築写真室@武蔵野台地 台湾のたびしおり I shall be r... 道南ブロック博物館施設等... カセットテープ収蔵品展示館 Anthology -ま... road to arch... 水徒然 団塊鉄ちゃん気紛れ撮影記 ルソイの半バックパッカー旅 旅行先で撮影した全国のコ... 光の射すほうへ 妖しく美しく 神奈川徒歩々旅 続・ちょっとそこまで 青山一樹 水彩画のひととき 続々・ちょっとそこまで 最新のコメント
当研究室ご来訪の皆様へ
◆当ブログのタイトル『関根要太郎研究室@はこだて』は、大正から昭和初期に函館をはじめ日本国内で活躍した建築家の故・関根要太郎氏を紹介したく付けさせていただきました。また、関根氏の作品の他にも、同氏の設計作品が多く残る函館の歴史的建造物や、同時代のモダン建築なども紹介しております。
◆このブログの写真は当サイト製作者の撮影によるものですが、それだけでは全てを紹介しきれないため、大正から昭和初期に発行された当時の書籍・建築関連の雑誌・新聞等の記事・図版を一部転載しております。またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。 なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 ◆当ブログ製作者は、建築業や建築学に携わっていない、素人研究家です。建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。そのつど御指摘していただければ幸いです。 ◆本ブログ掲載の写真および図版、記事内容の無断転用はご遠慮ください。但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません(大した写真では御座いませんが・・・・)。もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。なおその際は、当ブログの出展である事を明記お願いいたします。 ◆また本ブログの記事内容と関連のないコメント、トラックバックは削除させていただく場合もございますので、予めご了承ください。 **************** ★excite以外のリンク --------------------- ❖分離派建築博物館 ❖収蔵庫・壱號館 ❖新・我愛西安、観光と生活情報 ❖建築ノスタルジア ❖トロンボーン吹きてっちゃんの独り言 ~函館応援プログ~ ❖虚数の森 Forest of im aginary number ❖MEGU 「めぐ」を究めよう ❖建築日誌 ❖中央区立明石小学校の保存活動 タグ
函館(500)
東京(235) 関根要太郎(131) モダン住宅(明治・大正・昭和初期)(75) 埼玉(75) 木田保造(55) 横浜(54) 不動貯金銀行(48) 弁天・大町(43) 擬洋風民家(42) ユーゲントシュティル(36) モダニズム(36) 京都(35) 復興小学校、戦前築コンクリート校舎〔東京〕(32) ドイツ表現派(31) アールデコ(30) 山中節治(29) 秩父(29) ルネサンス(27) セセッション(26) 銀行・事務所建築(函館)(25) 神戸(23) 小南武一(22) 函館海産商同業組合事務所(22) ゼール、デ・ラランデ(21) 函館銀座通り(19) ロマネスク(16) 旧亀井邸(16) 和風モダン(15) 北九州市(15) 三橋四郎(15) ゴシック(15) ライフログ
ブログジャンル
画像一覧
|
関根要太郎肖像(関根家蔵) この項では、建築家・関根要太郎(1889~1959)の経歴を簡単ながら紹介したいと思います。 また経歴については私の調査のほか、関根要太郎のご遺族のお話、同家に所蔵されている自伝『生い立ちから今日まで』(昭和11年)、東京大学生産技術研究所・藤森研究室所蔵の堀勇良氏(現・文化庁勤務)収集の資料、関根家に寄贈された北海道大学院卒業の永井義浩氏の卒業論文『建築家・関根要太郎、戦前期の建築活動』なども参考させていただきました。 --------------------------------------------------------------- 1・生い立ちから建築家になるまで(1889~1910) 関根要太郎は明治22年(1889年)10月22日に埼玉県秩父にて生まれ、秩父市内で育ちます。明治37年、秩父大宮尋常高等小学校を卒業した関根は、同年に秩父郡立農学校(現・県立秩父農工高校)に入学。またこの頃、関根は初めて東京を訪れ都会の華やかさに魅了されたといいます。明治40年に秩父農学校を卒業した関根は、大志を抱き上京。千住にて土木請負業を営む遠縁の家に寄宿します。 当初は神田の正則学校(現・正則高校)で英語を学んでいましたが、世話になっていた遠縁の家が土木業を営んでいた事もあり、工業学校(明治工科専門学校?)へ改めて入学。その後、神田で一人暮らしを始めた関根でしたが、当時は日露戦争直後で不況の真っ只中、夜間の守衛、実測係、製図の下請けなどの仕事を転々とします。そのような状況のなか、関根は必死に建築関係者に自分を売り込んでいたそうです。 そして明治42年には、その努力が実り、当時東京市の技師を努めていた小林鶴吉の紹介により、群馬県高崎の高崎南尋常小学校(現・高崎市立南小学校)の校舎新築工事の現場監督を担当します。1年後、校舎新築の仕事を終えた関根は再び上京。帝国大学卒で逓信省や東京市の技師を歴任していた、建築家・三橋四郎(1867~1915)の設計事務所へ就職するのです。 ***************************************************** 2・三橋四郎事務所から東京工業高校入学(1911~1914) 明治43年ころ、関根は三橋四郎の設計事務所に就職しましたが、当時この事務所では国内の仕事のほか、中国・東北地方に新設される日本領事館の新築設計の仕事も手掛けていました。関根も牛荘と瀋陽(旧称・奉天)両領事館の新築工事のため中国へ渡ります。この時期は日露戦争後の混乱期で、ここでの仕事は当時22~3歳の関根にとってはかなり刺激的なものだったようです。 この仕事の帰りに関根の師匠である三橋四郎に連れられ、当時ロシア式アールヌーヴォー建築が多く建てられていたハルビンを見物しています。これは個人的推測ですが、ハルビンでのアールヌーヴォー建築との出会いは、建築家の卵だった関根にとって何かしらの影響を与えたと思います。 また国内の三橋事務所設計の建物は、オーストリアで20世紀初頭に流行した新様式『セセッション』の影響を受けた、とてもモダンなスタイルの作品を次々と発表しています。また、この事務所には関根のほか、大正末から昭和初期にかけて関根の片腕として活躍する蔵田周忠(1895~1966)も在籍していました。 〔※1〕不動貯金銀行は戦後の協和銀行の前身になる貯蓄銀行。大黒様をメインキャラクターにしたり、口座名に『ニコニコ貯金』と名付けるなどの一般大衆受けの広告戦略を展開し、昭和10年代には当時『五大銀行』と呼ばれていた、第一・三井・住友・安田・三菱の各銀行と肩を並べるほどの預金額を誇っていた。 〔※2〕『日本建築株式会社』は、大正6年、親会社である不動貯金銀行の組織変更のため『日本勧業会社建築部』と改称。 **************************************************** 3・日本勧業会社時代から事務所設立(1914~1920) 大正3年、関根は不動貯金銀行の店舗営繕を手掛ける設計事務所に就職しましたが、当時の不動銀行は第一次世界大戦後の日本国内での好景気に乗り、全国各地に新規出店を展開していました。入所まもない関根も設計主任として店舗設計を手掛けることになり、入所から数年のあいだ、北は札幌から南は鹿児島まで全国各地の都市へ不動銀行の店舗新築工事のため出張するという、慌しい生活を送りました。また関根の実弟である山中節治(1895~1952)も、この事務所に就職し兄弟で共同設計を始めます。 関根の設計する銀行店舗は、ドイツで20世紀初頭に流行していた『ユーゲントシュティール』のエッセンスを取り入れたモダンな作風で、当時一般大衆向けの建築雑誌『建築世界』では、たびたび関根・山中兄弟の作品が紹介されました。当時は大学卒の建築家が主流を占めていた建築界で、高卒の建築家が建築関連の雑誌を賑わす事は、かなり珍しかった事だと思います。 当時の銀行は西欧の古典主義的な建築が好まれるなか、関根たちの手掛けたモダンな銀行建築はかなり異色なものだったようで、不動銀行の幹部のなかには「まるでカフェみたいだ・・・」と愚痴る人もいたそうです。しかし、不動銀行は一般大衆向けの貯蓄銀行、関根の設計するモダンな銀行店舗は、その後の同行の躍進に一役買ったと思えます。 また、これから本業である不動銀行の店舗設計のほか、函館でも多くの建築設計を手掛けるようになるのです。 ======================== 主な設計作品(大正5年~大正9年) 〇不動貯金銀行静岡支店 〇 〃 上野支店 〇 〃 鹿児島支店 〇 〃 岡山支店 〇 〃 小樽支店 〇 〃 松山支店 〇 〃 門司支店 〇 〃 津支店 〇 〃 宇都宮支店 〇 〃 金沢支店 〇 〃 高岡支店 〇 〃 呉支店 〇 〃 大牟田支店 〇 〃 彦根支店 〇 〃 湯浅支店 〇 〃 長崎支店 〇 〃 豊橋支店 〇 〃 四日市支店 〇 〃 函館支店 〇函館海産商同業組合事務所(函館) 〇津田銀行本店(岡山) -------------------------- 寄稿 ★『建築に関する定期刊行物の不信』、〔建築世界〕大正8年 ***************************************************** 4・関根建築事務所設立(1920~1931) 大正9年4月、関根要太郎と山中節治は東京・銀座に『関根建築事務所』を設立。不動銀行の店舗営繕を引き続き担当するほか、函館のオフィス・病院・邸宅などの設計、仁寿生命(戦後の東京生命、現・T&Dフィナンシャル生命)の店舗設計等の仕事を受け持ちます。また大正12年の関東大震災後には、辰野金吾設計の日本銀行本店(明治28年築、東京都・日本橋)の修復工事も担当しました。 その後、山中は独立し、三橋事務所時代の後輩・蔵田周忠が関根建築事務所のチーフデザイナーを努めます。蔵田の存在は、モダン建築を多く設計していた関根の事務所に、『ドイツ表現派』や『インターナショナルデザイン』など、更に最先端の作風を吹き込むことになりました。函館に現存する百十三銀行本店(現SEC電算センタービル、大正15年築)、東京・調布の京王閣(昭和2年築、現存せず)、東京・麻布の坊城俊良邸(昭和3年築、現存せず)、東京・多摩市の多摩聖蹟記念館(昭和5年築)などが代表作としてあげられます。 また大正13年に関根建築事務所は、山形県・米沢の五色温泉に建設が決まった皇室関係者のスキークラブ『六華倶楽部』ロッジ(現在・仙台市へ移築中)の設計を担当。このスキーロッジは翌14年初頭に竣工しますが、竣工まもないスキーロッジに秩父宮・高松宮両殿下がご来訪。設計者の関根もこの場に居合わせ、両殿下のスキーのお供をします。ここで秩父宮殿下と関根は親しくなったようで、同年5月に関根の故郷・秩父にある三峯山神社を秩父宮殿下がご登山された時にも関根は同行する事になりました。また、秩父・三峯山神社では同殿下のご来訪を記念する会館の建設が決定し、関根事務所の設計により昭和6年に竣工させています(現在非公開)。 そして昭和4年10月には不動貯金銀行頭取・牧野元次郎の援助により、アメリカへ建築視察旅行へ赴き、二ヵ月半の滞在でニューヨーク・シカゴ・デトロイト・ロスァンジェルスなどの主要都市を巡りました。また翌年には雑誌『建築世界』において、「米国遊記」というタイトルで米国視察報告を連載しました。======================== 主な設計作品 (大正9年~昭和5年) 〇函館市立病院外来診療棟(函館) 〇亀井喜一郎邸(函館) 〇石塚〔イチヤマ〕商店(函館) 〇爾見淳太郎邸(函館) 〇泉泰三邸(函館) 〇泉泰三湯の川別邸(函館) 〇不動貯金銀行福岡支店 〇 〃 仙台支店 〇 〃 札幌支店 〇 〃 奈良支店 〇 〃 新潟支店 〇 〃 長岡支店 〇 〃 甲府支店 〇 〃 八幡支店(滋賀) 〇 〃 丸亀支店 〇 〃 明石支店 〇 〃 姫路支店 〇 〃 佐賀支店 〇 〃 直方支店 〇 〃 徳島支店 〇 〃 加古川支店 〇 〃 岸和田支店 〇 〃 名古屋支店 〇 〃 松阪支店 〇 〃 久留米支店 〇 〃 熊本支店 〇仁壽生命仙台支店 〇 〃 横浜支店 〇六華倶楽部(山形、現在仙台市内に移築中) 〇東京府少年職業相談所(東京・飯田橋) 〇成城学園初等部校舎・講堂(東京) 〇京王閣遊園地(東京・調布市) 〇百十三銀行本店(函館) 〇 〃 東京支店(東京・日本橋) 〇村林ビル(東京・江東区) 〇日本郵船社員倶楽部(東京・芝) 〇不動貯金銀行直方支店〔再建〕 〇 〃 横浜支店 〇 〃 大阪西支店 〇 〃 白山支店(東京) 〇 〃 上野支店(東京、再建) 〇 〃 九段支店(東京) 〇 〃 乃木坂支店(東京) 〇仁壽生命名古屋支店 〇 〃 本店(東京・内幸町) 〇坊城俊良邸(東京・麻布) 〇多摩聖蹟記念館(東京・多摩市) 〇不動貯金銀行七条支店(京都) ------------------------------------- 主な著作、論文、寄稿 ★『家を改築せる経験』、〔新住宅〕大正9年 ★『私の書斎兼応接室と其の机』、〔新住宅〕大正10年 ★『北海道より』、〔新住宅〕大正10年 ★『函館大火調査報告』(西村好時、森田慶一と共同発表)、〔建築雑誌〕大正10年 ★『奈良に建てられたる不動銀行に就いて』、〔建築世界〕大正10年 ★『新コンクリート住宅より』、〔建築新潮〕大正13年 ・・・・・関根建築事務所設計による函館・泉泰三邸の解説を泉家夫人のマサエさんに依頼 ★『銀行の平面計画』(共著・蔵田周忠)、昭和4年、洪洋社 ★『AS会感想』、〔建築画報〕昭和4年 ★『米国遊記、1~4・追加』、〔建築世界〕昭和5年 ****************************************************** 5・不動貯金銀行営繕課時代(1931~1942) 昭和6年、関根はこれまでの激務がたたり体調を壊したなどの理由から、『関根建築事務所』を解散。大正3年より店舗設計の仕事を手掛けていた不動貯金銀行専属の建築家になります(営繕課長というポストを与えられた、そののち営繕部次長に昇格)。またこの頃、大正末期から共同設計を手掛けていた蔵田周忠とのコンビも解消、これまでのモダン路線から銀行店舗だと西欧の古典主義的なクラシカルな作風、邸宅などでは純和風の作風に転向しました。そして、この頃から建築の耐震性に関心を示すようになり、東京高等工業学校の後輩である建築家の岡隆一(1901~?)考案の『免震構造』を、自らの設計作品に採用しています。 日本の戦局が厳しくなりつつあった昭和17年、関根は不動貯金銀行を退職。大正3年に日本建築会社に入社以来28年の間、関根が手掛けた不動銀行の店舗は延べ100軒以上にのぼっています。 =========================== 主な設計作品 (昭和6年~昭和20年まで) 〇秩父宮殿下三峯山御登山記念館(埼玉・秩父市) 〇永藤パン喫茶部(東京・上野) 〇不動貯金銀行日本橋支店(東京) 〇 〃 大阪北支店 〇 〃 岐阜支店 〇 〃 仙台支店〔再建〕 〇 〃 姫路支店(兵庫) 〇 〃 下関支店 〇牧野元次郎〔不動貯金銀行頭取〕別邸(神奈川・鎌倉山) 〇寺本五郎邸(東京・六本木) 〇柳井信二邸(東京・渋谷) 〇宗源邸(東京・池上) 〇前田邸(東京・池上) 〇泉泰三・湯の川別邸増築計画案(函館) 〇不動貯金銀行函館支店〔再建〕 〇 〃 新宿支店 〇 〃 熊本支店〔再建〕 〇 〃 浅草支店 〇 〃 徳島支店〔再建〕 〇 〃 浜松支店 〇 〃 熱田支店 〇 〃 兵庫支店 〇 〃 川崎支店 〇 〃 池袋支店 〇 〃 渋谷支店 〇松菊庵(神奈川・厚木) 〇竹生島アパート(埼玉・浦和) 〇鳩の家アパート(埼玉・浦和) ----------------------------------- ❖昭和6年~昭和17年、不動貯金銀行営繕課・課長~同銀行営繕部次長 ❖昭和11年~昭和12年、日本建築士会理事 ❖昭和13年~昭和14年、日本建築学会理事 ------------------------------------ 主な寄稿、論文 ★『秩父宮殿下三峯山御登山記念館に就いて』、〔日本建築士〕昭和7年 ★『貯蓄銀行の計画と朝鮮貯蓄銀行本店新築懸賞応募に就いて』 『某銀行懸賞応募の平面計画及び批判並びに審査に当りての所信を問う』 『某行新築懸賞応募の結果に鑑み懸賞競技に対する私見を発表す』、 〔建築世界〕昭和7年 ★『商店建築に就いて』、〔建築世界〕昭和8年 ★『旅泊余滴、1~15』、〔日本建築士〕昭和9年~昭和14年 ★『函館市の火災報告』、〔日本建築士〕昭和9年 ★『上手な家の建て方に就いて』、〔建築雑誌〕昭和9年 ★『免震構造の実施に就いて』、〔建築雑誌〕昭和10年 ★『硝子の戸締上の欠陥を法律に依って補う可し』、 〔建築雑誌〕昭和10年 ★『生い立ちから今日まで』、自伝・私家版、昭和11年★『あめりかの宿』、〔建築世界〕昭和11年 ★『不燃建築の無償実現に就いて』、〔建築世界〕昭和11年 ★『木造建築の免震基礎に就いて』、〔住宅〕昭和12年 ★『建築家よ更に多くの夢を見よ』、〔建築雑誌〕昭和12年 ★『二長町市村座の建築に就いて』、〔日本建築士〕昭和13年 ★『不燃都市の建設と共同建築に就いて』、〔建築雑誌〕昭和14年 ★『不動産投資法としてのフレンチ案解説』、〔日本建築士〕昭和14年 ★『悲しき馬子』、〔木田保造伝記〕昭和16年 ・・・・・この前年に亡くなった建築家・木田保造への追悼文 ***************************************************** 6・埼玉での晩年の活動(1942~1959) 戦争の激化を機に関根は住まいを東京・麹町から郷里の埼玉・浦和へと移します。また終戦まもなく関根は、昭和4年の米国視察時より親交のあった永藤鉄三郎(1881~1958)氏が経営する『永藤パン』の上野と日本橋の店舗再建設計を手掛けます。その後、藤木工務店に2年ほど勤務し、再び自らの設計事務所を開設しますが、戦後の混乱期で大きな仕事は得られなかったようです。また昭和26年には、病に倒れた弟の山中節治にかわり、山中設計の秩父産業館と秩父三峯山国立公園記念館(ともに現存せず)の仕事を引き継ぎ完成させましたが、残念ながら山中は翌27年1月に57歳という若さで亡くなりました。 またこの頃、関根に大きな転機が訪れます。かって関根が店舗設計を手掛けていた不動貯金銀行の元幹部の紹介により、埼玉県・桶川の公立小学校の設計の仕事を引き受けることになります。しかし、当時の桶川をはじめとした埼玉の地方自治体は慢性的な予算不足。そこで関根は、東京工業高校時代の後輩・岡隆一氏が開発した『平衡構造工法』を用い、昭和27年に通常の半額ちかい建設費で木造の校舎を竣工させます。 また、この年には火災で役場の庁舎を失っていた桶川の隣町・上尾の役場の新庁舎設計を引き受け、翌28年に低予算ながら鉄筋コンクリートの新庁舎を竣工させました。関根が手掛けた桶川と上尾のローコスト建築は、埼玉の地方自治体関係者のあいだで評判となり、この後関根は桶川・上尾のほかに鳩ヶ谷・戸田・羽生・長瀞・両神・大滝・朝霞などの庁舎・公民館・公立学校の校舎などの設計を引き受けました。この他には東京・銀座三原橋の明祐国際会館、東京・芝の共立薬科大学の校舎の設計を手掛けています。 現在、関根の遺骨は、故郷・秩父の山並みが遠くに望める埼玉のとある公園墓地で安らかに眠っています。 ========================== 主な設計作品(昭和20年~昭和34年まで) 〇上野・永藤パン店舗(東京) 〇日本橋・永藤パン店舗(東京) 〇桶川町立北小学校(埼玉) 〇上尾町役場(埼玉) 〇桶川町立中学校(埼玉) 〇上尾市立中央小学校(埼玉) 〇上尾市立上尾中学校(埼玉) 〇県立上尾高等学校(埼玉) 〇両神村立中学校(埼玉) 〇羽生市立手子林小学校(埼玉) 〇羽生市立西中学校(埼玉) 〇長瀞町役場(埼玉) 〇鳩ヶ谷町立小学校・中学校(埼玉) 〇共立薬科大学・講堂、図書館、教室(東京・芝) 〇明祐国際会館ビル(東京・銀座) 〇上尾町文化会館(埼玉) 〇朝霞市立第一中学校(埼玉) 〇大滝村立小学校・三峰分校(埼玉) 〇戸田市立戸田中学校体育館(埼玉) 〇戸田市立第二小学校(埼玉) 〇上尾市立中央小学校増築(埼玉) -------------------------------- ❖昭和27年~昭和30年、埼玉県建築士会理事長 ❖昭和30年~昭和34年、 〃 顧問 --------------------------------- 論文、追悼記事 ★『考え直してみる事など』、〔埼玉建築士会〕昭和29年 ★『廊下の無い学校、羽生市立手子林小学校』、〔近代建築〕昭和30年 ★『関根中谷両氏の逝去に寄せて』、〔埼玉建築士会〕昭和36年・・・・・・埼玉県建築士会・内山勝衛氏による追悼文 ※この項目は、この後訂正・加筆する可能性がありますので、ご了承ください。
by sy-f_ha-ys
| 2007-06-17 23:45
| ★関根要太郎について
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||